第4話 文書局の穴熊

 穴熊、そう揶揄される筆耕司祭がいる。

 前任の局長が更迭されたことで新たに文書局を預かる身となったメルキオッレ・ベナドゥーチは、今日の業務を穴熊と呼ばれている局員の所在を確認するところから始めなくてはならなかった。

 今年で42歳になるメルキオッレにとって、シエナ教皇庁の一部門である文書局の局長という役職は十分すぎる出世だ。

 上の政治はよくわからない。アラゴン家とベナドゥーチ家の当主間でどんなやり取りがあったのかなど、想像も及ばない。メルキオッレは世渡りが下手だ。いつもハズレくじばかり引かされる。

 しかし、勤勉な己を神が見放さなかったことは確信できる。この大出世は神の恩寵に他ならない。

 その確信は、無数に存在する書庫をひとつずつ開いて穴熊を探す作業の途中で揺らぎはじめていた。少なくとも、85番書庫を開いた時にはもうこの仕事にうんざりしていた。


「穴熊はいるか」


 鍵束を手にしたまま、書庫の中へと呼びかける様はさぞ間抜けに映るだろう。もう同じ工程を84回繰り返してきた。

 穴熊などいるわけがない。

 文書局の書庫は地下に伸びている。無数の機密文書を保管するため、螺旋を描くようにして地下へと増築を行う必要があった。

 だからといって、穴熊が地面を掘って入れるようなところではない。よく磨かれた黒の石材で組まれた床も壁も、もちろん天井も穴などありはしないのだから。


「ここでもない……もう85番だぞ? どこまで潜ればいいんだ、まったく」

「……んあ、誰かいるのか」


 書庫の扉を閉じようとしたメルキオッレは、重い鉄の扉を慌てて押し留めた。中から呼び止めるような声が聞こえた気がした。

 改めて扉を開き、ランタンを持った手を差し込んで部屋の中を照らす。

 暗い書庫の中、乱雑に積み上げられた羊皮紙や木簡に埋もれるようにして、黒い毛玉のような獣が光を避けるように身動みじろぎした。


「ひっ……け、獣が中に」

「獣?」


 思わず悲鳴を漏らしただけでも情けないというのに、黒い毛玉がこちらに顔を向けたときはもっと情けない声が喉から漏れた。

 メルキオッレは確かに目にした。その黒い毛皮の下には女の顔があった。人の顔をした獣が書庫をねぐらにしている。これはきっと魔王の尖兵に違いない。

 震える指でタリスマンに触れ、聖句を唱えようとしたそのとき、毛玉が立ち上がって大きく伸びをした。


「んー……腹が減ったぞ。それに喉も乾いた」

「わ、私を食べても、う、うまくないぞ!」

「心外である。僕は今のところ人間を食べたことはないし、その予定もない」


 彼女は黒い法衣に纏わりついた埃を指先で摘んだ。

 黒い法衣。

 胸には大樹のタリスマン。

 眠たげに垂れた眉。


「お、お前! ヴェルナティウスか!」

「いかにも。僕は筆耕司祭ヴェルナティウスである。ところで、貴公は誰か。そして、今日は何月の何日であるか」


 丸二日行方不明だったセルヴィティア家の筆耕司祭、ヴェルナティウス。

 男の名前を与えられ、日曜の礼拝にも姿を見せず、だらしない身なりを気にもせず、挙げ句の果てには文書局の書庫で寝泊まりする。そんな奇行の数々からついたあだ名が文書局の穴熊。

 この数分で全て納得がいった。

 メルキオッレは強まる頭痛を極力無視しようとした。しかし、どうやら自分は出世したわけではないようだという悲観的な推察から来る頭痛は到底無視しきれるものではなかった。


「……私は文書局局長、筆耕大司教メルキオッレ・ベナドゥーチ。つまり君の上司だ、わかるね? そして今日は6月の7日で、君の叔父上が昨日からお待ちだ」


 局長に就任して最初の大きな仕事が、この大きな子どもを保護者に届けることとは。内赦院で楽しそうに仕事をしている従弟のフーゴが羨ましくなる。

 ヴェルナティウスは教皇の世話人カペラヌスであるイシドルスの姪にあたる。そのイシドルスが彼女に任せたい仕事があるらしい。


「叔父上が?」

「そうだ。先々月には君から承諾の返事をもらっていると仰っていた」

「……ああ、思い出した。貴公、悪いが上までおぶってくれ。僕は空腹の限界で歩けそうにない」


 一瞬怒鳴りつけてやろうかとすら考えたが、ここは奇跡で争いが禁じられた聖都シエナだ。下手な真似をして戒めを受けたくはない。

 結局、メルキオッレは下ろしたての大司教衣で薄汚い彼女をおぶって地上を目指すはめになった。二日も着替えていないヴェルナティウスから漂う饐えた匂いが自分の背に載っていることを思うと、全身が粟立つような思いだった。


