第6話 教会の勇者
「魔導文字?」
オレリアの口から伝えられた予想外の報告に、リシャールは耳を疑った。
聖都シエナからやってきた聖職者が魔術を行使しようとしたなどと、普通であればありえない話だ。教会は魔術を忌むべきもの、戦の道具とみなしている。
しかし、オレリアは確かにその目でスルダの指が魔導文字を刻もうとしたのを見たという。
魔導文字は力に指向性を与え、魔術として成立させるためのものだ。魔術の使い手であればその予兆である魔力の動きを察することができる。
スルダは指に魔力を籠め、そして何かしらの文様を宙に刻もうとした。つまり、魔術を行使しようとした。彼女は自らを聖職者であるとしている。
大きな矛盾。
しかし、彼女の顔立ちに感じる面影が彼女の来歴と一致するのであれば、その矛盾はたちまちに解消される。もしもスルダが勇者の末裔なら、勇者の魔術を使える聖職者であってもおかしくはない。
「彼女について陛下から何か伺っていませんか?」
「シエナからの賓客を君に預けるとだけ。今日顔を合わせるまで、彼女がレフコスにいたことすら知らなかった」
「その後追加の情報もとくになし、ですか」
「夕食の際に尋ねてみたけど、のらりくらりとかわされてしまったよ。父上にも父上なりの考えがあるんだろうけど、それが何か見当もつかない」
湯浴みを済ませて侍女に髪を任せるオレリアは、火照った頬を冷ますように手で仰ぎながらため息をついた。
こうしてオレリアの私室で過ごせるようになったのは関係が改善された証拠だろう。打ち解ける前のオレリアはリシャールを私室に招くことはなかったし、リシャールもすすんで寄り付きはしなかった。
しかし、その反動とでも言うべきだろうか、オレリアは己の懐に入ったリシャールに甘い。湯上がりの姿をこうして平然と晒しているのは油断しすぎている証拠だ。
リシャールの視線に気づいたのか、オレリアの口元がからかうように弧を描いた。
「乙女の柔肌が気になりますか?」
「年の差を考えてくれ、年の差を。湯冷めしないようにね」
「からかいがいのない殿下ですね。……しかし、困りました。彼女が勇者の魔術を継承しているのだとしたら、計画の障害になりかねません」
オレリアの言うとおり、あまりよくない状況だ。
リシャールはオレリアとの婚約を使って、この国に議会制を定着させることを目論んでいる。
未成年、しかも7つ年下のオレリアとの婚約。社会通念上、レフコス王国の貴族たちはこれを不名誉なものと受け止めている。そんな貴族たちに婚約の破棄を請願させることで、議会に権限を持たせるきっかけを作る。
しかし、そこにスルダが関わってくると、流れが変わる。もし彼女が勇者の末裔なら、その血はレフコス王国の王位継承権を有することになるからだ。
「教会と親しくしたい貴族たちにとって、彼女は最高の花嫁でしょうね。より勇者の血を純粋にできるうえに、彼女はシエナの枢機卿とつながりがあるわけですから」
「……彼女を君に代わる新たな婚約者として担ぎ上げるということか」
スルダをリシャールの婚約者にすれば、王家は教会の意向を無視できなくなる。オレリアとの婚約破棄には教皇の特赦が必要だ。婚約破棄と再びの婚約、二重の恩を着せられる格好だ。
婚姻による干渉。ちょうどオレリアの故郷であるガロア王国と同じ形になる。今や教会の傀儡と成り果てたとすら噂されるガロアと同じ道を辿るわけにはいかない。
考えに沈んでいたリシャールは、香油の壺が開く音で我に返った。
アンナがオレリアの髪に慣れた手付きで香油を馴染ませていく。部屋に広がった華やかな薔薇の香りの中で、オレリアの瞼は眠気に負けはじめている。
「私ならむしろ、彼女をレオ殿下の婚約者にします」
オレリアがこともなげに言い放ったその言葉は、リシャールも感じつつあった眠気を消し飛ばした。
「レオの婚約者に……」
「まあ、枢機卿と陛下のご意向がわからないことには考えても詮無きことです」
「詳しく聞かせてくれ」
「詳しくも何も……教会と親しくするためとはいえ、教会に貸しを作る義務はないですからね。わざわざ婚約を破棄させずとも、レオ殿下とスルダの間に生まれた御子を王にすればいいだけです」
単純な計算ですよ、とオレリアは指を立てた。
