第20話 悪魔の豆

 世界を変革せしめるほどの思想は、個人の内省によってではなく、無責任な対話によって生まれる。これは絶対不変の真理だ。

 たとえば、カリスマ的思想家が先導者として、もしくは扇動者として世に現れたとしよう。労働者だが聡明かつ弁舌に長けた男で、もしかすると口髭で見た目にも威厳を高めようとしているかもしれない。

 彼の思想が世界を動かすためには、彼一人では到底足りない。一人のままなら彼は狂人として没する。

 彼の言葉を代わりに伝える鸚鵡と、彼の言葉に扇動される民衆。それが集まってようやくスタート地点だ。

 そして何よりも必要なのが、官憲の目がなく、身分によって席順が決まらない自由な空間。街頭演説よりも身近で、気軽で、親しみの持てる空間を共有して初めて、人は他者の思想を己の思想と錯覚する。


「貴族のサロンでは貴族の意見しか入りません。多くの視点がなければ、その社会は閉じたものになる。閉じた社会は安定のために停滞し、停滞がゆえに衰退します」

「……理屈はわかったけど」


 訝しげにリシャールが摘み上げたのは、乾燥したコーヒー豆だ。まだ加工されていないから、正確にはコーヒーノキに生るコーヒーチェリーの種子と言うべきだろう。

 リシャールが言いたいことはオレリアにもわかる。加工前のコーヒー豆はどう見ても美味しそうではない。

 事実、自生している南方大陸では果肉のみを食し、種子は捨てていた。


「これをどうするんだ……?」

「よく煎って、それから細かく砕いて、湯で抽出します。煮出す場合もあります」

「とんでもなく手間がかかるじゃないか。なんだか薬みたいだ」

「苦くて酸っぱくて渋いですから、薬に近いかもしれません。特に効能らしい効能はありませんが」

「……僕は好き好んで飲みたくはないかな」


 味を想像してしまったのか、それとも高値で買ってきた豆がゲテモノだったことに呆れたのか、リシャールは顔をしかめて壺に蓋をした。

 リシャールの反応は正しい。

 コーヒーは大人の嗜好品だ。苦味、酸味、渋味は子どもの味蕾が危険物として「まずい」と感じるようになっている味であり、大人であろうと初めて口にすれば驚くどころでは済まないだろう。

 しかし、どんな土地にも「通ぶりたい大人」はいるものだ。

 特別な場所でだけ提供される特別な味わい。それを知っていることはステータスになる。知らない者に対しては優越感を、知っている者に対しては連帯感を。


「大体、その手の嗜好品なら酒があるじゃないか」

「酒造は修道院の領分ですし、税も教会に持っていかれます」


 オレリアの端的な指摘に、リシャールは苦々しげに頷いた。

 市販されている酒は大半が葡萄酒かエールのどちらかで、やや葡萄酒のほうが流通量が多い。酒造に適した葡萄の農園は教会の土地の象徴として絵画によく描かれる。彼らが最も手広く営んでいる事業のひとつだからだ。

 薬と毒が同源であるように、酒もまた薬の範疇として教会が取り扱う。この世界では教会が酒の生産と流通に幅を利かせている。

 だからオレリアは喫茶店を選んだ。


「特別感を煽ることができる嗜好品ならなんでもよかったのですが、コーヒーが見つかったのは幸いでした」

「というと?」

「この豆、どこから来たと思いますか?」


 リシャールは壺を矯めつ眇めつしながら唸りはじめた。

 数ヶ月前にウーティスが作った銀と錫の合金を純銀と断言して恥をかいたばかりだが、それまでは一国の王子に相応しい目利きを誇っていた彼には相応の矜持がある。

 手のひらに乗るような焼き物の壺。凝った装飾はなく、釉薬もかかっていない簡素な作りだ。

 特徴らしい特徴は蓋の形状で、揺れても中身がこぼれにくいように革で縁取られている。密閉状態を保つための工夫だ。

 この壺がどこから運ばれてきたかという問題だけでもかなり意地悪なものだ。もしオレリアが出されたら、間違いなく外すだろう。


「……壺は南海の交易商がよく使うものだと思う。以前、これに似た壺に噛みタバコが詰まっていたのを見たことがある」

「お見事、正解です。では、その中身はどこから?」

「……わざわざガロア経由で運ばれてきたなら、入手が難しいんだろうな。そして教会の商隊が行き来していない地域だ」


 流石に鋭い。

 今ここにあるのは種だが、本来それを覆っていた果肉であるコーヒーチェリー自体は食用に適し、甘みがある。

 果物を干したものは長持ちする甘味として重宝される。コーヒーという名称すら伝わっていないということは、教会が定期的に入手できるところにはないということとほぼ同義だ。

 オレリアは小さく拍手して、リシャールの目利きを讃えた。


「そこまでたどり着ければ正解も同然ですね。おみそれしました」

「どうも。それで、一体どこの何なんだ?」

「コーヒーは南海を越えてさらに南、はるか彼方の南方大陸に自生する植物です」

「南方大陸……!」


 驚きのあまり立ち上がったリシャールが落としかけた壺を、オレリアはなんとか掴んで抱きかかえた。それなりの量が届いたが、次の目処がまだ立っていない貴重品なのだ。無駄にしたくない。

