第19話 次の火種
オレリアの計画はこうだ。
レフコス王国に拠点を置く出版社を立ち上げ、情報網を構築。同時に大陸全土に「自由な言論という娯楽」への欲求を広める。一度欲求を芽生えさせれば、それを抑圧するのは難しい。
リシャールに示唆したとおり、アルバス・カンパニーは教会への見せ札だ。最初の出版社が潰されようと、すでに萌芽した欲求を満たすために後進が現れる。その時、オレリアは躊躇うことなく印刷機の技術供与を行うだろう。
理由は至ってシンプルだ。
上からの改革は突き上げに弱い。いくらリシャールがレフコス王国に議会制を導入しようと、議会の地盤が整う前に王政復古を唱えられては元も子もない。
自分たちの議会を動かそうという能動的な姿勢を諸侯に持たせ、横の連帯を成立させる。そのためには、彼らに原動力を与える必要がある。
ミトラス教が平和と快適性で世界に浸透したように、オレリアは娯楽と刺激で世界を侵食する。生まれた土地で死んでいく封建社会の人々にとって、同時代を生きる遠い地のニュースはさぞ刺激的な娯楽だろう。
そして、計画のために足りていなかったピースが埋まりつつある。
「では、本当にお任せしてよろしいのですな?」
「ええ。きっとご期待に添えると思いますよ。それどころか、期待を超えて伯を驚かせることすらできるかもしれませんね」
「はは、それは楽しみだ」
オレリアはニュージェント伯から土地を借り受けた。かつて文化の丘と呼ばれていた空き地の再開発を委任されたのだ。
港に近く、教会の影響力が弱い土地。つまり、教会との軋轢を生じさせずに海上の航路を使うことができる土地だ。
この土地を押さえれば、オレリアの文化的侵略は一気に加速する。何よりも、すでに文化的な娯楽を受容する基盤が形成されているのがとても好ましい。
これほどの好条件を見逃すわけにはいかない。たとえ、裏でニュージェント伯がどのような意図を抱えていようとも。
握手を交わして、オレリアは微笑んだ。
「――ということがありました」
「どういう……いや……何?」
眉間の皺を揉みほぐすリシャールの手元には、ニュージェント伯直筆の署名がなされた委任状と土地の権利書がある。
領主の館で歓待を受け、ニュージェント伯の三人娘に翻弄されるアンナと傭兵たちを傍目に、オレリアはこれらの契約を無事取りまとめてきた。
「事後承諾にはなりますが、マボン湾近郊で新事業に着手しようかと」
「……もう少しでいいから、事前に相談してくれないかな。せめて契約の段階で僕を立ち会わせるとか、やりようはあったはずだよ」
「申し訳ないとは思っています。私にとっても望外の好機でしたから」
リシャールは呆れたようにため息をついている。つい先日も独断専行を咎められたばかりだ、彼の気持ちがわからないわけではない。しかし、今回はオレリアも本当に想定外だったのだ。
まさかかつて自分が大立ち回りをした聖堂街とこの国に繋がりがあったとは。
「僕は実物を見たことがない。ガロアの聖堂街も、ニュージェント伯爵領の劇場もね。だから、彼が本当のことを言っているかはわからない。彼の言うことを信用していいのかい?」
「そうですね。両方を目にした者がいるとすれば、それは聖職者だけです。しかし、あのとき聖堂街には聖職者はいなかった」
ミトラス教の暦では1346年、今から3年前にオレリアが引き起こした「ガロア聖堂街の乱」は教会史における最も新しい大事件として記録されている。
あの日、オレリアは少なくない数の聖職者を聖堂街で目にした。その中にはオレリアが自ら瀕死に追いやった金貨鼠や、地下で限りなく異端に近い儀式を執り行っていた司教もいる。
それらはすべて、一人の聖職者によって最初からいなかったことになった。
「シエナのイシドルス。彼が口封じをしたと思うかい」
「どうでしょうね。ニュージェント伯は表向き教会とのつながりが薄い人物です。殿下の支持者でもあります。そんな貴族と教皇の使いにつながりがあるかどうか」
「……心当たりがあるんだ」
ぽつりとこぼしたリシャールの表情は複雑そうだった。
「聖堂街の事件より少し前、イシドルスがこの国にいたのは知っているね」
「ええ。レフコス王国から聖都に帰還する途中だったと、直接伺いましたから」
「表向き、彼は父を訪問したことになっている。でも、本当は勇者召喚の祭祀場に用があったんだ。……パーティーから早々に抜け出した彼が気になってね」
「まさか、尾行したんですか」
「僕もパーティーが退屈に思える年頃だったんだよ。それで……彼は馬車に乗って王城から去っていった。僕はその……馬車の後ろに張り付いた。夜闇に紛れてね」
オレリアは思わず彼に冷めた視線を向けてしまった。
