第13話 闇の中

 馬車の揺れでずり落ちた眼鏡をもとに戻しながら、マテウスは書き途中の報告書に羽根ペンを走らせていた。遥か遠く、東方のシエナで待つ上司の元へ向かうため、馬車はかなりの早さで街道を進んでいる。

 うんざりしていた。13年もかけて聖堂街が一瞬で台無しだ。


「ふざけたガキだ、まったく。神託がなければどうなってたか」


 悪態の矛先はオレリア・アルノワだ。

 2年前、マテウスは神託を受けた。より正確には教皇が賜ったというミトラスの神託を上司の指示によって実行に移した。

 生き残った赤子、オレリアに母親が暗殺されたという事実を懺悔せよ。

 当時は偉大なるミトラスの意思とはいえ困惑した。まだ言葉を発さない赤子に懺悔したところで、なんの意味があるというのか。それでもマテウスは信徒として忠実に、赤子のゆりかごに跪いた。

 そして、その赤子はマテウスの懺悔を完膚なきまでに聞き届けていた。

 もしかするとオレリアの成した偉業はミトラスの導きによるものなのかもしれない。もしくは、オレリアという異常な少女が存在することそのものが。

 しかし、もしそうなら一貫性がない。

 神はオレリアを通して腐敗した聖職者たちに裁きを下した。その代行者であるオレリアは救わず、さらには腐敗の首謀者であるマテウスを赦した。


「……主のお考えってやつはわけがわからねえな」


 とうとう馴染まなかった眼鏡を諦めて外し、代わりに懐から葉巻を取り出す。

 隣に座っていた副官が構えたを手で制して、マテウスは自らマッチを擦った。

 勇者ゆかりの品として下賜されたが、ガスくささがあまりにも葉巻と合わない。大方、枢機卿手ずから選んだ贈り物なのだろう。葉巻という嗜好品への理解のなさが実に非喫煙者の彼らしい。

 久しぶりの喫煙で脳がくらくらする。この13年間、辛いことはいくらでもあったが、中でも医療者として振る舞うための禁煙が一番辛かった。善良で敬虔、少し臆病なお医者さん。その役割に葉巻の香りは似合わない。


「あー……なげえ仕事だったぜ」

「しかし、見事に果たされました。主もきっとお喜びでしょう」

「それこそ主のみぞ知る、だ。枢機卿猊下はお喜びだろうがよ、13年もお医者さんごっこさせられた俺は楽しくなかったぜ?」


 マテウスは聖療院の出身ではない。だから、本来は宮廷医になれないし、なるだけの知識も備わっているはずがない。今回の仕事のために叩き込まれた知識だ。

 マテウスはガロアの中枢に宮廷医として潜り込み、13年かけて腐敗と汚職を招いた。枢機卿の命によって、ガロアの南進を阻むための工作を行っていたのだ。

 ガロアの快進撃を止めるために、マテウスはとびきりの病巣を用意した。


「そうまでして防ぐ必要があるのでしょうか、聖墓への道というのは」

「あー? まあ、色々あんだよ、上には」

「……色々、ですか」


 たとえ堕落した連中だとしても多くの聖職者が犠牲になったことが腑に落ちないらしく、まだ年若い副官はしきりに死者を悼む聖句を唱えていた。

 捨て子として世に生まれ落ち、修道院で育ち、最近まで枢機卿の元で教育を受けていた、いわば根っからのエリートだ。今すぐに清濁併せ呑むとはいかないだろう。こういう無駄な疑問を口にするのはまさに若さと愚かさの証拠だ。

 マテウスは彼の問いかけに一瞬苛立った自分を嘲笑った。

 彼も無能なわけではない。年の頃は17かそこらだ。自分が同じくらいの年だったときはもっと間抜けな面を浮かべていた。なんなら読み書きもできなかった。

 つい先日まで才能の塊のような化け物と対面していたせいで、どうにも感覚がズレてしまったようだ。任務に支障を来す前に調律しなくてはならないだろう。


「ま、しばらくは戦争どころじゃねえだろうさ。国庫も苦しい、人事も苦しい、挙句の果てに王位継承者も苦しいときた。30年、いや、最低でも20年はに専念してもらおうじゃねえか。……あのガキさえいなきゃ、もう少し削れたが」


 煙の向こうに幻視するようにして思い浮かべる。

 まだ3歳の矮小な存在。それがかつてマテウスの演じた懺悔を材料に聖堂街の開門を手伝えと要求してきたときは、流石に背筋が粟立つのを感じた。

 昔からどんなに怯えていても微笑みを絶やさない、不気味な小娘だった。しかし、その才気をぶつけられた瞬間、ずっと感じてきた不気味さの正体は微笑みの仮面ではないとマテウスは理解した。