 しかし、彼を責めることはできなかった。南方大陸という地名とも呼べない漠然とした呼び名は、この大陸に生きる人々にとってとても重いのだ。


「聖墓ネストリアが結界によって封印されて以来、教会はネストリウスの線と呼ばれる境界線を引きました。それより南には入植してはならないという、国家の限界を定めた線です」

「そうだ。だが、その線は……」

「そうですね、私よりも殿下のほうがその線の重みをご存知でしょう」


 ネストリウスの線。

 国家の拡張限界を教会法が定めたその線は、物理的に大陸へと刻まれている。それは奇跡によるものでも、魔術によるものでもない。

 勇者によって打ち倒された魔王の軍勢。その亡骸が風化してなお大地に傷を残し、線となったものだ。


「ネストリウス以南はかつて領土でした。ミトラスが遣わした勇者によって魔王が封印され、彼の軍勢が滅ぼされてもなお、教会は南方への入植を固く禁じています」

「……オレリア。僕は第一王子だ。この国を憂いているし、愛している」

「存じています」

「だから、この国のためになると確信できるなら、どんな手でも使う覚悟がある」

「立派だと思います」

「でも、


 リシャールはオレリアの抱える壺を睨みつけていた。

 その目はかつてないほどに鋭く、そして、怒りと悲しみに揺れていた。


「僕は勇者の血統だ。南方大陸は、敵なんだよ」


 レフコス王国の王朝は初代勇者アキト・ハラダから始まっている。

 彼は偉大な勇者だった。なぜなら、彼は魔王を倒し、封印した勇者だからだ。

 そして、アキト・ハラダはその戦いで伴侶を亡くしている。王朝の始まり、国母として愛されるその妃は、勇者とともに戦い、そして死んだ。

 また間違えた。オレリアは失敗が身体の熱を奪っていく気配を感じた。

 オレリアはただ歴史としてそれを知っている。だから、当事者であるリシャールの激情を完全には理解しえない。

 リシャール・エルメット。長い歴史の中で、彼はアキト・ハラダを含む四勇者の血を引いている正統な後継者なのだ。それをオレリアは理解しきれていなかった。


「君は……何を考えているんだ。僕には君がわからないよ、オレリア」


 それでも、オレリアは彼の震える手を取った。

 剣の素振りでできたが固い。リシャールは勇者の後継として、人々に求められる王子の姿を追い求め、ここまで立派に育った。

 第一勇者はリシャールにとって目指すべき理想だ。そして、彼にとって南方大陸とは第一勇者が愛した人の仇なのだ。

 わからない。

 そう口にしたリシャールは今にも泣き出してしまいそうだった。

 きっと、本当はわかるのだろう。彼は聡明で、観察眼にも長けている。オレリアが少し説明するだけで、その先を読み解いてしまう。

 オレリアの胸中に、鈍い痛みが生じた。彼を蔑ろにしすぎたことへの後悔が。


「……きっと、殿下が私のすべてを理解する日は来ないでしょう。私が殿下の気持ちを汲み取れないように」


 転生者。

 オレリアがその秘密を明かしたのは、アンナだけだ。

 リシャールのことが嫌いなわけではない。信用していないわけでもない。ただ、彼には彼の立場がある。オレリアが彼に本当のことを話さないのは保身のためだ。

 それを申し訳なく思う程度には、オレリアはリシャールに好感を抱いていた。


「南方大陸で暮らす人々は言葉も、肌の色も、文化も我々とは違います。しかし、彼らは魔王の配下ではありません。……そんな、当たり前の言葉で解決する感情ではないのでしょうね」

「……頭では、わかっている」


 オレリアがリシャールの頬に手を添えると、彼は驚いたように息を呑んだ。しかし、拒みはしなかった。

 これは感情の問題だ。しかも、彼にしか理解できない類の。

 今や、初代勇者へ心からの崇敬を向けている人間などごくわずかだ。勇者のお膝元であるレフコス王国でもどれだけいるか、わかったものではない。

 リシャールはそのに含まれる。


「……初代勇者は、僕がなるべき姿なんだ。国民は皆、それを求めてる」

「そうかもしれませんね」

「初代勇者の妻を殺したのは、南方大陸からやってきた魔王の軍勢だった。一つ目の巨人が彼女と相討ちになった」

「ええ、本で読んだことがあります」

「……それでも、初代勇者なら南方大陸を許したかな」


 オレリアの中で無数の言葉が浮かんでは消え、また浮かんでは消えた。

 勇者を信仰しないオレリアは、リシャールに知ったような口をきけない。賢しらなことを言って煙に巻きたくもない。

 しかし、誠実な言葉はどれも彼を宥めるには不足だった。

 信じない者の言葉は、信じる者にとってあまりにも無力だ。


「……ごめん、取り乱した。君が正しいんだと思う」

「いいえ。……いいえ。それは違いますよ、殿下」

「そうかな。……公務がまだ残っていてね。今日はこのあたりにしよう」

「はい。……出直します」


 オレリアは羽根ペンを手にしたリシャールに会釈をして、彼の部屋を後にした。

 浮かれていた自分を縊り殺してやりたい。

 そんな情けない気分で、それでも、壺は抱えたままだった。

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