第4話 胸騒ぎ

 使い古しの兜と鎧を纏わされた案山子に狙いを定める。

 指先に魔力を集中させる。

 風を纏った指で槌を示す魔導文字を刻む。

 オレリアがこの3段階を踏んでようやく風の槌を叩きつけている間に、隣のアンナは7体の案山子に礫を飛ばして孔を開けていた。

 この修練場は王族用にと作られた空間だが、オレリアが知る限り最も通い慣れているのはアンナだ。腕を錆びつかせたくないという熱意の裏に彼女からの忠誠心を感じて、オレリアは時々妙に背筋が痒くなる。


「相変わらずとんでもない早さですね。あなた相手に鎧を着込む意味はないとよくわかりますよ」

「へへ、光栄ですね」


 にへらと笑ってみせるその可愛らしい顔とは裏腹に、やっていることは散弾による砲撃と変わらない。中に人間が入っていたら今頃ミンチだ。個人が非人道的な兵器となりうる世界で国際的な兵器禁止条約は成立するのだろうか。

 そんな益体もないことを考えているうちに、オレリアは少し前に読んだとある外交官の見聞録のことを思い出した。

 そこには「魔術から主を守る鏡の盾」の伝承が記されていた。どんな魔術も打ち消してしまう奇跡の盾だ。その盾を用いて千の軍勢から町を守った巡礼者が、死後に聖人として祀られたという。

 その外交官は眉唾ものだと考えていたようだが、オレリアにはそれほどありえない話ではないように思えた。素材に心あたりがあるのだ。


「一応、魔術が効かない相手もいるのでしたか」

「そうですね。隕鉄でしたっけ、ミトラスの恩寵を受けた空の鋼。あれは魔術を完全に弾きます」

「空の鋼とはまた、洒落た名付けですね」


 星々を神聖視している以上、隕石もまたミトラス教では非常に価値のあるものとして扱われる。そしてその中でも隕鉄は最上の存在、神からもたらされる恩寵の象徴として、主に高位聖職者のための装身具に用いられている。

 戦場に出ることがない坊主たちに与えるのは無駄遣いな気がしないでもないが、できるだけ世俗の戦いに隕鉄が流出することを防ごうとしているとも考えられる。魔術を無効化する金属など、争いを激化させる素でしかない。

 しかし、そうなると戦場で鎧を纏う意味はあるのだろうか。

 その疑問をそのままぶつけると、アンナは一瞬呆気にとられたような顔をしてから、小さく笑って得心がいったように頷いた。


「そういえば姫様はまだ3歳でしたね、うっかりしてました」

「む……確かに私は世間知らずですが」

「冗談です、お許しを。そうですね……兵が全員魔術を使えるようなら、重い鎧なんかよりもっと動きやすい格好をさせると思います」

「実際はそうではないと?」

「魔導文字を覚える機会がないです。私みたいにありがたくも宮廷勤めの機会をいただくような幸運、そうそうありませんよ」

「しかし、教育は……そうでしたね、忘れていました。教会は魔術を認めていない」


 これだけ技術として発展し、定着し、学べさえすれば誰でも使える魔術だが、当たり前のように普及しているわけではない。

 ガロア王国は封建社会だ。王が諸侯に封土を与え、諸侯は王に兵力と税で返す。その閉じた世界で諸侯がわざわざ領民たちに魔導文字を学ぶ機会を与えるだろうか?

 答えは否だ。

 魔術とは武力であり、封建制を維持するために武力は領主が独占する必要がある。だから、学びさえすれば使えるはずの魔術を実際に習得しているのは王侯とそのお気に入りだけなのだ。

 そして、本来であれば民に平等な学びの場を提供する教会は、魔術を忌避している。弾圧こそしないが、聖職者が表立って魔術を使うことはない。

 公には「魔術は人を傷つけるが、それはミトラスの聖意に沿うものではない」とされている。実に立派な大義名分だが、何かしら裏があるというのがオレリアの予想だ。


「まあ、そういうわけですから、戦場で実際に魔術を見ることは少ないと思いますよ。使えば大将首ってバレますし、温存する方も多いそうです」

「……アンナは衛兵隊出身だったと記憶していますが、随分と詳しいのですね」

「衛兵隊には引退した近衛が多いんです。先輩方には随分としごかれました……」


 哀愁漂う表情から察するに、相当厳しい指導を受けてきたのだろう。

 とはいえ、アンナの説明が正しければ、シャルルが戦場で危険な目に遭うことはさほど多くないのかもしれない。彼は氷の魔術の使い手だ。

 オレリアはこの世界に生まれ落ちてから、前世の知識を総動員して社会を分析してきた。その知識はかなり役に立ってきたが、どうにも前世のオレリアは軍事に疎かったらしく、情報が不足している。

 戦争という未知の、しかし過酷で危険であることはわかっている世界に兄が飛び込んでいく。その不安が解消されないせいか、ずっと胸騒ぎがしている。

 なんの解決になるわけでもないが、現場を知る人物が身近にいるというのは、オレリアにとってとても心強いことだった。


「シャルル殿下は明日の朝に出立なさるんでしたっけ?」

「兄上だけ一日遅れたと聞いています。馬の調子が悪いとか。戦のことはよくわからないのですが、将を残して軍が先行するというのは……大丈夫なのですか?」

「ご安心を、一日や二日ならすぐに追いつきます。軍は歩兵の速度に合わせて進みますから」

「それならよいのですが……」

「今は目の前のことに集中なさってください。もしご心配なようなら、後ほどシャルル殿下に出立前のご訪問を――」


 半ば倒れるようにして転がり込んできた人影によって、緩やかな雑談の時間は終わりを迎えた。

 肩で息をしながら、懇願するように膝をつく男。言葉を交わしたことはないが、知っている人物だった。シャルルが従僕として召し抱えた流民だ。

 麻のチュニックには血が滲み、南方人の血を引く浅黒い肌には打撲の痕がくっきりと残っている。


「――シャルル殿下が、攫われました」


 口の端から血を垂らした青年を前に、オレリアは己の小さな拳を握りしめた。

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