第12話 オレリア・アルノワは転生者である

 失敗した。

 自室のベッドに腰掛けるオレリアに語りかけるのは、時計の秒針だけだった。

 うまくやったつもりだったのに、ただ無為に生き残ってしまった。兄の命は救えたが、命だけだ。彼が王になることはない。

 結局、小さなオレリアができたことは小さな悪を取り除くことだけ。分相応な結末と言えるかもしれない。

 ただ、オレリアはこの先どうするか何も計画していなかった。兄を救うという大義名分を得て、今日を命日と決めたのだから、先を考える必要がなかった。

 久しぶりに何も考えない時間が発生したせいで、どう過ごせばいいかわからない。不謹慎な言い方をすれば、退屈でしょうがない。

 そんなとき、扉がノックされた。


「……どうぞ」


 入室してきたのはアンナだった。

 いつもどこかおどけたような表情の彼女が、感情の抜け落ちたような無表情で何も言わずにオレリアを見つめている。

 責められているような気がして、オレリアは思わず目をそらした。

 近衛兵たちを呼ぶよう頼み、自分から離して以来、面と向かっての会話はしていなかった。そんな暇はなかったし、顔を合わせたくもなかった。

 それでも、沈黙に耐えかねて口を開いたのはオレリアだった。


「……座ったらどうですか」


 アンナはオレリアにとって唯一の家臣だ。

 近衛兵の娘として宮廷に出入りしていた彼女は自ら志願してオレリアの侍衛武官となった。不慣れな侍女としての仕事を覚え、まだ肉体的に幼いオレリアの手足となって働いてくれた。

 そんな彼女に死ぬ予定だと伝えなかった、その負い目がオレリアを苛んでいる。

 ベッドが沈む柔らかな感覚で、オレリアは彼女が自分の隣に座ったことに気づいた。普段ならありえない、肌の触れるような近さ。

 お互い何も言葉を発することなく、二人でしばらくそうしていた。


「……私が姫様の侍衛武官に志願した理由、まだお話してなかったですよね」

「そうだったかもしれません。私が聞かなかったからですね」

「お話するつもりなかったんで、はぐらかしたと思います。……なんか、ほっとけなかったっていうか」

「はあ」


 一体何の話を始めたのかと、オレリアは思わず隣に座るアンナを見上げた。


「姫様、ほっといたらいつか死んじゃう人だなって思って」

「……人生を棒に振る根拠としては頼りない直感ですね」

「でも、図星ですよね」


 図星だった。

 アンナと出会ったのはオレリアが1歳半のときだ。

 母が死んでまだ1年も経っていなかった。死への恐怖と脱走願望をまだ隠しきれていなかったという自覚はある。近寄りがたい子どもだっただろう。

 それでもアンナはあまりにも気安くオレリアに話しかけた。上司でもある父親に拳骨を落とされてなお笑うアンナを前に、オレリアはひどく戸惑った。


「怒っていますか」

「はい。でも、そういうのから守ることも私の仕事ですし」

「そういうの、とは?」

「不安とか、恐怖とか。わかんないですけど、姫様が何か隠してて、ずっと一人で考えてたのは、そこと繋がってるのかなって」


 アンナの腕に抱き寄せられて、オレリアは一瞬身体を強張らせた。

 彼女を信じていないわけではない。ただ、この世界に生まれてからずっと、自分が異物だと考えていた。異物はいつか排除される。

 社会という生命は生存と発展の過程で異物を拒絶する。それをオレリアは知った状態で、異物として生まれてきた。


「だから、ごめんなさい。姫様が賢いからって私が役目を投げっぱなしにしていいことにはならないんだってこと、ようやくわかりました」

「……あなたには、何も罪はありませんよ。今までも、今回の事件でも」

「姫様がそうしてくれたからですよね、それは。姫様が私を近衛のほうに回してくれたから、私は何も見ずに済んだんじゃないですか」

「違います」

「違わないです」

「違うんです!」


 オレリアが振り払うと、あっけなくアンナはオレリアを解放した。

 そんな優しい人間ではない。苦しさで吐きそうだった。

 確かに、アンナに罪が及ばないように手配はした。しかし、それは立つ鳥跡を濁さず、つまりオレリアが死んだ後アンナに迷惑をかけたくないと思ったからだ。

 自己満足。そう自覚しているからこそ、オレリアは彼女から謝罪も感謝も受け取りたくなかった。受け取らないとわかっていたからできたことだったのに、どうして生き残ってしまったのか。