「オレリア・アルノワ……それほどまでに聡明なのですか?」

「いや、歳の割にはイカれた賢さはしてたが、そこじゃねえな。……常識だ。あれは常識がある」

「常識、ですか」


 いまいち納得がいかないという顔の副官にマテウスはうんざりした。

 枢機卿は本当に彼を教育したのだろうか。育児放棄で自分の手駒に世話を任せる気なら、マテウスにも相応の報酬を強請る用意がある。


「いいか、あれは3歳のガキだ。3歳のガキがとんでもなく賢い、まあここまではいい。どんだけ出てても16になるころにはならされてる杭だ。だが、それをわかっていて自分を常識で縛っているやつは、均す方法がねえ」

「……彼女はまだ本気を出していないと?」

「いいや、あれで全力の本気だった。なんの躊躇いもなく切れるカードを全部切りやがったからな」


 黄金に満ちた聖堂街。マテウスはあの甘い腐敗を使って内側からガロアを溶かすつもりでいた。汚職を広げ、国を弱らせようと。

 事実、大貴族であるセベリウス侯の野心を煽り、ペレー伯の次男坊を転がして聖堂街に世俗の欲を引き込むところまではうまくいっていたのだ。

 マテウスも、ノウァートス・ペレーも、セベリウス侯も、オレリアのことなど微塵も警戒していなかった。

 その結果がこれだ。

 セベリウス侯は晒し首になり、ノウァートスは消され、マテウスは逃げるようにしてガロアを後にする羽目になった。全体の戦局で見れば勝ったも同然だが、完勝の盤面をたったひとつの駒に覆された不快感は拭いきれない。


「才気のあるガキなんざ、いくらでもいる。そいつらが摘まれるのは才気を誇るからだ。あいつはそれを理解して、常識で自分を縛っていた。化け物だぜ、あれは」

「……消すべきでは」

「逸るな、間抜け」


 煙を顔に吹きかけると、副官は咳き込みながら小さく悪態をついた。

 それでいい。従順な部下よりも跳ねっ返りのほうが育てがいがある。馬鹿でも枢機卿が目をかけていたのなら素質があるということだろう。そうであってほしい。

 ガロアの宮廷に潜入したとき、マテウスは32歳だった。今や四十代も半ばだ。次の世代を育てなければならない。時代は進む。マテウスはその分老いる。


「今手を出せばガロアは暴発する。いくら脆くなったとはいえ諸侯の抱える馬も槍も減ったわけじゃねえ。それに……」

「それに?」

「……いや、これはお前には早いな。宿題だ、ちゃんと考えとけよ間抜け」


 口にする気にもならなかった。運がオレリアに味方した、などと。

 シエナのイシドルス。教皇の命によってレフコス王国に赴いていた彼がこのタイミングでガロアに到着したのは、まごうことなき偶然だ。

 当代の教皇は「主の聖意に沿わないこと」を嫌う。金儲け、言論統制、背教者の暗殺など、彼が好まないことはそれなりに多い。そしてそれらは、マテウスとその上司である枢機卿の主な仕事でもある。

 枢機卿の駒が宮廷にいたことはイシドルスも勘づくだろう。教皇派の筆頭である彼に下手な確証を与えないために、マテウスは己の死体を偽装して早々にガロアから去る必要があった。

 あと一日でもイシドルスの到着が遅れていれば、オレリアの運命は悪い方に転がっていただろう。


「オレリア・アルノワか……」


 枢機卿の手駒として育ったマテウスは、信仰のためになんの躊躇いもなく殉教できると自負している。しかし、それは神のためであって、聖職者のためではない。

 ここ数十年、教会は荒れに荒れている。各地で様々な異端的教派が萌芽の兆しを見せ、内部でも政治的な対立が複雑に絡み合い、信仰のためではなく権力のために強いられての殉教が後を絶たない。

 この荒れた時代に現れた、神託に名指しされた麒麟児。

 マテウスも運命的なものを感じざるを得なかった。


「何かおっしゃいましたか?」

「さっさと伝書鳩を出せっつったんだよ。急がねえと置いてくぞ」


 呑気にしていると、時代に置いていかれるのはマテウスかもしれない。

 文句を言いながら鳩の脚に密書用の筒を結わえ付ける若い副官を傍目に、マテウスは葉巻の火を灰皿に押し付けて揉み消した。

 一刻も早く、シエナで待つ枢機卿に謁見しなくては。

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