第8話 怒りの杖

 ウーティスは退屈していた。

 仕事がないわけではない。降って湧いたアルバス・カンパニー社長という身分は暇を持て余すほど余裕のあるものではないからだ。

 印刷機のメンテナンスと整備用パーツの製造はウーティスにしかできない業務だし、最近は社員証の代わりとして万年筆と名付けられた新しい筆記具も発明した。

 しかし、新年を迎えてから2ヶ月間、ウーティスは退屈に悩まされていた。


「社長、買い出しにいってきますが、何かついでに買ってくるものありますか?」

「んー……お酒」

「まだ昼間ですよ」

「私だって時計くらい読めるさ。冗談だ、何か面白そうな香辛料とか日持ちのしそうな保存食があったら買ってきてくれたまえ」


 呆れた顔をする社員にひらひらと手を振って、指先で自作の万年筆を弄ぶ。

 水が細道に逃げたがる性質を活かしてインクを出すこの新しい文具は、現時点ではアルバス・カンパニーの関係者だけが所有している。

 インクと違ってウーティスに逃げ道はない。この部屋には窓すら設けられておらず、時計と腹具合以外の手段では時間を知ることすらできない。

 ここは社員の中でも一部だけが知っている特別な空間だ。持ち出し禁止の資料や製作途中の図面が置かれている。

 そして、ウーティスがこの2ヶ月軟禁されている部屋でもある。

 壁に貼り付けた地図には赤いピンが挿されている。そのピンが示すのは、足跡。かつてウーティスが教会の隠れ里から逃亡した際に寝床兼稼ぎ場として出入りした連れ込み宿だ。


「参ったなあ……参った」


 隠していた酒瓶を取り出し、噎せ返るような酒精を呷る。

 酒で麻痺させないと震えてしまいそうだ。

 ウーティスがこの部屋へ軟禁されたのは、スルダが新入社員として迎えられた翌日のことだった。オレリアから命じられた時は冗談かと思ったが、本当に外出を禁じられてしまった。

 直接の原因はふたつある。

 スルダを追って教会の異端的教派である聖餐主義者がレフコスに上陸したこと。

 ウーティスの足跡を辿って異端審問官が動きはじめていること。

 かつて教会の隠れ里で禁忌を学んだウーティスは、教会から指名手配を受けている。表向きは「修道院を脱走した」ということになっているが、異端審問官が真相を知らないはずがない。


「狂人どうし、共食いしてくれないものかな」


 ひとり、呟いた。

 もう3月が近いというのに、寒さがウーティスを蝕む。

 多くの信徒にとって、異端審問官は恐怖の象徴だ。

 些細な背信行為、たとえば博打や泥酔で人に迷惑かけた程度であれば各地の教会や修道院に併設された裁判所である聖庁裁判所で裁かれ、せいぜい罰金か奉仕活動で赦しを得られる。

 しかし、異端審問官が送られてくるというのは、「裁判の必要すらない異端」として凄惨に裁かれることを意味する。すなわち、祈りすらない残酷な死だ。

 ウーティスは幼い頃に一度だけ、彼らを目にしたことがある。故郷である沼地の村に異端の信仰で疫病をもたらそうとした魔女が潜伏していたのだ。

 突如現れた異端審問官は、一様に白い法衣を身に纏っていた。

 当時まだ5歳だったウーティスは、村の通りを行進する彼らを壁の隙間から覗こうとして、初めて父に殴られた。父はウーティスを黙って抱きしめ、扉を背にして震えていた。

 夕方にやってきた白い法衣はひどく目立ったが、日が沈むころに去っていた彼らの法衣はもはや白とは呼べない色に染まっていた。

 ミトラス教の聖職者は黒を尊ぶ。太陽の光を最も受け止められる色だからだ。

 だから異端審問官は自らの行いで法衣を黒く染める。


「……冗談じゃない」


 異端審問官は着実にウーティスの足取りを追っている。

 ルグラン修道院の粛清を皮切りに、彼らの白い法衣が西へ、西へと進んでいるのだ。その道中で連れ込み宿の悪どい女衒を裁き、贋作の祭具を市に並べていた行商人を裁き、飢えからパンを盗んだ異教徒の子どもを裁いて。

