第11話 始末

 レイモン・ジラールは頭を抱えていた。30年の宮廷勤めで一番の悪夢だった。

 たった一日だ。たった一日、仕事で自分が不在だっただけで、どうしてここまで国家が存亡の危機に立たされるのか。

 第一王子シャルルが誘拐された。この際、それはいい。反逆者の首を十や二十落とすことくらいは大した問題ではない。旧臣であるセベリウス侯を処断するのは王にとっても痛手だろうが、やむを得ない処置だ。

 厄介なのはそれを実行したのが宮廷内の聖職者で、自ら救出を先導したのがシャルルの妹、オレリアであることだった。

 彼女を筆頭に近衛兵が連帯し、教会にとって事実上の領地である聖堂街を侵略、征服した。オレリアは教会に奇襲戦争を仕掛けたのだ。


「いやあ、お困りのご様子ですな。拙僧としても衝撃に顎が外れそうな思いですぞ」

「……御坊とて他人事ではあるまい」

「もちろんです。もとより拙僧は聖下から聖堂街の様子を見てきてほしいと直々に拝命した身ゆえ、これは拙僧の首も落ちてしまいますかなあ! はっはっは」


 一番の厄介事は、ジラールが王の名代として迎えに行ったこの怪僧だった。

 ジラールに与えられた宮宰としての執務室を我が物顔で占領する肥満体。その禿げ上がった頭、のっぺりとした顔つき、丸まった背中は、育ちすぎたサンショウウオを思わせる。

 シエナのイシドルス。寸詰まりの指で呑気に焼菓子などつまんでみせる呑気な姿とは裏腹に、彼はただの生臭坊主ではない。


「しかし、拙僧の立場としては驚くよりほかありませんぞ、宮宰殿。まさか、聖堂街にが住み着いていたとは!」


 聖堂執事次長ノウァートス、地下でシャルルを儀式にかけようと目論んでいた司教、彼らに従っていた修道士および助祭、合わせて23名。

 その全員がイシドルスの一声でになった。

 彼はそれを許される立場であると教皇に保証された人物だ。だからこそ、ジラールは自らの足で彼を出迎える必要があった。

 イシドルスによって真実として流布される物語はこうだ。


 本来聖堂街に赴任するはずだった司教は道中で野盗によって無念の死を遂げ、司教に成り代わった野盗たちが聖堂街に侵入した。戦で人が出払っているのをいいことに、野盗たちはそのまま内部を制圧してしまった。

 野盗を手引きしていたノウァートス・ペレーを筆頭に世俗の権力者を取り込み、以降10年に亘って聖堂街は盗賊が支配する悪徳の都と成り果てていた。

 盗賊の討伐はもとを正せば世俗の統治者である王侯の責務であり、それを果たすために不在の王に代わってシャルル、オレリア兄妹が身を挺して聖職者たちを救った。二人とその同胞は信仰の守護者である。

 しかし、これはあくまで世俗の統治者としての責務を果たしただけであり、怠慢によって教会に生じた犠牲はガロア王国によって償われなくてはならない。


 つまり、聖職者の腐敗をなかったことにする代わりにオレリアの戦争を盗賊退治にすり替えるということだ。


「オレリア姫でしたかな? いやあ、随分と元気いっぱいでらっしゃるようですなあ! 拙僧も幼い頃はあのように天真爛漫そのものでしたが、この歳になるとどうにも身体が重くていかんです。肉が付きすぎましたかな?」


 陽気な声とは裏腹に、イシドルスの目つきは鋭かった。

 彼はオレリアを出家させ、修道女として育てろと要求している。信仰による枷をつけ、教会に手綱を握らせろと。

 今回の件で、変わった子供程度にしか扱っていなかったオレリアへの認識を改めることになった。彼女は異常だ。教会が欲しがるのも頷ける。

 しかし、それは認められなかった。

 ただでさえガロア王国は分断の危機にあるというのに、出家した王族などという爆弾を抱えたくはない。もしオレリアが修道女として教会に調教され、還俗してガロア王国に戻ってくれば、この国は彼女を通して教会の傀儡に成り果てるだろう。


「……オレリア姫は母君を亡くされている。唯一の肉親を喪いかねないという幼子の気持ちを酌んではいただけないか」

「酌めませんな。その母君というのは一体誰だったのか、拙僧は寡聞にして存じあげませぬゆえ。さぞ高貴なお方だったのでしょうが……せめて教会で葬儀を上げていれば、拙僧も動けたのですよ?」

「いけしゃあしゃあと……!」


 この宮廷に

 今回の事件がそのような筋書きに変えられた以上、司教に許されたテオダルド3世とオリアーヌの結婚はということになるのだ。

 もちろん、事実ではない。

 しかし、この筋書きが教会側の提示できる譲歩の限界なのだ。仮に起きたとおりのことを公表すれば、「腐敗した教会とそれを保護していたガロア王国」を喧伝することになる。

 ガロア王国は多くの属州によって成り立っている。その属州との情報や物資の行き来は教会によって支えられている。言ってみればガロアはいつ爆発するかわからない病巣を抱え、教会のおかげで小康状態を保つことが叶っているのだ。

