第7話 妖姫の槍

 肺まで凍りつくような寒さの中で、アンナは静かに息を吸い、そして吐いた。

 己の内側を巡る熱で外気を侵食するかのように、力を広げていく。

 広く、広く。

 薄く、薄く。

 左肩に刻んだに力を流す。

 文字の示す意味は槍。アンナが最も信じる武器だ。

 夜闇の中、中庭の土がアンナの手に吸い上げられ、形を得ていく。

 石突は硬い爪。時には敵の構えを崩し、時には渡河するアンナの支えとなるような、錨にも似た姿へ。

 柄はしなやかな筒。衝撃を和らげ、攻めの手が一瞬でも緩むことのないように。

 穂は鋭い牙。敵の姿に応じて突くことも斬ることも選べる形状でなくては、役割を十分に果たせるとは言い難い。


「……鈍ったかな」


 1秒。

 念じてから槍が手の内に収まるまで、1秒もかかってしまった。

 1秒あれば、矢は放たれて人を貫く。魔術の礫でも結果は変わらない。この致命的な遅れを誤魔化すため、アンナは土の盾で矢除けの壁を構築してから槍を手にするようにしている。

 アンナの仕事は主を守ること。すなわち、オレリアの安寧を保つことだ。

 どのような奇跡にすがろうとも、一度失われた命は決して戻らない。だからアンナは一日たりとも修行を欠かさない。

 一日の怠惰はひとつの命を奪う。

 アンナは父にそう言い聞かせられて育った。だから勤勉であれ、と。


「礫、刃、盾、槌、槍――」


 指先で魔導文字を刻むたび、槍が姿を変えていく。

 散弾、徹甲弾、土塁、破城槌、そして再び槍。

 構えた槍を手に、身体がすっかり馴染んだ型を繰り出す。ただなぞるのではなく、ひとつひとつの動きに意味を感じ、意味を理解する。

 誰も見る者のいない暗闇の中の武踏で、アンナは雑念を振り払おうとしていた。

 アンナはオレリアの臣だ。だから、彼女が必要とする人間を受け入れるのもアンナの役目だ。それに否を唱える気はない。オレリアが自分を気遣ってくれているのもよく理解している。

 しかし、ウーティス・アルバスと名前を与えられたあの女、あれは駄目だ。


「疾ッ――!」


 空を穿つ槍に思わず不要な力が籠もる。

 アンナはウーティスが嫌いなわけではない。同僚として付き合いやすい部類とすら言える。自分にできないことを他人に任せられるのは美徳だ。好ましい。

 問題は彼女がオレリアの弱点になりうるということだ。

 ウーティスの身の上話はアンナも聞かされた。堕落した修道院で修道女として過ごした後、教会の隠れ里で鍛冶師として禁忌を学び、脱走。指名手配を受けながら西へと進み、レフコス王国へやってきた。

 同情はする。可能なら助けてやりたいとも思う。

 しかし、教会に指名手配を受けた罪人を庇い立てできるほど、今のオレリアに余裕はない。本来であれば、知識を吸い出して始末するべき存在だ。

 オレリアは身内に甘い。兄のシャルルを救うために己の生命を使おうとした。忙殺されていたアンナのために本国から傭兵団を呼び寄せた。リシャールとの関係を改善するために傷を負った。

 きっとオレリアはウーティスを捨てない。


「覇ッ――!」


 石突が闇夜に思い浮かべた敵の顎を砕く。

 かつてウーティスがユーラリーという名前で修道女をやっていたルグラン修道院は、ガロア北東部の丘陵地帯から街道を見下ろす交易拠点として知られていた。

 そのルグラン修道院が一晩でなくなった。

 建物は残っている。祭具も、聖典も、食料や衣類品も無事だ。人だけが全て殺された。現場に残された死体には異端審問官が残す刻印が刻まれ、院長は見せしめとして首を晒されていた。

