第2話 枢機卿
終生を信仰に捧げる修道士たちの終の棲家、修道院。聞こえはいいが、信仰のために人生を棒に振った連中とそれにたかる蠅のたまり場だ。
敬虔な修道士と、そのささやかな生活を支える助修士によって営まれる健全な修道院ももちろん存在する。街道を守り信徒を助ける修道騎士たちの拠点として機能する修道院も各地にある。
しかし、信仰は目を曇らせる。神を言い訳に使えばどんな欲も正当化される。そして、一度その心が濁れば、あとは転げ落ちるだけだ。
そして、ここはとびきりの肥溜めだった。
「――そいつで最後か」
部下が引きずって連れてきた男の胸には修道士のタリスマンが光っている。
神は彼の祈りに応えるだろうか。応えるなら、彼の顔が変色するまで殴りつけた部下はどのように裁かれるのだろうか。
聖職者への暴力は神の望みではない。だから、ベルナールは手に持った細剣で彼のタリスマンを斬り落とした。
「ひいっ、やめてくれ、こ、殺さないでくれ」
「それは神が決めることだ、そうだろう? 人の生き死にを左右できるほど、人間ってやつは偉くねえんだよ。ただ、残念ながらお前に関して言えば……ほれ」
ベルナールが懐から抜いて投げ渡した羊皮紙に書いてある文字を、修道士だった男は片目で必死に読もうとしている。潰れた右目の痛みより、残った左目に見えた枢機卿の印璽のほうが彼にとっては重要だったのだろう。
聖職者らしい美辞麗句と神への崇敬を込めた詩、そして神の聖意に応えない愚か者への罵倒。それらを取り除けば、書いてある内容はたった一行にまとまる。
ガロア北東部ルグラン丘陵のルグラン修道院は堕落の巣である、討つべし。
「枢機卿猊下がお前たちの処分をご所望なんだが……追加注文があってな。死ぬ前に懺悔してけよ」
「な、な、何を」
「そうビビんなって、ご同輩。1340年かそこらに、ここの修道院から売られた娘がいただろ。上がそいつをご所望なんだよ」
ベルナールが屈んで視線を合わせると、男は噛み合わない歯を鳴らして震えながら神へ助けを乞うた。しかし、彼を助ける神はいない。
調べはある程度ついている。これは裏取りに過ぎない。ルグラン修道院に駆け込んだ修道女ユーラリーは教皇派の飼う異端の里に送り込まれた。
彼女の親族が発見できなかったせいで、ベルナールは足跡を辿るためにこの修道院へやってきた。この修道院が先ほど無人の廃墟となったのはついでだ。
「ユーラリーという女について知っていることを教えろ。死ぬならせめて、祈られて死にたいだろ?」
「ゆ、ユーラリーは、院長のお気に入りだった女だ! あれは淫売で、院長を堕落させた、だから……」
「だから売り渡した。相手は」
「わ、わからない。……待ってくれ、本当なんだ! 名は明かせないが、貴いお方のご意向なのだと。胸に内赦院のタリスマンを留めていた! 聴罪師なら信じて大丈夫だろうと思ったんだ!」
厄介な名前が出てきた。ベルナールが汚い言葉で悪態をつくと、隣に控える副官が眉をひそめた。
内赦院はシエナの教皇庁にある部局のひとつだ。聖職者の破門を赦免することを中心に、教皇の名のもとになされるあらゆる恩寵を担当している。つまり、教皇派の巣ということだ。
そしてその恩寵の執行者こそが聴罪師である。彼らは表向き告解を聞き届け、神の代わりとなって赦しを与えることを生業としている。どんな罪でも聞き届け、赦しを与え、死後の安寧を約束する。人々に愛される聖職の手本と言えるだろう。
彼らの役割はふたつ。情報の収集と、神の赦しが必要とされるほどの悪事だ。
「そいつの乗ってきた馬車は見たか」
「馬車……立派な馬車だった」
「間抜けが、馬車に家紋はあったかって聞いてんだよ」
「わからない、私は門閥のお歴々には詳しくないんだ! 月桂冠と星が扉に描かれていた。もう十分だろう!」
もう十分だ。
