第9話 ヴィクター・ガーナー

 ヴィクター・ガーナーはガーナー伯の名代である。

 このレフコス王国において、伯爵という地位は天から数えたほうが早い程度には高い。外戚に与えられる公爵、初代勇者と契りを交わした一族である侯爵を除けば、貴族の頂点に立つ存在となる。

 その名代。つまり、頂点のひとつを代理として受け持つ。

 17歳の若造にとっては分不相応な高みだと、陰で笑う者がいる。疫病神が老いたガーナー伯の生命を取り立てに来たと囃し立てる者もいる。

 そのような愚か者に限って、己を賢明にして忠実な臣であると誇って憚らず、勇者が王であることに一切の疑問を抱かない。


「若様。お客様がお待ちです」


 家令の呼びかけに返事をし、ヴィクターはインク壺に栓をして席を立った。

 養父であり家長であるジョージ・ガーナーはこの屋敷にはいない。修道騎士の務めを果たすと張り切り、愛馬に乗って街道を巡回している。

 主が不在の屋敷を若い名代が切り盛りしているとなれば、つけ込む余地があると見なして噛みついてくる者も少なくはない。女、酒、賭博、様々な形で誘惑が忍び込もうとしてくる。

 しかし、彼らの予想に反して、ヴィクターは決して弱みを見せない。

 ヴィクターには野心がある。こんなところで転んでいるわけにはいかないのだ。

 領主の書斎を後にし、客人の待つ地下へと階段を降りる。本来は領地で罪を犯した貴人を拘置するための地下牢はひどく寒く、そして死の匂いで湿っている。

 冷たく湿った死の匂いはヴィクターの肌によく馴染む。父のハンスも、その主であった侯爵ヘンリ・モンタギューも、この空気の中で死んでいった。

 そんな空気に満たされた牢を寝床とする者は、きっと正気ではない。正気ではないからこそ、ヴィクターは彼を客人として迎え入れた。


「お呼びですか」

「ああ」


 蒼い法衣を纏った男が、牢の冷たい石畳に粗末な茣蓙ござを敷いて胡座をかいている。

 太陽を神とする聖職者にあるまじき青ざめた肌。伸び放題の髪は粗布を裂いただけの紐で結わえられ、法衣の下に覗く胴は肋骨が浮き出ている。教えられなければ、誰もが彼を囚人だと思うだろう。

 しかし、彼と彼が腕に抱く奇形の杖はヴィクターにとって最上位の賓客だ。


「これを見ろ」

「これは……例のアルバス・カンパニーとかいう結社の商品ですか」


 表紙に『月刊・同時代 1350年2月号』と描かれた雑誌を茣蓙の上に広げられたガラクタの中から拾い上げる。

 元々彼の要望でヴィクターが買い与えているものだが、紙面には無数の書き込みがされて無惨な姿に変えられてしまっていた。

 貧乏貴族たちの中には読み終わった雑誌を売りに出す者もいる。そういった哀れな連中はできるだけ高値で売るために皮脂がつくことすら嫌い、手袋をはめて雑誌を読むという。

 ここまで汚して平然としていられるのは、ヴィクターが伯爵だからだ。


「2月号ということは、先月の記事ですか。星雲軍の大敗、盗賊騎士による略奪、綿花が病害で不作の兆し……なんとも、景気の悪い話だ」

「そこは重要ではない。記事の末尾を見ろ。文責にウーティス・アルバスの名が載せられている」

「……ふむ。彼女はここ数ヶ月、遠方への取材で不在なのでしたか。名義だけ貸しているのでは?」

「俺は聖職者だ。印刷だろうとなんだろうと、虚偽があればわかる。その記事は確かにウーティス・アルバスが書いたものだ」


 男はヴィクターに目を向けず、油を含ませた布で杖を磨いている。

 この不敬極まりない聖職者は、いくつかの目的を携えてシエナからはるばる辺境の島国であるレフコスへと渡ってきた。その目的のひとつとして明かされているのがウーティス・アルバスの誘拐だ。

 出版社という奇妙な結社の代表である彼女が何の罪で追われているのかはヴィクターにも明かされていない。ただ、教会にとって彼女の身柄は年単位の計画を練るのに値するものらしい。