「私は……私は、死ねればそれでよかったんです! ただ、せっかくの命を無駄遣いしたくなかった! 大切な人たちのために使って死ねると思ったから!」


 泣いていた。

 初めてだった。オレリアはこの世界に生まれて、初めて涙を流していた。次々にこみ上げる感情が喉をつまらせる。言葉が形をなさなくなる。

 転生者としての自我と、それに伴った責任感やプライド。王女という地位へのプレッシャー、母の暗殺。あらゆる鎖がオレリアを雁字搦めにしてきた。涙を流す暇など、ありはしなかった。

 失敗して、暇になって、オレリアはとうとう泣いた。


「大丈夫です」


 抱きしめる腕を、今度は振りほどけなかった。


「全部聞かせてください。私馬鹿なんで、今すぐわかるって断言はできないですけど、でも、絶対に姫様の考えてることがわかるようになるんで」

「……どう、して」

「そりゃあ……嬉しかったからですかね。こんな小さくて可愛いお姫様が、私のことを唯一の家臣だって言ってくれるんだから」

「そんなの……理由に、なりません」

「じゃあ、理由はないってことになりますね」

「なんですか、それ」


 3年分の涙が溜まっていたかのように溢れ出ていく。

 赤子の肉体から死にゆく母を見ることしかできなかったあの日から、ずっとオレリアに詰まっていた恐怖と諦め。直視することなく逃げ続けてきたそれが、とうとう爆発してしまった。

 支離滅裂な弱音と愚痴を吐き出して、オレリアはアンナにしがみつくようにして泣き喚いた。

 落ち着くころには体内の水分を全部出し切ったのではないかと思うくらいに疲れていて、ぐしゃぐしゃになったアンナのお仕着せがそれだけ泣いたのだという事実を裏付けていた。気恥ずかしさで顔が上げられない。


「……ごめんなさい、アンナ。取り乱しました」

「いえいえ。ようやく家臣としてお役に立てて、嬉しかったです。……ひとつだけ、質問があって」

「いいですよ、なんでしょう」

「シャルル殿下が魔王じゃないって、姫様が言い切れるのはどうしてですか?」


 シャルルが聖堂街に連れ去られたのは、彼が魔王の後継であるという噂があったからだ。もちろん、それは最初から誘拐の口実として悪意を持って広められた噂だったが、信憑性のない噂はそう簡単には広がらない。

 もし、シャルルが教会の恐れる悪の魔王として覚醒し、世界に仇なす存在となったら。そんな不安を裏付けるだけの強さと人当たりの悪さがシャルルにはあった。

 オレリアはそれをわかっていて、躊躇うことなくシャルルを助けに行った。


「……もしかすると、怒られるかもしれませんね。根拠は何もなかったんです」

「えっ、そうなんですか? てっきり何かあるのかと」

「何も。教会が魔王になる方法を教えてくれるわけではないですからね。ただ……家族を信じてみただけなんです」


 本当に、オレリアは教会が定めるところの魔王とその後継についてほとんど情報を得ることができなかった。

 教会の情報統制が徹底しているからか、もしくは魔王の後継と噂される人物の目に届くところから魔王についての資料を排除した者がいたのかもしれない。

 だから、オレリアは最後まで兄への信頼で前に進んでいた。


「そう、ですか。……うん、安心しました。そのほうがいいと思います」

「よくないですよ。私は無根拠に世界を危機に晒したんです」

「その理屈で行けば、教会の人たちは無根拠にシャルル殿下を危機に晒したんじゃないですか?」

「それは屁理屈というんです。弁護にはなりませんよ」

「ありゃ……まあでも、ほら! 結果良ければ、って言うじゃないですか!」


 結果はあまり良くない。それでも、アンナが言わんとすることは伝わった。

 オレリアもシャルルも生きている。


「アンナ、私からも質問があります」

「なんなりと」

「アンナは……」


 万事ままならない。

 前世の知識があるからといって謀がうまくなるわけではないし、すべて手のひらの上というわけにもいかない。いつ暗殺されるかもわからず、ずっと怯えてきた。

 それでも。


「アンナは、私が勇者たちの故郷から転生してきた……と言ったら、それでも私が正気だと、信じてくれますか?」


 オレリア・アルノワは生きることにした。

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