 ウーティスの頭の中に詰まった禁忌を、ウーティスごと消し去る。それが彼らの目的なのではないか。

 そう気づいてから、眠れない夜は増えていった。

 まったくもって冗談ではない。ウーティスの学んだ禁忌は教会によって与えられたものだ。それを教会が罰するというのなら、罰せられるべきは教会自身だろう。

 しかし、異端審問官はそんな自己弁護を認めない。


「――ウーティス、入るよ」


 返事を待たずに扉を引いたアンナが、酒臭さに顔をしかめた。

 彼女はオレリアとの連絡役だ。表向きは取材で遠方に出張しているということになっているウーティスは、直接オレリアと会うことも難しい。


「あんまりお酒に頼らないほうがいいわよ」

「酒? とんでもない、これは秘伝の霊薬さ。急な冷えと震えによく効く、とびきりいいやつだ」

「薬も過ぎれば、っていうでしょ。……あんたに聞いておきたいことがあるの」


 どうやら今日はオレリアの遣いとしてきたわけではないらしい。

 椅子にも座らず、閉じた扉に背を預けて、アンナは腕を組んでウーティスを見下ろしている。機嫌が悪いというわけでもないようだが、普段ほど明るくもない。

 ウーティスは同僚の中ではアンナが一番好きだ。食の趣味が合うし、手品を披露すれば種を明かそうと躍起になってくれる。きっと幼い頃に出会っていればいい友達になれただろう。

 しかし、そうはならなかった。

 薄々察してはいる。アンナはウーティスのことを内憂だと、オレリアが抱えたリスクだと見做しているのだろう。

 それでも、ウーティスはアンナをいい同僚だと思っている。


「何だね。君と私の仲だ、大抵のことは聞かれずとも答えるが」

「隠れ里で、あんたが作っていたものについて」

「……言わなかったか?」

「ええ」


 いつになく真剣な表情のアンナに、思わずウーティスは目を伏せた。

 ウーティスの師、名を奪われた自然哲学者は、教会が魔術の応用を禁忌として秘匿していることについて、こう語った。戦を激化させないための抑止だ、と。

 しかし、聖堂街の乱で教会内では多くの変革が生じた。

 優れた鍛冶師と金属の操り手によって、隠れ里はミトラスに祈りを捧げる祭具を作っていた。その隠れ里に指令が下ったのはその余波を受けてのことだ。

 そして、その余波で師は殺され、ウーティスは隠れ里から逃げた。


「思い出したくないことなのは、わかる。あんたがだらしない生活してても根っこでは真面目にやってるのも」

「……光栄だね」


 真面目に働いているのは、オレリアへの感謝があるからだ。

 貧しい名ばかり貴族だった叔父の鉱山は開発が進み、ホプトン男爵領は国内でも随一の錫鉱山を抱える豊かな領となった。オレリアが人を貸してくれたおかげだ。

 そして、ウーティス自身も指名手配を受けた背教者でありながら、日の目を見ることができた。


「ウーティス。私は姫様の、オレリア・アルノワの侍衛武官として知っておかなきゃいけないの。何が敵なのかを」

「……そうか。そうだろうな」

「姫様は、あんたが自分から言うまで待つって仰ってる。でも、それじゃあ遅いかもしれない。……あんたが作らされたは、何なの」


 ウーティスにとって最も思い出したくない、ずっと封じていた記憶。

 師は刺されたのではない。

 のだ。

 目を閉じれば、思い出そうとせずとも蘇ってくる。黒い鋼の孔から立ち上る煙、師の腹を貫く雷が。

 土の魔術で作られた精巧な鋳型によって、ミトラスの聖戦士のために生み出されたたったひとつの特別な武器。

 かつて勇者が作ろうとし、神託によってその計画を破棄したという真の禁忌を、ウーティスは命じられるままに犯した。


「槍のようで槍でなく、弓のようで弓でない。神の雷を代行する怒りの杖だ。……師が死に、私がいない以上、量産はされていないだろう。技術も工具も、それに至るための知識も不足している」

「怒りの杖……」

「私にそれを作るよう命じた男は、こう呼んでいたよ」


 銃、と。

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