 加えて、その目的のためだけに男は特別な武器を与えられている。

 怒りの杖と銘打たれた奇形の杖は、足を悪くした者が身体の支えとする松葉杖に似ている。見ようによっては蛮族が使う木の棍棒にも似ている。

 しかし、この杖は神の怒りを代行し、裁きの雷を放つのだという。


「奴は王都を離れてなどいないのではないか」

「しかし、彼女は目立ちます。2ヶ月丸々目撃情報がないのだから、いないと思うのが自然では?」

「建物の中に籠もっている可能性もある」

「2ヶ月も?」

「俺たちは目的のためなら何年でも地下に潜り続ける」

「それはあなたたちが異常だからです。常人なら気が狂う行いですよ」

「奴は常人ではない。奴の主もまた、常人ではない」


 吐き捨てるように言い放って、男は膝下に置かれた壺から一本の白い棒を取り出した。香油に漬け込まれてはいるが、纏う死の気配は消えていない。

 平然とした表情で手にした人骨を折り、薬研に放り込んで聖句を唱えながらすり潰す。あまりにも冒涜的な行い。しかし、神は祈りに応えて砕かれた骨に力を与える。

 聖餐主義者と呼ばれる彼らは、聖人の遺骸を腑分けし、奇跡の材料とする。


「……せめて僕が帰ってからにしてくれませんか、気味が悪いので」

「話が終わっていない。そしてこれは気味の悪い行いではない」

「世間的に人骨をすり潰すのは不気味なんです」

「ただの人骨ではない。千の魔術をたった一人で打ち破った偉大な守護聖人の骨だ」

「それは結構なことで……話の続きをどうぞ」


 粉になった人骨を紙の上に取り出し、慣れた手付きでガラス瓶に収めながら、男はようやくヴィクターに視線を向けた。

 落ち窪んだ眼窩の奥に、あかあかと火が燃えている。

 信じたくはないが、この悍ましい見た目で彼は途方もなく敬虔な信徒なのだ。信仰心ゆえに彼はレフコスへと渡ってきた。

 その圧に思わず一歩退いた己を恥ずかしく思うも、目を合わせる気にはならない。


「馬を用意しろ。王都で騒動を起こし、奴を炙り出す」

「来年4月の祝祭を狙う予定だったのでは? 僕もそのつもりで準備を進めていましたし、なにより今動いて対策を取られたら厄介ですよ」

「無論、手の内は明かさない」

「では、どのように?」

「聖女スルダを拐かす」


 当たり前のように彼が口にしたのは、当然ながら犯罪行為だ。

 年始に姿を見せて以来、シエナからやってきたスルダの噂はレフコスに広まりつつある。常識知らずで不器用だが心優しい異国の乙女。オレリアと対比するようにしてスルダの評判はみるみるうちに高まっていく。

 その容貌が勇者を思わせることもあって、レフコスの民はスルダを何かと気にかけている。彼女も人々に分け隔てなく接し、困っている者を見かければ誰であろうと助けようとする姿は、このままいけばいずれ歌にされるだろう。

 勇者の落とし胤とまことしやかに囁かれるスルダだが、目の前の男いわく、彼女の出自はそんな生易しいものではないらしい。

 聖女スルダは人の手で作られた勇者だ。

 そして、この男は聖女スルダを殺害することを命じられている。


「オレリア・アルノワの手勢はさほど多くない。金で動く悪党を使って聖女スルダを拐かし、手薄になった隙に奴の根城を漁らせる」

「聖女が手元に残ればそれでよし、駄目でもウーティス・アルバスの所在を確かめることはできる……そううまくいくでしょうか」

「うまくいかなかったなら補うのがお前に与えられた役目だ」


 無理難題をヴィクターに押し付けて、男は骨粉を納めたガラス瓶に色の違う粉末を何種類か混ぜ、再び聖句を唱えながら瓶を振りはじめた。

 口封じの容易な悪党にも心当たりがあるし、アルバス・カンパニーの建物を漁らせるための密偵も手配できる。問題はガーナー伯の立場を使えないことだ。表向き、ヴィクターは清廉潔白ということになっている。


「下手を打たないでくださいね。アルノワ嬢は女にしては頭の切れる相手です。あなたが一番よくおわかりかもしれませんが」

「……わかっている。あれを侮る気はない。兄弟たちの仇だ」


 男は瓶を振る手を止め、忌々しげに呟いた。

 聖堂街の乱として知られるガロアの事件で、男は同胞である聖餐主義者をオレリアの手で殺害されている。


「恨んでいるのですか、意外ですね。話を聞く限り、正義は彼女の側にあるように思えますが」

「兄弟たちは暴走し、罪のない者を傷つけた。それはそうだろう。哀れにも暴走させられた兄弟たちの彷徨える魂に救いあれ」

「暴走させられた……?」


 ヴィクターは男から直接事件のあらすじを聞かされている。

 聖餐主義者がオレリアの兄に劣情を催し、儀式にかこつけて誘拐したこと。その兄を救うため、オレリアが聖堂街に押し入ったこと。最終的にオレリアが聖職者の命を奪うことで儀式を中断させたこと。

