第17話 侍衛武官

 人の喧嘩ほど衆目を引く見世物もない。

 誰もが抱える暴力へのくらい欲求を満たすために、様々な形で暴力を見世物として正当化する方便が用いられてきた。いまだかつて人類は棍棒を握り頭蓋を砕くことに勝る興奮を見つけられていない。

 かつてオレリアはアンナにそう語った。だからこそ、暴力に酔わないように生きていたいのだ、と。

 彼女はアンナにとって誰よりも愛すべき主だが、この一点に限っては意見が合わなかった。


「よお侍女の嬢ちゃん、降参するなら今のうちだぜ。可愛いお仕着せをボロボロにしちまっても、俺らの中にはお針子はいねえからよ」

「あら、あなたこそ引っ込むなら今のうちよ? それとも、私にを作ってもらいたいの?」


 観衆から囃し立てるように口笛が上がる。

 港の有力者たちの厚意で郊外の広い土地を使わせてもらうことになった。石畳と雑草が半々の辺り一帯を見物に来た観衆が埋め尽くしている。

 アンナの目の前で拳を構える巨漢は、野卑な煽りを軽くいなされたことに顔を赤くして大きく吠えた。闘技場で剣闘士が観衆にアピールするのと同じだ。己の士気を高めるパフォーマンス。

 彼らは傭兵団としてガロアから渡ってきたらしいが、今のところアンナの目には血なまぐさいサーカス程度の実力にしか見えなかった。

 たらいと椅子の脚を組み合わせた、急拵えのゴングが鳴る。


「んじゃまあ――ぶっ飛びなあ!」


 巨漢は威圧するように拳を振りかざし、そしてアンナへと振り下ろした。

 間抜けな見た目の割には鋭い拳だ。しかし――


「んなっ!?」

「遅い」


 アンナはに立っていた。

 蚊の止まるような、というたとえがある。のろまさを揶揄する言葉で、よく剣闘士が相手を煽るのに使う。

 拳の上に片足で立ち、ついさっきまで見上げていた男を頭上から見下す。


「上から見ると、髪が薄いのが目立つわね。兜変えたら?」

「このっ、なめやがって……!」


 怒りで耳まで真っ赤にした男は腕を横に振るってアンナを落とそうとするが、そこにもうアンナはいない。

 軽やかに跳躍したアンナは、彼の背後に降り立つと背を蹴り飛ばした。

 観衆の輪に転げ込んだ男は呆然としている。


「降参する? 他の団員と束になってかかってきてもいいわよ」

「……ふざけた口をききやがって! おい、グレッグ! ノーマン!」


 観衆からブーイングが飛ぶ。集まっているのは大半がこの港で暮らす市民だ。血の気の多い彼らだからこそ、女相手に男複数人でかかるのはみっともないという道義を弁えている。

 しかし、彼らはそれでもアンナを叩きのめす必要がある。どこぞの侍女一人に負けたなどと噂が立てば、傭兵団の看板に傷がつく。

 できるだけ虚仮にするような勝ち方をして、団長を引きずり出せ。オレリアにそう命じられたアンナは、全力でこの馬鹿げた決闘を楽しんでいた。


「情けないなあダズ、斧なしじゃそんなもんか」

「やめてやれよグレッグ。こちらの侍女さん、どことなくダズのお袋に似てるじゃないか。ダズは親思いだからな」

「チッ……今は目の前のこいつに集中しろ!」


 グレッグと呼ばれた長身の男は足の運び方が滑らかだ。何かしらの拳法を修めているのだろう、呼気にも乱れがない。

 そのグレッグと調子を合わせてダズをからかっているノーマンは細身の優男だが、重心の偏りがある。シャツの袖とブーツに何か仕込んでいるようだ。

 巨漢のダズが正面に立ち、長身のグレッグが後ろへ回り込もうとしている。

 挟み撃ち。いや、ダズの巨体は囮だ。

 次の瞬間、アンナの脚が投げられたおもりを蹴って弾き返した。


「ぐえっ」

「ノーマン!」

「人の心配をしている場合?」


 掴みかかろうとしたダズの太い指を取り、勢いを乗せて捻る。

 巨体が転げるようにして倒れた先にいるのは、観衆を背に冷や汗をかくグレッグだ。避ければ観衆に怪我をさせる。


「どわあっ!」

「てめ、ダズ! 俺に突っ込んできてどうすんだ!」

「うるせえ! おい、お前ら――」


 他の団員まで投入しようとしたダズの声は、盛大な笑い声にかき消された。


「はっははは、よしなダズ。アタシは勝てない戦に首突っ込むようには躾けてないつもりだ」

「だがよお姉御!」

「アタシがよせと言ったらよすんだ」


 観衆が割れた。

 何を言ったわけでもない、何をしたわけでもない。ただ、その威が道を開けさせたのだ。アンナへと続く道を威圧感だけで切り開いて、その女傑――ガラシャは葡萄酒の瓶を放り捨てた。

 熱気が醒めたわけではないのに、あたり一帯が静寂に包まれた。

 ブーツの踵が石畳を鳴かせる。


「高みの見物はもう終わり?」

「ああ。……傭兵団赤火の虎、団長のガラシャだ」


 観衆の輪の中で、アンナはガラシャに相対した。

 故郷であるガロア王国から宮宰の肝いりで送られてきた人員。一体どんな人が送られてくるのかと期待半分、不安半分だったアンナの前に現れたこの女は、アンナの主を、オレリアを罵倒した。