サスペンションもゴムタイヤもない馬車は石畳の道ですらひどく揺れる。ましてやその後ろに張り付くなど、一国の王子がしていいことではない。もし振り落とされていれば、怪我で済むかも怪しいものだ。
「だから言いたくなかったんだ! 途中で降りるわけにもいかないだろ!」
「なるほど。勇者召喚が近いのではないかと考えたのは、この蛮行がきっかけだったと。ようやく納得がいきました」
「その馬鹿を見る目をやめろ! ああもう……それで、馬車は勇者召喚の祭祀場に着いた。イシドルスを出迎えたのは祭儀長だ」
「祭儀長。名前から察するに、勇者召喚の儀に携わる役職のようですが」
「そうだ。勇者召喚の儀がどのように成されるのかは、代々祭儀長とその助祭だけが知っている。僕は王子として年に一度祭祀場で執り行われる祝祭に出席するから、見知った顔だった」
一瞬、オレリアの中に邪な考えが浮かんだ。
勇者召喚の儀について、その詳細を祭儀長と助祭だけが知っているのなら、その二人を星辰の条件が整っている間だけ監禁してしまうか、最悪排除してしまえばよいのではないだろうか。
しかし、この選択はあまりにもリスクが大きい。
本当に儀式の詳細を知っている人間がそれだけとは限らないし、万が一それを実行した状態でも勇者が召喚されてしまったら、現王家の立場が非常に危うくなる。
オレリアはこの考えをなかったことにして、リシャールに話の続きを促した。
「彼は祭儀長に何か、筒のようなものを渡していた」
「その時、祭儀長の姿勢は?」
「姿勢?」
「跪いていましたか?」
「……ああ、うん、そうだった。跪いて受け取っていたよ」
「なるほど。続けてください」
最初は呆れてしまったが、どうやらリシャールの大冒険は極めて価値のある情報をもたらしてくれたようだ。
祭儀長が受け取ったという筒は教皇の書筒だろう。教皇が嵌めている指輪によってのみ封を外すことができ、それ以外の方法で中身を取り出すためには破壊するしかないという、教会内で最も厳重なセキュリティを有した筒だ。
かつてウーティスが教会の隠れ里で担当者と名乗っていた男から「これを複製できないか」と見せられたことがあり、オレリアはその話から教会内の政争が激化しつつあることを知った。
現状、この世界で最も優れた金属加工技術を持つ技術者の一人であるウーティスが再現できない筒。祭儀長の態度も含めて考えれば、イシドルスが運んできたのが「教皇からの手紙」であることは確実だ。
「それから僕は祭祀場の馬を借りて王城に戻った。奥に入っていった二人を追うわけにもいかないし、夜が更けてきて寒かったから」
「馬泥棒じゃないですか」
「仕方ないだろ、ちゃんと後で返したよ。……さっき言ったけど、祭祀場では年に一度、勇者の祝祭が開かれる。そこでは勇者の戦いを題材にした劇もやるんだ」
「宗教劇なら教会の許可が降りますからね。……ああ、なるほど。その劇をやっている劇団がニュージェント伯お抱えの団なのですね?」
リシャールの頷きによって、オレリアの中で疑問がひとつ解消された。
劇場の建材はガロアへ。では、劇団はどこへ? 答えは教会へ、だ。
祭祀場での祝祭が年に一度とはいえ、宗教劇であれば教会の許しを得て公演を行うことができる。ニュージェント伯を後援者とし、祭祀場を拠点とすれば、劇団は少なくとも職を失いはしない。
しかも、自分が後援する劇団を教会に送り込めば、教会と懇ろな仲にならずともある程度の関係を維持することができる。上手くやれば劇団を情報源にすることも可能だろう。
ニュージェント伯は中々のやり手だ。オレリアは素直に彼を称賛した。
「ありがとうございます、殿下。とても有用な情報でした」
「どういたしまして。それで、この土地はどうするんだい? 君の手に余るようなら、僕から伯に返すけど」
「……いいえ、最大限に有効活用しましょう」
もしニュージェント伯と教会に繋がりがあったとしても、彼がリシャールを支持していることに変わりはない。敬虔ではないが、領主として教会との関係を維持する程度には賢明。これはむしろ都合がいい。
オレリアは計画を次の段階に進めるため、リシャールに小さな壺を差し出した。
簡素な焼き物の壺、それ自体には大した価値はない。しかし、中に入っているのは傭兵団がガロアから運んできてくれた、とても貴重な商品だ。
リシャールが壺の蓋を取り、中に詰まっている見慣れない種子に顔をしかめる。
オレリアがこれを受け取るためだけに幌馬車一杯の美術品を載せていったのを知っている彼は、この豆が高価であるということを知っている。しかし、本当にそれだけの価値を持つのか、見た目には疑わしいだろう。
しかし、オレリアは確信している。
この豆はレフコス王国の文化を変革させるのだ。
「雑誌の次は、喫茶店を始めます」
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