 侍衛武官、侍女と護衛を兼ねる側近であるアンナはガロア王国にいくらかの伝手を残してある。その伝手から送られてきた情報だった。

 ウーティス・アルバス。

 もしくは、ユーラリー・ホプトン。

 彼女を守るのか、処分するのかを決めるのは主であるオレリアだ。しかし、もしオレリアが判断を下す前に何か起きたなら、アンナは――


「――精が出ますね」

「……これは、メイド長。いやーどうも、こんばんはです」


 槍に籠めた力を解く。

 燭台を手に廊下からアンナへと声をかけたのは、メイド長のフレデリカだ。彼女はアンナと話す時いつも顰め面をしている。

 光の加減もあるのだろうが、今日はいつにもまして不機嫌そうだ。アンナが中庭の土を荒らしているのを目撃してしまったからだろうか。


「消灯時間です。熱心なのは結構ですが、明日に差し障りがないように」

「もうそんな時間でしたか、あっという間ですね。見回りですか?」

「戸締りの確認です。メイド長たるもの、最も遅くに眠り、最も早くに起きねばなりません」

「ええー、疲れません?」

「この程度で疲れる者はメイドにはならないでしょう」


 メイド。

 彼女はその役職名を口にする時、心底誇らしげに微笑む。皺の寄った眉間すら誇りの前では緩むのだと思うと、どんなに口うるさくともアンナは彼女のことが嫌いになれない。

 かつて初代勇者が旅の仲間に与えた役職であり、その少女から代々王族に仕える者として受け継がれてきた。その伝統にはアンナも敬意を表している。

 ただ、本質的にフレデリカはオレリアの味方ではない。


「オレリア様はもうお休みになられましたか」

「ええ、ぐっすりです。ちょっと前まで殿下がいらしてたんですけど、お戻りになりましたよ」

「当然です、婚約者とはいえ未婚、しかもオレリア様は未成年なのですから。本当であれば夜のご訪問も控えていただきたいというのに」

「まあまあ、仲がいいのはいいことだと思いません?」

「そんな幼稚な理屈で片付かないのが王族というものです。まったく……」


 口では諫めるようなことを言いつつも、彼女はリシャールがオレリアの私室を訪問するのを止めない。それどころか、訪問中に近辺で必ず聞き耳を立てている。

 どうやら、メイドは侍女ではないようだ。


「スルダとレオ殿下の件は、陛下のご意向に沿うものなんですか?」

「……陛下の深謀遠慮は私などには到底汲み取れるものではありませんよ。もちろん、貴女にも」

「メイド長と同格扱いしていただけるのは光栄ですねえ、はは」


 空気が張り詰めるのを感じる。宙を満たす冷気の中に、フレデリカとアンナをつなぐ一本の糸が張られたかのような緊張感が。

 アンナは馬鹿だ。しかし、異国で主を守るためにただ周囲をうろついているだけの無能なただ飯食らいではない。

 フレデリカは二人の会話を盗み聞きし、そして国王オーウェン2世に報告している。彼女は王の密偵だ。

 護衛として、アンナもそれくらいのことは当然把握している。

 もちろん、オレリアにも報告してある。王城内でオレリアが口にするのは「知られたほうがいい情報」と「知られても構わない情報」だけだ。

 どこに耳があるかわからないなら、わざわざ伝えにいかずとも済むということだ。オレリアはそううそぶいて笑っていた。


「……あまりこの城で不遜に振る舞わないように。ここは貴女たちの城ではないのですから」

「レフコスの流儀では客人に礼儀を説くんですね。不出来な侍女なもので、勉強になりますよ」


 メイド長フレデリカはオレリアに対して友好的ではない。

 彼女は勇者に仕える者だ。ミトラスの守護聖人である勇者に仕える彼女にとって、聖職者殺しのオレリアは悪なのだろう。

 もしかすると、リシャールの計画も知っているのかもしれない。オレリアとリシャールが進める議会制への移行計画は、王である勇者の権限を損なうものだ。いい気分はしないだろう。

 しばらく、二人の間には冷たい沈黙だけが流れていた。

 燭台の火が隙間風に揺らいでいる。火があるからこそ、影はいよいよ濃く映る。影の中で、フレデリカの表情は隠れて見えない。

 先に口を開いたのはフレデリカだった。


「貴女の主に伝えなさい。スルダ様を追ってよくないものがこの国に入ってきた」

「よくないもの?」

「彼女の兄を辱めた狂人どもの同類です。……確かに伝えました。あとは貴方達次第です」


 フレデリカは燭台の火を吹き消し、静かに闇の中へと消えていった。

 文字どおり夜闇の中で溶けるように去っていったフレデリカの気配に、アンナは頬が引きつるのを感じた。実力を誇示するためにわざと火を消して去っていったのだ。


「……あの年増、煽るじゃないの」


 アンナは槍のために崩した地面を足で軽く均して、額の汗を拭った。

 彼女の言葉を信じるなら、スルダを追ってきたのは聖餐主義者だ。

 かつて聖堂街でシャルルを儀式の贄としようとしていた異端的教派の彼らは、聖人の遺骸を奇跡のための実験に用いるという。

 勇者の面影を残すスルダと、それを追ってきた聖餐主義者。

 嫌な予感がする。

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