第14話 内赦院の狐
シエナ教皇庁の内赦院は本質的に歪んでいる。
内赦院は神の教えを広めるという聖職者の原則的な役割を果たさない。彼らは罪を犯した聖職者を相手取る商売人だ。対価さえ用意すれば、神の名のもとに刻まれた罪の烙印をなかったことにできる。
汚職、貪吝、殺人、どのような悪事であろうと、内赦院の聴罪師は罪を打ち消すことができる。ただし、彼らが赦しを与えるのは「その価値がある聖職者」だけだ。
「小生をあまり困らせないでくれ、アンリ。君の部下など知りはしないとも。もし君が異端審問官を部下として扱っているのなら、少々火遊びが過ぎる。君はそこまで愚かではあるまい?」
そう嘯いて指先で異端審問官のタリスマンを弄ぶフーゴが何をしたのか、アンリには容易に想像できた。部下は処分されたのだ。
聴罪師には「生かす価値のない聖職者」を処分する権限が与えられている。
アンリが聴罪師を好きになれない理由はそこにある。人の身で裁きを取り消したかと思えば、身勝手な理由で代行もする。それを敬虔な信仰と呼べるほど、アンリは腐ってはいない。
「まあ、その不甲斐なさに満ちた顔に免じて認めよう。異端審問官ロレンチアは祈られることなく死んだ。あれは聖職者ではなく駄犬だよ、君。ノワイエ猊下はもう少し兵隊の質を磨くことを考えたほうがいい」
「彼女には専守防衛が命じられていたはずだぞ……それを、手にかけたのか!」
「なるほど、得心がいった。それで逃げ回っていたのか。アナグマの遊猟をしているようで愉快ではあったが、噛みついてこないことだけが不可解だった」
フーゴが嘲るようにタリスマンを投げ捨てた。
清くあれと祈られ、純銀で作られたタリスマンには、深く穿つようにして傷が刻まれている。傷の底に黒く固まっているのは血だろうか。
枢機卿派と教皇派の対立が明確になったのは2月のことだった。教皇派は星雲軍の大敗によって痛手を負い、内部でも足並みが揃わなくなった。彼らが団結するためには共通の目標が必要だった。
近々召喚されるはずの第五勇者を星雲軍の旗印とする。
そのような戯言が発端となり、辺境の島国に過ぎなかったレフコス王国は突如として教皇派の要衝となった。
表も裏も問わず送り込まれる教皇派の工作員を放置すれば、レフコス王国は教皇派によって管理される庭となる。聖人であるはずの勇者が世俗の戦に引き出され、やがて聖職者は単なる軍医に成り下がるだろう。
枢機卿はそれをよしとしなかった。
奇跡によって守られたシエナは今日も平穏の内にある。しかし、一度神の褥を離れれば、同じ神の名の下に互いを糾弾しあう醜悪な争いが大陸全土を巻き込もうとしているのがわかるだろう。
「馬鹿げた戦だ。小生とて、ロレンチアを自ら望んで滅したわけではない。そもそも、こんな田舎の島国で陣取り合戦などしても息苦しいだけだろう?」
「なら、手を引いたらどうだ」
「残念ながらそうはいかんのだよ、君。八聖家のお歴々は勇者という肩書きをお望みだ。もっとも、君の飼い主は名より実を取ったようだが。あれは中々粋な見世物だった、小生も感心させられたよ。あれは高く売れそうだ」
最後の一言を耳にした瞬間、アンリの拳がフーゴの頬を打った。
振り抜いた左腕の軋むような痛みよりも、転げるように吹き飛んだフーゴへの怒りが勝っていた。頭では理解している。露悪的な言い回しで誘導されたのだ。
血の混じった唾を吐き捨てながら、フーゴはせせら笑った。
「そんなに妹が心配かね、失敗作」
「黙れ」
「おや、小生は褒めているつもりだぞ? 君は称賛に値する存在だ。勇者の模造品、その失敗作でありながら、聖職者として牧歌的なほどに中道を行く精神性は、まさに模範的だ」
「黙れ……!」
「だから小生は君を赦すのだ。たとえ偽物の烙印を捺されようとも、小生がそれを取り消してやる。代わりに君は枢機卿が作り上げた君のご実家に小生を招いてくれる。よい取引だろう?」
アンリの放った追撃は躱され、空を切った拳が淡い燐光で空中に軌道を刻んだ。
これは奇跡ではない。アンリが生まれ持った、もしくは持つように計画され、生産された力――光の魔術だ。
皮膚の下、治癒の奇跡によって塞がれた肉体の奥底。表からは決して見えないように刻まれた魔導文字がアンリを蝕み、痛みを発する。まるで骨の中を虫が這っているような不快感。
しかし、ただ痛いだけなら堪えればいい。