 それはあらすじであって、全貌ではない。ヴィクターも知ろうとはしなかったし、男も語らなかった。

 男はいつも枕代わりにしている麻袋から革の包みを取り出した。


「ここには兄弟の脳が入っている」

「開けないでくださいね、そういうの苦手なので」

「無意味に兄弟を辱めるほど俺も愚かではない。兄弟の死体を腑分けした結果、大量の薬物を吸入していたことがわかった。本来聡明だった兄弟の脳は縮こまって、この包みに収まるほどになっていた」

「……毒を盛られたと?」

「否、もっと邪悪なものだ。人を酔わせ、欲で支配し、首輪をつけるための霊薬だ。……儀式を執り行ったという地下にはきっと霊薬で満たされた香炉が置かれていたのだろう」


 男は枯れ木のような顔を怒りに歪めた。今にも死にそうなほどやつれた顔だからこそ、その狂気がより克明に感じられて、ヴィクターの肌を粟立たせた。


「兄弟たちが枢機卿の飼い犬に成り下がったと聞いて、俺は心底失望した。枢機卿は秘匿の蛇だ。俺たちは秘匿と禁忌をもっとも憎み、糾弾する。禁忌と秘匿、暗がりに真理を匿うのはミトラスの光を拒む行いだ!」


 彼ら聖餐主義者は、紛うことなき異端なのだろう。

 ヴィクターの知る聖職者は誰もが黒衣を好む。ミトラスが大地を照らす熱を最も受け止める色として黒を纏い、その愛と恩寵を感じる。

 しかし、聖餐主義者はミトラスの本質を光とする。あまねく地を照らすものとしてミトラスを崇める彼らは、神の恩寵が神の光の及ばない暗がりに隠されることをよしとしない。

 彼らは地下に籠もり、秘匿を暴く。秘匿された恩寵が何であろうと、彼らには関係ない。明るみに出すこと、それ自体が主の神意に沿う行いであると確信している。

 蒼の法衣の袖に残った煤を払って、男は声を和らげた。


「しかし、兄弟たちは背いたのではなかった。枢機卿の霊薬に縛られたのだ。哀れな兄弟たちよ……生きたまま出てこれたのなら、あるいは救えただろう」

「……ガロアの聖堂街は枢機卿の箱庭だったのですね。合点がいきました」


 ヴィクターも聖堂街の乱について知った時に疑問に思いはした。

 聖堂街などという空間を設けること、それ自体が無価値だ。聖職者のための街など作らずとも、修道院を建てればそれで済む。

 宮殿の内側に都市を作る? そのような荒唐無稽な計画を承認し、強く推し進めたのは一体何者なのか。そして、一体何の目的があったのか。


「あの蛇めが兄弟たちを惑わした。奴の手元にはまだ兄弟たちが残されているだろう。聖女を作るために必要だからだ。哀れな兄弟たちよ……自らの手で秘匿をなす苦しみを思うと、俺は気が狂いそうになる」


 すでに狂っている。

 ヴィクターはその言葉を飲み込んで、ありきたりな死者を悼む聖句を唱えた。

 教会は内部で割れつつある。のどかなレフコスにもその余波がとうとう届きはじめた。しかも、これはまだ始まりに過ぎない。

 男は教皇派に属する高僧に任ぜられ、枢機卿派の目論見を砕くよう命じられている。主な内容としてヴィクターが聞いているのは、聖女スルダの暗殺、そしてウーティス・アルバスの回収だ。

 ある程度はヴィクターも助力するつもりでいる。目的が一致しているうちは味方として振る舞う。


「助力は惜しみません。枢機卿は人の手で偽の勇者を作り、守護聖人である勇者の召喚を廃れさせようとしている。レフコスの民なら誰しも、許しがたい暴挙と感じるでしょう」


 ヴィクターが口にしたのは真実だ。男は嘘を見抜く。

 ただ、本心を交えずに真実で言葉を織ることに関して、ヴィクターは神でも騙し抜ける自信があった。


「そのためにも、リシャール殿下には死んでもらわねばなりません」


 神でも勇者でもなく、ただ地に生まれた人の頂点に立つ者として、ヴィクターは神を騙さねばならない。

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