第18話 文化の丘
荒れ地と化した郊外の広場で腰に手をやって、オレリアは大きくため息をついた。
ガラシャの実力を測るついでにアンナにストレスを発散させようという目論見は、予想をはるかに超えた被害をもたらした。
武人というやつはこれだから始末に負えない。
「これはまた、派手に壊されましたな」
「部下がとんだご迷惑をおかけしてしまいました。どうお詫びすればよいか……」
「はっは、何、この程度を迷惑と思うほどここらの人間は狭量ではございませんよ」
隣でオレリアを慰めるように笑っているのは、マボン湾一帯を治めるニュージェント伯だ。騒動を聞きつけ、自らの馬で駆けつけてくれた。
鍛え上げられた肉体に見合う武人気質の持ち主である彼は広場を無惨な姿にした二人を叱責するどころか、その武勇を讃え、「今日の飲み代は俺の払いにつけておけ!」と宣言して喝采を浴びた。
「しかし、こうまで荒らしてしまうと、整えるのにも手がかかるでしょう。こちらで人手をお貸しできればよかったのですが……」
「そうですな。ただ、まあ、ここが空き地になっていたのには理由がありまして」
「理由ですか」
「ええ。……少し長い話になります。よろしければ、お飲み物でも」
厳しい見た目に反して紳士的な男だ。オレリアはこの国に渡ってきて数ヶ月経つが、貴族から淑女としての扱いを受けたのは、ひょっとすると初めてかもしれない。
ニュージェント伯のエスコートを受けて、オレリアは広場のあった郊外の丘を下り、港へと戻った。
港では傭兵団「赤火の虎」の団員たちが団長や怪我をした団員の手当てをしている。彼らのおかげで市民に負傷者は出なかった。彼らの団長との決闘なのだから、当然と言えば当然か。
ただ、手当ての輪に加わって楽しげにお喋りをしている、侍女のお仕着せを煤まみれにした大馬鹿者には後でしっかりと言い聞かせておく必要がありそうだ。
「どうぞ」
引かれた椅子に上がろうとして、オレリアは足元に木製の踏み台が用意されていることに気がついた。気の利く男だ。
世の中の椅子というものは大人の男に合わせて作られている。オレリアのような小さな女の子が座るのには向いていない。こういった小さな気遣いができるところも領民からの人気の由来だろう。
踏み台はよく磨かれ、上品な光沢を放っているが、使い込まれた傷もいくらか見て取れる。天板に彫られている紋章はニュージェント家のものだろうか。子どもが落書きした跡も残っている。
「ありがとうございます。……閣下は子どもの扱いがお上手ですね」
「娘が三人おりまして。ご不快でしたか?」
「とんでもない。椅子を引いてくれる方はいても、踏み台まで用意してくださる方はめったにいらっしゃらないので。お子さんを大切に思ってらっしゃるのですね」
「妻の忘れ形見ですから。さ、こちらを」
杯に注がれた水から微かに聞こえた弾けるような音に、オレリアは驚いて思わず小さく眉を上げた。
「ニュージェント伯爵領には炭酸泉があるのですね」
「……残念、驚かせようと思っていたのですが。ガロアにもあるのでしたか」
「南東部の属州に。見るのは初めてです」
「では、ぜひ飲まれるとよろしいでしょう。これを口にして驚かなかった者は見たことがありません」
木の杯の木目を這うようにして立つ泡が、透き通った水の中から水面へと逃げて、そして弾ける。炭酸水だ。
オレリアは前世の知識で炭酸水の存在を知っている。炭酸ガスを含有していること、喉や舌に刺激を与える嗜好品として好まれていることも。
しかし、それは知っているだけで、経験ではない。
妙に緊張してしまって、オレリアは小さな手で杯を抱えて喉を鳴らした。
「……いただきます」
覚悟を決め、口に流し込む。
次の瞬間、オレリアは刺激と混乱のあまり杯を落としそうになった。咳き込まないようにするのがやっとだった。
まるで口の中が泡になっていくような感触。味とか香りとか、そういった次元に思考が到達しない。舌先から上顎、喉に至るまで、口内を目に見えない小人が走り回っているようだ。
「な……けほっ、なんですか、これ」
「炭酸水、勇者様はそう呼ばれていたそうです。お気に召しましたかな」
「……広場の借りがなければ吐き出して杯を投げつけていましたよ」
炭酸水が刺激物だということは知っていたからこそ、自分が初心な反応をしてしまったことが恥ずかしくて、オレリアは赤面しながらニュージェント伯を睨みつけた。
「そうならなくてよかったと言うべきでしょうかな。……かつてはこの町で広く親しまれていた飲み物だったのですよ、それも」
「……親しまれていた。ということは、何か流通されられない理由が?」