 これがオレリアの求めていた人員でなかったら、こんな遊びなどせず始末しているところだ。


「侍衛武官、アンナ」

「そうかい、ただの侍女じゃあないとはわかってたが、得心がいったよ。……まず、謝罪する。あんたの主を悪く言ったのは間違いだった」

「……それを言う相手は私じゃないでしょ」

「そりゃあもっともだが、姿勢だけでも先に示しとこうと思ったんだ。それから、もうひとつ」


 目の前のガラシャが小さく息を吸い、そして両の拳を強くぶつけ合った。


「――魔術か」


 アンナは彼女の評価を修正せざるをえなかった。

 ガラシャの両腕は赤々と燃える炎に包まれ、鉄も融けそうなほどの熱気を放っている。構えられた拳はまるで獲物を前にした虎の牙のようだ。

 どのような魔導文字によるものか、想像もつかない。間違いないのは、その魔術を御すだけの実力が彼女にあるということだ。


「赤火の虎。代々うちの団で団長が受け継いでる、言ってみりゃ秘伝の魔術だ。アタシはあんたを倒さなくちゃいけない。団員を虚仮にされたら、その尻拭いをするのがアタシの仕事だからね」

「……私もひとつだけ、あなたに謝ってあげる」


 アンナは己の心が昂ぶるのを感じながら、オレリアに目配せをした。

 彼女が小さく頷いたのを確認して、指先で魔導文字を刻む。

 近衛兵の娘として育ち、刺客として教育を受け、侍衛武官としてオレリアに仕える、そんなアンナが一番使い慣れている武器。それを石畳から生み出した。

 飾り気のない岩の槍を構え、初めてガラシャに微笑みかける。


「あなたたちのこと、くだらないチンピラだと思ってた。でも、ちゃんと市民に怪我をさせないようにしてるし、反則らしい反則もしてこない。団長は魔術が使える。悪くないわね」

「……お褒めの言葉をどうも。だけどよ、槍はちょいとずるくないかい?」

「あら、あなたの戦場では敵がわざわざ徒手空拳で戦ってくれるの?」

「そりゃそうだ」


 見つめあっている時間が永遠のようだった。

 城中のメイドたちがうつつを抜かす色恋沙汰より、よほど濃密で繊細な一時。舐めるように絡みついてくる炎の熱気がアンナを焦らしていく。

 しかし、先に動いたのはガラシャだった。

 ガラシャは炎を纏った拳を、地面へと突き立てた。


「何を……ッ!」


 石畳を砕いて飛び出してきた虎の顎を回避できたのは、アンナが土魔術の使い手として大地に意識を向けていたから。つまり、僥倖でしかなかった。

 炎でできた虎が地面へと消えていく。

 いや、消えたのではない。再び潜ったのだ。


「……炎の魔術が大地に潜るなんて、卑怯だと思わない? そこは私の領分なんだけ、どッ!」


 また現れた虎を避けようとしたアンナにガラシャの拳が降り注ぐ。拳を槍で逸らしても熱はアンナの体力を奪う。

 一人の戦士として見れば、ガラシャはアンナにとって決して勝てない相手ではない。しかし、これが戦場で、複数人を相手にしているのだとしたら、ガラシャは恐ろしい強敵だ。

 ガラシャを相手取るためには、地中の虎を常に警戒しながら戦わなくてはならない。集中を疎かにして倒せるほど彼女の拳は軽くはない。

 シャルルとともに戦った傭兵団というのも、あながち嘘ではなさそうだ。


「自信なくすぞまったく! どうしてこいつが避けれるんだい、あんたは!」

「これくらい捌けなきゃ、侍衛武官は務まらないわよ。こっちは万全の警備が敷かれた食物庫で毎日盗み食いの特訓してるんだから!」

「そりゃまた、楽しそうな職場だねえ!」


 アンナが虎の砕いた石畳を散弾にして放つ。

 ガラシャが散弾を炎の腕で受け止め、炎の中で熱された石は振るわれた拳に従ってアンナへと降り注ぐ。

 アンナの槍が焼け付いた石を打ち払い、その勢いのまま石突でガラシャを石の檻へと突き飛ばす。

 石の檻を炎の虎が食い破り、ガラシャが虎を己の身に纏うようにしてアンナへと飛びかかる。

 互いに一歩も引かない攻防のなかで、気づけばアンナは腹の底から笑っていた。

 オレリアが語ったとおり、暴力を快楽とするのは浅はかで、愚かなのかもしれない。そこから抜け出そうとすることこそが理性なのかもしれない。

 しかし、それでも――


「来い、ガラシャ!」

「燃え尽きろ、アンナァ!」


 武人として、猛者と手合わせすることで己が高まっていくことへの昂りだけは、アンナには捨てられそうもない。

 猛進してくる虎に対し、アンナは槍を構えた。かつて絵図に見た、猛獣を狩る原住民のように、腰を低く、腕を引いて。

 己を一振りの槍に落とし込むような気持ちで、精神を集中し――


「――アンナ」


 背後からかけられた主の声に、アンナの思考を捕らえていた戦いの熱がすっと醒めていった。

 ガラシャが纏っていた炎は消え、彼女の身体は地に伏している。呼吸はあるが、立ち上がろうとする様子はない。どうやら気を失ったようだ。

 そして、アンナは恐る恐る背後を振り向いた。


「ひ、姫様」

「やりすぎです」


 炎に焼かれ、石畳は捲りあがり、挙句の果てに魔術による構造物の破片があちこちに散らばっている。古戦場を思わせる無惨な世界で、オレリアが腰に手を当ててアンナを見上げていた。

 アンナにとって最も愛すべき主、オレリアの怒った笑顔は本当に怖い。

 倒れ伏したガラシャが意識を取り戻したら絶対に教えてやろうと心に決めつつ、アンナは膝をついて深く、深く頭を下げた。

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