ベルナールは副官に男を引き渡し、立ち上がって小さく呻いた。いくら奇跡で癒せるとはいえ、50歳にもなると腰が痛む。
聖療院のタリスマンを取り出し、聖句を諳んじる。医療の聖職者としてガロアの宮廷にいた経験がこんなところで役に立つとは思ってもみなかった。
腫れ上がった顔で、男がベルナールを見上げる。まるで救いの手がそこに見えたかのように。
「主よ、聞き届けたまえ。この傷は御身がため、この痛みは御身がため」
「ああ、よかった……」
「聖意を代行するため、我がくそったれな腰痛を改善したまえ。……んだよ、治してもらえるとでも思ったか?」
彼を救う手などありはしない。
祈りに従って柔らかな光がベルナールの腰を包み、癒やす。健康の秘訣は躊躇わないことだ。
絶望の表情を浮かべ、行き場を失った手を中空に震えさせる男は、この後死ぬ。ベルナールは彼の名前も知らないし、他の修道士たちの死に様も見届けない。それは仕事に入っていない。
「さて、と。聞くことは聞いたし、あとは片付けといてくれ。アンリ、戻るぞ」
「は」
ベルナールが背を向けると、彼が最期の悲鳴を上げた。
部下たちは残虐だ。拷問を楽しんでいる。ストレスを発散することは大切だが、その残虐性を好ましいとは微塵も思わない。
宗教は信用の商売だ。銀行に近い。人々に愛され、信じられなくてはいかな奇跡があろうとも立ち行かなくなる。いずれ部下たちも矯正するか、もしくは処分しなくてはならないだろう。
懐から葉巻入れを取り出すと、副官のアンリが手慣れた手付きでマッチを擦った。
「ん、わりいな」
「そう思われるのでしたらいい加減に喫煙はやめていただきたいです。閣下は元医者でしょう?」
「元がつくから吸えんだよ」
夜闇の中で、ベルナールの吸う葉巻の火だけが明るい。
ベルナールという名前にも慣れた。マテウスだったころと違って気兼ねなく葉巻を吸えるのはいい。上司である枢機卿シエナのノワイエは死にぞこないの化け物だが、給料の払いはいいし筋も通す。
送られてきたときは使い道がわからないほどの馬鹿真面目だった生意気な副官もだいぶ育ってきた。
「アンリ。お前、あいつらのことどう思う」
「異端審問官の役割は必要悪です。神の正義を代行するために目を瞑るべき部分もあるでしょう」
「そういうことじゃねえよ、わかるだろ」
「……信仰を言い訳に、残虐な欲を発散していると思います」
「そうだな。俺もそう思う。だから先に帰って飯食おうってわけだ。あいつらが豚捌くみてえにはらわた引きずり出すの見た後じゃ飯が喉につかえる」
馬車の扉を開け、乗り込む。
シエナから迎えに来た馬車には枢機卿の生家であるカエターニ家の紋が刻まれている。彼もまた門閥の出自であり、この家紋を理解してなお馬車を襲う愚か者はいないだろう。
まだ拷問を続けているであろう異端審問官たちは別の馬車で帰る手筈になっている。これはベルナールの要求に基づくものだ。仕事帰りまで血なまぐさい連中と同乗したくはない。
「閣下は教皇派が武器を手にしたとお考えですか」
馬車が進みはじめるや否や、アンリは食らいつくように問いかけた。
枢機卿はユーラリーなどという一介の修道女の安否を心配しているわけではない。教皇派が力をつけた可能性を憂いているのだ。
教皇派がガロア北東部の鉱山に抱えていた隠れ里が明るみに出たのは、数ヶ月前のことだった。すでに揉み消しのための工作が行われた後だったが、廃坑の奥で白骨化した遺体の外套から手記が発見された。
手記の持ち主だった遺体は異端すれすれの研究を行っていた自然哲学者だった。自然哲学者、つまり神が創造した世界を理論と法則で読み解こうとする学者だ。
鉱山、自然哲学者、そして周辺で行方知れずになっていた複数の鍛冶師。
教皇派が何を作らせようとしていたのか、それを知る唯一の人物であるユーラリーを追って、ベルナールは再びガロアの土を踏むはめになった。
