第3話 新入社員
「新入社員?」
見本誌の確認に勤しんでいたオレリアは手を止め、紙面から顔を上げた。
普段はウーティス率いるアルバス・カンパニーの社員たちに任せきりになっている『月刊・同時代』も新年を迎えるにあたって特集号を刊行することとなった。刷り上がりも念のため目を通してほしいと頼まれていたが、中々の出来だ。
「そうなんだ。預かってほしいと、父上がね」
オレリアと同様非公開の外部顧問として出入りしているリシャールにも、確かに人事権はある。しかし、リシャールの表情が優れないことから察するに、あまり喜ばしい話ではないようだ。
リシャールの父、つまりオーウェン2世はこのレフコス王国に君臨する王である。彼がわざわざねじ込んでくる人事に何の意図もないと考えるほうが不自然だろう。
「まあ、陛下からお預けいただくのであれば丁重に遇するのも吝かではありませんが……その方はどこのどなたなんですか?」
「その……」
口ごもるリシャールに、オレリアは眉を上げた。
昨年の9月に互いの秘密を共有して以来、二人の関係は少しだけ変わった。言いたいことは言いづらくてもちゃんと言う、わからないことは聞きづらくてもちゃんと聞く。そんな約束を交わした。
だから、彼がこうして言い淀む姿を見るのは少し久しぶりだった。
「どうやら直接会ったほうが早そうですね。今どちらに?」
「応接室に来てるよ、たぶん」
「……すぐ行きましょう」
オレリアは見本誌を机に放り出して、編集部のオフィスを後にした。
社員の教育に不安があるわけではない。傭兵団「赤火の虎」から引き抜いた後方人員を中心に、アンナとウーティス、そしてオレリアが教育した優秀な社員たちだ。
雇い主を現地で選んで各地を転戦する傭兵団の形態上、彼らは戦闘要員以外の団員を多く抱えていた。洗濯婦や会計士、料理人、変わったところだと敵陣に潜入する娼婦もいる。
しかし、現在彼らの主な人員はオレリアの私兵としてホプトン男爵領で開発中の鉱山を雪賊から守る警邏活動を受け持っている。拠点がある以上必要な人手は減る。
そこで受け口となったアルバス・カンパニーは人員が補充されたことで追加の印刷機を導入し、今や雑誌の出版だけではなく大量印刷の代行として大陸全土に知られる企業となった。
優秀な社員たち、順調な業績、日に日に増える好意的な問い合わせ。全てが喜ばしいのだが、大きな問題も抱えている。
「失礼します」
「――さあ、ここから先は一瞬たりともまばたきめさるな! あっと言うまもなく、この純白の箱が……おや、顧問のお二人ではないか」
この社長である。
ウーティス・アルバス。オレリアが与えたその名を今も名乗っている彼女は、一応このアルバス・カンパニーの社長であり創業者であるということになっている。まだこの世界には登記簿という概念がないが、少なくとも公にはそういうことにした。
オレリアから見ても悲惨な過去を送ってきた彼女だが、平和で愉快な生活を得た反動か、それとも生来の性分なのか、相変わらず手品師として人を愉しませることを趣味としている。
応接室にわざわざ七輪を持ち込み、寒い中窓を開けて新年祝い用の餅を焼いている。炭火で膨らむ餅を手品と呼ぶべきかは、オレリアにも判断が付きかねる。
「ちょうどいいところに。今こちらのお客様に軽食をご用意していたのだが、食べていくかね」
「ウーティス、私はそのお客様がご到着したという連絡をいただいていないんですが、これはどういうことですか?」
オレリアが魔術で換気しながらウーティスを睨むと、彼女は少し気まずそうに頬をかいた。彼女は社長だが、同時にオレリアの部下でもある。
来客用のソファで身を乗り出して餅が膨れる様を見ている彼女がどのような人物なのか、誰からも情報を得られていない。これはよくない流れだ。
長く伸びた黒い髪、どこかアジア系の幼さを感じる顔立ち。身にまとう衣服は町民風にしてあるが、素材を見れば「お忍び用の衣装」であることはひと目で分かる。
レフコスの王族同様勇者の血を引いているのかとも考えた。しかし、リシャールと同年代に見える彼女が存在しうるとしたら庶子か、もしくは外戚の先祖返りだ。そしてどちらもそんな噂は聞かない。