「先ほど、文書局局長と名乗っていたが」

「そうだ、私は上司なんだぞ! まったく、こんな馬鹿な真似をさせられて」

「バルトロメイはどうしたのだ」


 メルキオッレは言葉に詰まった。背負った彼女が意外に重いうえ、鼻で息を吸いたくないせいで呼吸が荒くなっていたのもある。

 前任者であるアラゴン家のバルトロメイは更迭された。情勢に疎いメルキオッレは詳しく知らないが、持ち出し禁止の何かを持ち出させて家の利益にしようとしたらしいとは聞いている。

 最初は聖職者の風上にも置けない存在と思っていたが、こんなろくでなしの局員を世話していたのであれば多少良い目を見たいという気持ちも理解できる。


「彼はいない、そして私が後任だ。それで、十分だろう」

「十分なものか! よいか、教皇庁の人事記録もまた文書局の管理対象なのだ! 記録に十分などありはしない、十二分の記録しか僕は認めない!」

「わかった、わかったから! 背中の上で暴れるな! 君の叔父に聞けばいいだろうが!」

「それもそうだ」


 この女はどこかおかしいのではないだろうか。

 メルキオッレは悪臭を放つ異常者をさっさと保護者のもとに送り届けようと、緩やかな坂道を必死に進んだ。


「どうして書庫の中にいた? 私は君を探すために85箇所も書庫を開けるはめになったんだぞ」

「レフコス王国黎明期の聖人会議について記録を探していたのだ」

「レフコス王国? 勇者召喚の? 最近やけに名前を聞くな」


 レフコス島は大陸の南東に位置するシエナから見てはるか遠く、田舎と呼ぶのもおこがましいような辺境だ。間に挟まるガロア王国の広大な領土を通過しなくてはたどり着けない。


「僕はそこに行くのだ」

「へえ、レフコス王国に……ちょっと待て、私は聞いてないぞ!」

「叔父上がそう言っていた」

「局長の私が! 聞いていないと言っているんだ!」

「では叔父上にそう言うといい、僕は知らん」


 今すぐこの女をここに放り捨ててやろうか。

 メルキオッレは一瞬真剣に悩んだが、結局諦めて歩みを進めた。教皇の世話人カペラヌスの権威に逆らうのが得ではないことくらいは流石にわかる。

 心配してやる義理は一切ないが、ヴェルナティウスは自身の部下だ。このいかにものろまそうな自堕落女がレフコス王国まで辿り着けるのか、メルキオッレは不安でならない。辿り着けなければ局長である自分が責任を問われるかもしれない。


「護衛の予算は君の叔父上から出るんだろうな? 文書局の人員は割けないぞ」

「護衛?」

「道中の護衛だ。ガロア王国を通過するなら、並の護衛では不足だからな。文書局から出せる護衛では少々……いや、かなり力不足だ」


 昨今、ガロア王国の領土は治安の悪化が著しい。

 従妹のマロツィアが召集した星雲軍、その第一陣が大敗を喫したことで、残党が野に落ち延びて盗賊行為を働いている。彼らの中には星雲軍を騙り、徴収と称して金品や女を強奪する者もいるそうだ。


「局長は詳しいな」

「と、当然だ! 私は文書局を預かる身だからな!」


 思わず見栄を張ってしまった。

 実家であるベナドゥーチ家の銀行での内勤時代に、受け持っていた担当区域がガロアの南東部に面していた。その区域の輸送車が被害を受けたことで初めてガロア王国の内情を知った。

 相変わらず純朴でらっしゃる、などとニヤつきながら地図を手に諸々を教えてくれたフーゴの顔は心底憎たらしかった。


「局長」

「なんだね? ああ、ガロア王国については私より、君の叔父上のほうが――」

「空腹が限界である。僕は眠る。叔父上が来たら起こしてくれ」


 言い終わるやいなや寝息を立てはじめた荷物を背に、メルキオッレは滅多に使わない口汚い罵声を吐き捨てた。

 

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婚約破棄から始まる転生悪役令嬢の宗教改革 睡沢夏生 @sleepy_summer_N

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