もし彼らが武器を手にしたのであれば、その浅はかさが世界を戦火で焼き滅ぼすこともありうる。
「……わからねえな。明らかにするしかねえ。馬車が本当にベナドゥーチ家のものだったのかも含めてな」
月桂冠に星。古き君主の冠に聖人の光という不遜な家紋は、シエナ最大の門閥である銀行家のベナドゥーチ家のものだ。
奇しくも彼らはベルナールの調査リストに載っている。ベナドゥーチ家からガロアへ、不自然な金の流れが生じている。複数の貴族や豪商を経由した大金。下手をすれば小国ひとつの国庫と並ぶ程度の額だ。
判明したのは聖堂街事件の調査が進んでからだった。
ノウァートス・ペレー。当時マテウスと名乗っていたベルナールが聖堂街を腐敗させるために選んだ駒だ。彼は金貨鼠と揶揄されるほど金勘定に聡く、そして命を落とすほどに欲深かった。
そのノウァートスが横領していた金の流れを辿り、ベルナールは金貨鼠の巣が誰かの蓄えで、どこかへと持ち出されていたことに気がついた。
教皇派の代表として、ベナドゥーチ家はマロツィアを後妻へとねじ込んだ。あまりにも手際がいいその動きは、まるでガロア内部にあらかじめ協力者を作っていたかのようだった。
年若い教皇を神輿とする教皇派は良くも悪くも欲が強い。ましてや当代の教皇は神託で選ばれた牧童。教皇派は近年ますます増長している。
「例の、星雲軍でしたか。あれに流れる可能性は」
「ねえな」
「断言なさるのですか」
「ねえよ。今のところは、と但し書きが必要だがな」
マロツィアが神の名のもとに召集した騎士たちは、南海の異教徒を征伐するという名目のもとに略奪行為を働いている。彼らが掲げる旗に印された象徴は無数の星で構成された雲、星雲。
星雲の旗が風に流れるのを見たら、荷物を捨てて風下に逃げろ。
ここしばらく行商人たちの中で流行っている警句だ。星雲軍は鼻の利く略奪者として名を馳せつつある。
星雲軍はベナドゥーチ家とガロア王国を資金源として威張り散らしている。それゆえに身なりは豪奢だが、実際は田舎者の集まりだ。初めて手にする富と名声に欲が際限なく膨らんでいる。
彼らが強力な武器を手にすれば、制御が利かなくなる。
今のところ教皇派の手綱を締めるイシドルスは獣に鉄の牙を与えるほど愚かではない。彼が教皇派を押さえているうちは無用な心配だが、教皇派が暴走すればそうも言っていられない。
「勇者の召喚が近いって時に、どうしてこうも迷惑な連中が増えるのかね。俺はうんざりだ。50歳だぞ。もう引退していい頃合いじゃねえか」
「残念ながら、閣下が引退できるのは主の御下に召される時だけです。そのときはできるだけ片付けていっていただきたい、私の手に負えない案件もあります」
「ちぇ、可愛げがねえ。伝書鳩に突っつかれて泣きべそかいてた坊やはどこに行っちまったんだかな」
「む、昔のことはよしてください!」
軽口を叩ける相手がいるのはいいことだ。部下たちのように暴力に頼らずとも気が休まる。悩み事が多い今、心労を和らげる方法は多ければ多いほどいい。
教皇派が勢いづき、ベナドゥーチ家から送り込まれたマロツィアがガロア王国を乗っ取りつつある。荒れる大陸で北方の商業都市群は大いに稼いでいるようだ。
一方でレフコス王国では、ベルナールを手こずらせた小娘が再び立ち上がった。以前とは違い、迂遠なやり方を取っている。知恵をつけた獣は恐ろしい。
教皇が受けた神託によって、枢機卿から新たな指示も出されている。汚れ仕事を担当するベルナールの仕事は山積みだ。それだけ世界は病んでいる。
切り開いて世界と並べて見比べれば、喫煙者であるベルナールの肺はとても綺麗に違いない。
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