事前情報も事前準備もないまま始まるトラブルがオレリアは何より苦手だ。
胸中のささくれだった些細な苛立ちは、他ならない客人の発言で解消された。
「――叱責は不要。拙が伝えるなと言った」
「……まずは、ご挨拶が遅れましたことをお詫び申し上げます。私はオレリア・アルノワ。このアルバス・カンパニーで社長の友人として外部顧問を務めております。こちらは同じく外部顧問のリシャール・エルメット殿下です」
「知っている」
「……お名前をお伺いしても?」
「迂闊。名乗られたら名乗り返すのが常識だったと教えられていたが、実行の機会を見誤った」
まるで自己紹介を知らないかのような口ぶりにオレリアは内心で奇妙さを覚えたが、何も口にしなかった。奇妙さには奇妙さの理由がある。
しかし、彼女の名乗りを聞いてもなお表情を変えないでいられるほど、オレリアは無神経ではなかった。
「主の敬虔にして忠実なる下僕、枢機卿であらせられるシエナのノワイエ猊下より、スルダと拝命。よって、拙はスルダと呼ばれるのが妥当」
咄嗟に笑顔を作れた自分を心底褒めてやりたい。
目の前で行儀よく膝に手を添えて座り、膨らむ餅から目を離さない彼女は、どうやらオレリアにとってとびきりの爆弾だったようだ。
オレリアは新年早々負荷のかかった心臓を撫で下ろした。
まるで作りもののような完成された不自然さ。枢機卿から直々に名を与えられたという名乗りが何を意味するのかはわからないが、少なくとも教会にとって特別な存在であることは間違いない。
それがこうしてアルバス・カンパニーを訪ねてきた。国王の差配によるものである以上、悪意はないのかもしれない。しかし、オレリアは教会とあまり良好な関係ではないし、相手方も好ましくは思っていないだろう。
1346年にオレリアが引き起こした聖堂街の乱はガロア王国と教会の両方にとって痛手だった。オレリアは今も間違ったことをしたとは考えていないが、やり方を間違えた大失敗の記憶として今もたまに夢に見る。
スルダが教会から送り込まれてきたのは間違いない。しかし、目的が謎だ。ひとまずオレリアは下手に出ることにした。
「……なるほど。それは遠いところからはるばるお越しくださったようで。はるか貴きシエナの地にまでアルバス・カンパニーの名が届いているのであれば、外部顧問として私も喜ばしく思います」
「否。拙はあるばす・かんぱにぃを存ぜず。猊下の命によりこの国に運ばれ、王の命によりこの地を訪ねた」
「左様でしたか。それは恥ずかしい早合点をしてしまいました」
「王より文を預かっている」
スルダが懐に手を入れた瞬間、部屋の空気がわずかに緊迫した。
この社屋は過去に三度刺客の襲撃を受けている。一度は印刷機の奪取と独占を目論んだもので、あとはオレリアの命を狙ったものだ。
印刷機はいずれ製法を公開するが、オレリアの命は代えがきかない。社員たちにとっても衝撃が大きかったらしく、今はアンナが自ら選んだ護衛がオレリアにもわからないように潜伏している。
しかし、スルダが懐から取り出して差し出したのは凶器でもタリスマンでもなく、羊皮紙の切れ端だった。
王からの手紙ということでオレリアやウーティスよりも適任だろうとリシャールに視線で促すと、リシャールは貼り付けた勇者らしい表情をわずかに強張らせながらも手紙を受け取った。
「……スルダ嬢。この内容は貴女も確認されたものかい?」
「無論。同意した」
「そうか。意味もちゃんと説明を受けた?」
「説明はあった。拙の無知ゆえに理解は及ばなかったが、悪意を感じなかったため承諾の返事をした」
「それは……困ったなあ。どうするんだい、オレリア」
リシャールの手に握られた羊皮紙の切れ端。王の署名が施されたそれには、こう書かれていた。
この者、聡明かつ貴き生まれなれど見聞深からず。アルバス・カンパニーの新人社員として教育されたし。
なお、身元引受人としてオレリア・アルノワの助力を強く望む。
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