痛み。それだけの小さな代償を支払えば、アンリは勇者の模造品になれる。魂が肉体の苦痛に屈しない限りにおいて、アンリは勇者になれる。
長時間の行使が期待できないという点では欠陥品だが、失敗作の中でもまだ実用性があるとして、アンリは処分を免れた。
スルダはアンリよりも
「わからんな。小生にはわからん。なぜノワイエ猊下は勇者の召喚を終わらせる? 真に信仰篤き者であれば、聖人である勇者によって齎された天上の知恵を拒む理由などありはしまい?」
「よくも、ぬけぬけと……!」
怒りと痛みで握りしめた拳から血が滴る。
アンリたちが生産されているのは枢機卿の私欲ではない。勇者召喚の儀を廃れさせるためだ。枢機卿は勇者の召喚を拒むため、外道に手を染めた。
そして、それは勇者たちの悲願だった。
魔王封印の結界に生命を焚べてきた勇者たちは、決して自ら望んでこの世を去ったわけではない。抗った者もいた。逃げた者もいた。その結末は、今もなお魔王が封印されているという事実が示している。
だから、勇者たちは願った。せめて犠牲が増えないように、次の勇者が求められないように、と。
しかし、聖職者たちはそれに同意していない。勇者がもたらす知恵も、そこから生まれる富も、手放すには惜しいものだ。魔王封印という大義名分がある限り、勇者は召喚され続ける。
「小生は哀れんでいるのだよ、アンリ。君と勇者、生命の価値に違いなど微塵もありはしまい。だのに、勇者の犠牲は否定して、君の犠牲は肯定する? そんな非合理を神が認めると思うかね」
「そんな建前で悲しむ人を増やすくらいなら、私は喜んで犠牲になる!」
「実に立派な心がけだ。しかし、君の妹にもその義務を強いることができるか? なんと言ったかな、彼女……そう、スルダ。スルダは自己犠牲よりも愉快な生きがいを見つけたようじゃないか」
掴みかかろうとしたアンリの手が弾かれる。
羽織っていた白の法衣を脱ぎ捨て、鞭のように振るったフーゴは、もはや笑ってなどいなかった。
「どちらつかずの半端者はやめたまえ、アンリ。小生の甘言に堕落しなかった高潔な聖職者を、小生自ら滅したくはない」
「私は……」
「小生とともに来い。星雲軍の新たな光として君を歓迎しよう。姉のマロツィアも君を好いている。君ならよき勇者として時代を照らすことができるだろう。さすれば、外道の罪は赦され、君の弟妹は救われる」
彼の言葉に嘘はない。
ベナドゥーチ家次期当主、フーゴ・ベナドゥーチ。彼にはアンリを枢機卿派から引き抜くだけの権力が備わっている。そして、それを成し遂げるだけの実力も。
ただ、差し伸べられた手を取るだけでいい。
アンリの脳裏によぎるのは、死んでいった兄姉の面影だ。失敗作として孤児院から消えていった者たち。アンリが彼らへの哀悼を欠かしたことは一夜とてない。
彼らの死はあまりにも理不尽なものだった。神が救うべき存在だった。一人として、死ぬべくして死んだ者などいはしない。
「……救われるべき者に救いの手を。遍く照らす主の光がなお及ばざる陰りにこそ、我が魂の光あれ」
だから、アンリが救うのだ。
「施与局の警句か。そんなものを唱えたところで、君は救護司祭にはなれない。どうあがいても君は外道の産物、生誕を祝福されなかった者なのだから」
「この身分が偽りであろうとも、信仰に偽りはない」
アンリは救護司祭ではない。救護司祭の身分を与えられた工作員だ。
しかし、貧者と病人の守護聖人、第二勇者ヒロ・フユハラが築き上げた教皇庁施与局の警句は、他の何よりもアンリの心を強く揺さぶった。救われない者がいることを嘆いている場合ではない。己の手で救いに向かうのだ。
全てを救えると思いこむほど幼稚ではない。アンリも犠牲は容認している。でなければ枢機卿の工作員など務まらないだろう。
勇者にはなれない。それでも、アンリは目の前で神が取りこぼした誰かを救えないままではいたくなかった。
偽の勇者として世俗の戦に担ぎ出されるなど、断じてありえない。
「……うーむ。うまく口説き落とせたと思ったのだが、まだ足りないか。いやはや、小生も精進が足りんな。穏便な手段で済ませようなどと、横着を――」
肩をすくめて細剣を抜いたフーゴに相対したまま、拳を構えるアンリ。
日の陰りつつある路地裏で二人の空間を裂いたのは、そそり立つ土の壁だった。
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