片親が勇者の末裔であるより、両親が勇者の末裔であるほうが血が濃い。
リシャールは言葉を失った。
言われてみればそのとおりだ。これまで、勇者の血を引く者はレフコス王国の王家だけだった。外から勇者の血が入ってくるなど、考えたこともなかった。
しかし、この仮説には大きな欠陥がある。
「問題は彼女が何者か、ただその一点です。極端な話、枢機卿の目論見も陛下の思惑もわからなければわからないでやりようはあります」
「現時点での君の見立ては?」
「……アンナ、書棚の右から三番目の……そう、それ。ありがとう」
リシャールの問いかけに応えるかわりに、オレリアはアンナから手渡された大きな本を膝の上で開いた。革表紙には金の箔打ちが施されている。
腕のいい写本師の手によるものだろう、芸術的な筆致で何事かが細やかに記されている。しかし、リシャールの知る言語ではないようだ。ページに捺されている焼印には見覚えがあったが、どこで見たか思い出せなかった。
「シエナの門閥名鑑です。シエナは教皇が法王として君臨していますから、門閥はこうして自分たちの伝統を記録させることで新興を押さえつけるわけです」
「なるほど。どうりで装丁に金がかかっているわけだ」
「足がつかないよう取り寄せるのにも苦労しました。……先に申し上げておきます。これは荒唐無稽な仮説です。根拠がないうちは妄想と呼ぶべきでしょう」
「構わない、君の妄想なら聞く価値がある」
「……それはどうも」
オレリアは少し照れたように咳払いをして、開いたページをリシャールにも見えるよう名鑑を持ち替えた。
そこには8つの焼印が捺されていた。知らない言葉でも、その下に記されているのが家名であることはわかる。
「この八聖家は使徒の末裔を自称しています。その真偽は定かではありませんが、シエナでも歴史が古く、歴代の教皇や枢機卿を排出してきた真の名門です」
「なるほど。シエナの中枢を占めている人々だね」
「そういうことです。たとえばベナドゥーチ家。ご存知マロツィア妃の生家ですね。銀行業でも知られているとおり、莫大な財産を抱えています」
オレリアが指さしてみせた月桂冠に星の紋章は、さすがのリシャールも一目でわかる。オレリアの亡き母オリアーナの後釜としてガロア王国の妃になり、今や王国を操るまでに至った妖婦の家だ。
婚約者として、リシャールも思うところはある。マロツィアが早々に嫁いできたせいでオレリアは追い出されるようにしてレフコス王国に渡るはめになった。
しかし、当のオレリアは眉ひとつ動かさず次の家へと指を進めた。
「カエターニ家。当代では唯一の枢機卿であるシエナのノワイエの生家です。セルヴィティア家。我々とも縁がある教皇の代理人イシドルスの生家ですね。そしてアラゴン家。現教皇ペドロ7世の生家ということになっています」
「……なっている。奇妙な言い方だね」
「ペドロ7世は庶子の生まれで、神託によって見出されるまでは牧童だったそうです。落とし胤というやつですね。齢は昨年末13歳になられたとか。洗礼記録を見れば十中八九捏造の跡が見つかるでしょう」
眠くなってきたのか、オレリアはいつにもまして遠慮なく不穏なことを口走る。
こういう鋭く胡乱なことを言っている時のオレリアも嫌いではない。彼女がいつも巡らせている思考の一端が垣間見えるからだ。そして、それを見せてもらえる程度には信頼関係が築けたことの証左でもある。
しかし、それはそれとして心臓に悪い。教皇の出自を疑う発言など、聖職者の耳に入れば国際問題だ。
「重要なのは、ペドロ7世が投票ではなく神託によって選ばれたということです。通常であれば八聖家の高位聖職者による教皇選出会議が開かれますからね」
「教皇に問題があるのかい」
「いいえ? 神託で選ばれた教皇に不満を抱く聖職者などいるはずもありませんよ。問題はむしろ、問題がないことです」
問題がないこと。
リシャールが続きを促すと、オレリアは大きく欠伸をした。
「ふあ……失礼。つまり、これまでは八聖家それぞれの派閥が教皇選を争っていたのに、それが争う余地もないものとして団結してしまったわけです。教皇派とでも呼ぶべき一大勢力の誕生ですよ」