 国家と王族なら、宮宰としてジラールは国家を選ぶ。

 シャルル、オレリアは教会にとって今や王位を継ぐ者ではなくなった。彼らは庶子として扱われる。


「……後妻には敬虔なミトラス教徒を充てる。オレリア姫は小国に嫁がせる」

「まあ、そのあたりで手打ちですかな。拙僧としてはガロア王国には末永く精強であってほしいと願っておりますゆえ。シャルル殿下、おっと、もう殿下ではありませんな、シャルルくんにはぜひ属州を富ませてほしいものです」


 聖堂街に蓄えられていた財貨は穀物から宝飾品まですべてガロア王国が接収し、その上で半分を教会に寄進するということで決着がついた。

 この国はあまりにも弱い。

 ジラールはイシドルスが用意したいくつかの羊皮紙に署名しながら、ぐっと奥歯を噛み締めた。

 教会なくして国家なし。ガロア王国の広大な領土は教会がなければ機能しない。国が大きくなればなるほど、教会への依存度が増していく。

 何よりも恐ろしいのが神だ。

 オレリアが抱える最大の異常、それは神を恐れていないことだった。兄一人の命のために神聖な儀式を破壊し、その祭具をそのまま凶器として聖職者を殺めるなど、正気の沙汰ではない。

 司教が儀式のために所持していた隕鉄の短剣。オレリアはそれを使って、司教を生きたまま去勢した。

 まるでかのようなその振る舞い。自室に軟禁され、平然とした表情で沙汰を待つオレリアの姿はさほど信心深いわけでもないジラールの目にすら恐ろしく映った。

 ジラールは壁にかけられた一枚の絵画を見上げた。小高い丘に立つ孤独な十字架と、その背を照らす太陽。国民の誰もが知る『魔王の磔刑』だ。

 宮宰という立場は誘惑が多い。それは私利私欲よりもむしろ、国家のための外道として現れる。この絵画はジラールにとって戒めだった。政の正道から逸れることなく、国を豊かにしていくための。


「……ああ、『魔王の磔刑』ですな。ジョスリン・イプスウィッチの晩年の作、そうでしょう? いやあ、レフコスの民らしい素朴な筆遣いで、拙僧も心に染み付いた油汚れが拭われるようです」


 ジラールは返事をしなかった。

 ミトラスの教えに従うのなら、シャルルのためとはいえ聖職者を殺したオレリアは大罪人だ。彼女は罰せられなくてはならない。

 しかし、宮宰としてジラールにも思うところはある。そもそも聖俗で言えば聖職側の責任が問われるべきだ。彼らの腐敗と堕落によってガロアの民が犠牲になり、そしてオレリアはこの国を離れることになる。

 国を守った。それはそうだ。しかし、ジラールは兄を思って孤独に戦った幼子を国のために切り捨てなければならない。よりによって、悪事を働いた連中のために。


「――滅多なことは考えないほうがよろしいでしょうな、宮宰殿」

「……私は、何も」

「いや、拙僧としてもお気持ちはよくわかりますとも。愚か者共が余計なことをしたせいで拙僧の面目は丸潰れです。なんなら拙僧、オレリアちゃんを聖人として祀り上げてもいいくらいには感謝しておりますぞ?」


 馴れ馴れしい口調でオレリアを褒め称えたあと、イシドルスはそのぶくぶくと膨れた腹にこぼれた焼き菓子の滓を払って、「しかし」と続けた。


「しかしですな。物事には道理がある。道理の通らんことをされてしまっては、拙僧や宮宰殿のような上の者が困るわけです。今回のことだって、拙僧が到着するまで待っていただければ済んだ話だというのに」

「御坊が到着するまで、一日あった。それだけ待っていれば、シャルル殿下は……シャルル殿下は、亡くなられていたのだぞ……!」

「それでも、です。悲しいことですが、所詮は王子に過ぎない。また産ませればよろしいことではありませんかな? もっと相応しい女人がいくらでもおりましょう? 拙僧、何か間違ったことを言っておりましょうか?」


 そう口にして、当たり前のように次の焼き菓子を啄む。

 あまりにも残酷なことに、ミトラスの御下ではイシドルスが正しい。彼は余すことなく妥当なことを言っている。

 オレリアは間違えたのだ。シャルルが攫われた時点で諦めるべきだった。流民に頼られてそれをよしとし、近衛兵をまとめ上げ、聖職者を殺めた。いくら王族でも、ジラールには庇いきれない。

 しかし、それは政治の領分だ。


「御坊の聖典には『汝、信仰のために家族を見捨てよ』と書かれているのか?」

「まさか! 拙僧の信じる神はもう少し温厚ですぞ。なんといっても『汝、信仰に躊躇うべからず』と教えられて育ちましたからな」


 そう、彼らには躊躇いがない。

 流民に頼られようと、躊躇うことなくそれを無視することができる。信仰のために犠牲になった家族を躊躇うことなく見送り、喜ぶことができる。

 世俗の人間には理解できない残酷な敬虔さ。

 オレリアはきっとそこを読み間違えたのだろう。ジラールの目から見て、オレリアはかなりうまくやった。十分とは言えないが、将来に期待が持てるだけの謀を成し遂げた。

 そのオレリアを手放さなくてはならない。臣下としても、宮宰としても、そして一人の大人としても、ジラールは苦しくてならなかった。

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