「させられない、というほどではないのですが……」
ニュージェント伯は慣れた手付きで葡萄酒の炭酸割りを作り、それを軽く呷って口を湿らせた。
オレリアの反応を面白がっていたときとは打って変わって、彼の目つきは穏やかだ。その視線は、つい先程までアンナとガラシャが派手な決闘を繰り広げていた丘の上に向けられている。
「オレリア様はサーカスをご覧になったことはありますか。曲芸師や獣使いの絢爛たる舞台を」
「残念ながら。興味はあるのですが」
「そうでしたか。……かつて、あの丘には劇場があったのです。貴賎を問わず、人々を楽しませる劇団やサーカスが公演をするための場でした」
意外な事実に、オレリアは目を瞬かせた。
演劇とサーカスはまさにミトラス教が禁止している文化の代表だ。何世紀も前に「舞台は淫らな堕落の温床である」と糾弾した教皇の勅令は今も撤回されていない。
公演が許されているのは宗教劇だけだが、宗教劇に見せかけた滑稽劇や風刺をやらないよう、聖職者の前で宣誓することが求められるなど、条件は厳しい。
「大伯父が変わり者でしてね。祖父に家を任せて出奔し、流民のサーカス団で曲芸を学んで帰ってきたんです」
「それは……大胆なお方ですね」
オレリアは遠回しな言い方をしたが、レフコス王国における社会常識に当てはめればありえないことだ。よくて勘当、最悪の場合は血族を騙る偽物として処断されていてもおかしくはない。
しかし、そうはならなかったようだ。ニュージェント伯の琥珀色の瞳がどこか自慢げにきらめいている。
「ええ、とても。祖父は最初、大伯父を勘当しようと考えていたそうで。しかし、大伯父の曲芸で心を病んでいた娘が救われたんです。初めて笑顔を見せた娘に、祖父は滂沱の涙を流しました」
「初めての笑顔……素敵な話ですね」
「それが私の母です。感情を取り戻した母は反動で人を驚かせることを生きがいとするようになりました。四年前に他界しましたが、私の娘たちは最後まで死んだふりなのではないかと警戒していましたよ」
感動的なのかいまいちわからない話だ。オレリアは誤魔化すように微笑んだ。
「……それでニュージェント伯は遊び心のある御方に育ったのですね」
「まだまだ精進の日々です。そのようなことがあって、あの丘には祖父の命で大伯父のために劇場が建てられたのです。大理石と真鍮をふんだんに用いた見事な劇場が。黒檀の舞台では母が歌ったこともあったそうです」
「さぞ華やかな劇場だったのでしょうね。この目で見ることができないのはとても残念です」
丘に視線を向けたままのニュージェント伯には何が見えているのだろう。
他界したという母親が舞台に立ち、高らかに流行歌を歌う姿だろうか。それに喝采を送る市民だろうか。流民に教えを乞い、人の心を救う曲芸師になって帰ってきた大伯父の見事な業だろうか。
かつて栄えたという劇場は跡形もなく、ただ石畳だけがそこに人の賑わいの面影を残していた。
「……サーカス団の曲芸に目を輝かせ、蛇使いの珍妙な笛の音に惹きつけられながら、炭酸水と蜂蜜パンを楽しむ市民。その姿は17年前に失われました。教会によって劇場は解体され、その建材は海を渡りガロアへ」
「まさか……」
オレリアの脳裏に、忌々しくも美しい白亜の都が蘇る。
ガロアの宮廷、その内側に生まれた聖堂街は、大理石を中心とした白く清潔な街だった。当時オレリアは3歳でありながら禁忌を犯し、世俗の人間として初めて聖堂街に踏み入った。
その後、聖堂街の調査は教会に託され、全貌が明らかになる前に多くの関係者が闇に葬られた。あれだけの建材をどこから調達したのか、経路も謎のままだ。
「アルノワ家の勇敢なる乙女、オレリア・アルノワ。ずっと貴女にお礼を申し上げたかったのです。貴女は祖父の無念を晴らしてくださった」
「……私は、あの戦いを失敗だったと考えています。あまりにも稚拙で、杜撰な急場凌ぎだった。だから、その感謝は受け取れません。しかし」
手当てを終えた傭兵たちが、酒を手に調子外れの歌をがなり立てている。
楽器の弦を爪弾いているのは自分の暗器でアンナに鳩尾を撃ち抜かれた暗器使いの男だ。器用に奏でる音色は中々に見事なものだが、歌の声量に負けている。
その中央で包帯だらけのガラシャと肩を組んで歌うアンナの笑顔は本当に無邪気で、まるで子どものようだ。
「乗りかかった船です。この地に奪われた笑顔をもう一度咲かせるお手伝いくらいはさせていただきますよ」
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