「……教皇派ね。聖職者が教皇を崇めるのは当たり前だろう。出自がどうあれ、教義上、教皇は神の代理人なんだから」
「信仰ではそうです。しかし、政治では違います。哀れな牧童の少年がある日突然教皇になって、職務を全うできると思いますか?」
オレリアが指摘しているのは、教会という組織にとって最も生々しい禁忌だ。
つまり、彼女はこう言っている。八聖家で教育を受けていない教皇が教会の頂点に立つことが、本当の意味で可能なのか、と。
神託は聖職者にとって絶対だ。聖職者でなくとも、ミトラスを信じ崇める者なら従うのが当然と考えるだろう。だからペドロ7世は教皇にされた。
信仰の上では仰ぎ見るべきだとしても、その人物が教皇としての実務経験を神に与えられでもしない限り、教皇の業務は彼に一任できない。
「八聖家は教会の頂点である教皇庁に強い影響を持っています。彼らは幼く未熟な教皇を支えるため、手を取り合って教皇庁の運営に熱意を注いだでしょう」
「それ自体はいいことのように聞こえるね」
「ええ、とてもいいことです。暴走しないうちは、ですが」
「暴走……まさか、教皇はお飾りなのか? 神託で選ばれたんだろう!」
「教皇が君臨することと、教皇が統治することはまた別の話ですよ。我々がやろうとしていることを考えれば、むしろ手本にすべき部分です」
教皇派による教皇庁の掌握。
オレリアの予測が正しければ、教皇ペドロ7世はお飾りということになる。
リシャールは自分の背筋がいつの間にかじっとりと嫌な汗で濡れていることに気がついた。それは、ここしばらく感じていた嫌な気配とここまでの話が符合してしまうからだ。
「ベナドゥーチ家がガロアを押さえ、教皇の印璽で大陸全土から騎士を召集しました。死後に聖人となることを約束された星々の集い、星雲軍。噂はこのレフコス王国にまで届いていますね」
「嫌な噂ばかりが、だけどね。……彼らの後ろにいるのは教皇ではなく、教皇派ということか」
「若い教皇の暴走にしては八聖家の連携が上手く取れすぎています。ベナドゥーチ家、セルヴィティア家、アラゴン家はペドロ7世が選出されるまではむしろ敵対的ですらありました。……さて、ここで話はスルダに戻ってくるわけです」
オレリアが指さしたのは、火を背に牙をむく大蛇の紋章。
つい先ほどオレリアが紹介してくれたおかげで、リシャールにも家名の読みがわかる。カエターニ家、枢機卿の生家だ。
「スルダに名を与えたのは教皇ではなく、枢機卿だそうです。彼女は一度も教皇の名を口にしていません」
「まさか……」
枢機卿は教皇庁における事実上の頂点であり、教皇の助言者として時には導き、時には諭し、そして時には圧力をかけることが求められる。
もし教皇派という派閥が成立し、暴走しているのであれば、それを止めるのもまた枢機卿の役目ということになるのだろう。強大な派閥の暴走を抑えるためには、相応の力が必要となる。
「私が枢機卿の立場なら、自分の手元に勇者がほしいでしょうね。勇者は戦力でもあり、象徴でもあります。教皇という旗印に対抗するために勇者を使う。仮説としては、悪くない出来だと思いませんか?」
これは妄想だ。根拠とすべきものが何も見つかっていない。
それでも、ぞっとするような説得力にリシャールは唾を飲んだ。
「港の連絡船に監視を手配してください、殿下。今日の日中にスルダを見せつけたことで動きがあるでしょう。彼らが誰に手紙を送るかで我々の取るべき動きが変わってきます」
「わかった、任せてくれ。……遅くまで付き合わせて悪かった。おやすみ」
「こちらこそ。おやすみなさい、殿下」
オレリアの私室を後にして、夜の廊下で冷たい空気を肺一杯に吸い込む。
いつの間にか消灯の時間を迎えていたようだが、勇者の末裔として光の魔術を扱うリシャールにとって夜闇は敵ではない。指先から放った光を追従させる。
スルダも勇者と同じように光の魔術を扱うのだろうか。今日の様子を見る限り、彼女は問えば答えそうなくらい素直な女性だった。しかし、彼女の後ろにいる何者かが彼女と同じくらいに素直とは思えない。
リシャールの眠気は当分戻ってきそうになかった。
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