第5話 籠の中
「……よし、いい子だ」
ようやく落ち着きを見せた愛馬ゼフィランサスに角砂糖を与えて、シャルルはブラシを椅子の上に置いた。
幸先が悪い。
本当であればすでにはるか南方の戦地に向け、兵たちとともに出発しているはずだった。それを妨げたのは愛馬の異常なまでの荒ぶりだ。馴染みの馬丁すら寄せ付けず、目を充血させて嘶く様子は何かに憑かれたかと思わせるほどだった。
父が率いる軍の補給も兼ねているため、隊の出発を遅らせることはできない。特に諸侯のうち年長のセベリウス侯が頑なに計画通りの出立を主張したため、シャルルは彼に隊を預け、後から合流することとなった。
「殿下、お飲み物を」
「ご苦労」
従僕から差し出されたゴブレットを受け取り、注がれた葡萄酒を味わうことなく流し込む。今はただ渇きを癒したかった。
酒を楽しんでいる時間はない。しかし、将として焦る姿を見せるわけにもいかない。諸侯の前で情けない姿を晒すことは、王朝の未来を揺らがすことと同義だ。
本質的に諸侯はシャルルの味方ではない。彼らは己の一族と領地、そして信仰の味方であり、シャルルの指揮下にあるのは彼らの本意ではない。
こんなときに妹のような落ち着きが自分にも備わっていれば。シャルルはないものねだりをする自分の弱さを叱咤するように頬を叩いた。
「……どうした、マレー。不思議そうな顔をして」
「いえ……殿下も緊張されるのだな、と」
トレーを抱えたまま跪いてシャルルを見上げていた従僕が、浅黒い肌を羞恥に赤らめた。
マレーはガロア人ではない。さらに言えば、ミトラス教徒としての洗礼も受けていない。教会が流民と蔑む、国を持たない賤民の生まれだ。
かつて第一勇者が定めた自由民の原則により、教会は奴隷の売買を禁じている。しかし、それはミトラス教徒に限った話だ。マレーは流民奴隷としてシャルルに献上された。
贈り主は塵芥のような扱いをしていたようだが、今ではシャルルの保有する財産の中でも最も価値あるもののひとつとなった。
「そうだな。初陣のときよりも緊張しているかもしれん。誰かを残すというのは怖いものだな、マレー」
「オレリア様ですか」
「ああ。あれのためにも勝って帰らねばならない、そう思うとはらわたに怖気が走るような心地がする。……だが、この葡萄酒のおかげで俺の腹も決まったようだ」
「それは何よりです」
シャルルが拾い上げたころは希望の欠片もないような瞳をしていたが、だいぶ感情を露わにできるようになってきた。
南方流民の血筋を引くがゆえの浅黒い肌と、大柄で頑健な肉体。まるで北方の雪原に住むという大熊のようだ。
宮廷内でもマレーは目を引く存在だ。聖職者などすれ違うだけで露骨に顔をしかめる。それでもシャルルの手前、大げさな態度を取れずにすごすごと逃げていく様は痛快だった。
「南海沿岸を落とせば少なくない数の捕虜を抱えることになる。当分の間、お前には苦労をかけるな、マレー」
「殿下の望みとあらば。しかし、よろしいのですか? 異教徒や流民に自治権を与えれば、教会はいい印象を抱かないのでは……」
これからシャルルが攻める南海沿岸の都市群は、これまで国家に属さず都市間の連帯によって独自のコミュニティを形成してきた土地だ。原住民の文化と言語を知るマレーはシャルルの統治に必要不可欠な人材となる。
父から招集を受けた当初、シャルルは自らが南海沿岸地域をひとつの領地として統べるつもりでいた。ガロア王国の一部として機能させようと張り切っていた。
それに待ったをかけたのはオレリアだ。
「作物は根を伸ばさなければ実らない。金言だな、まったく」
出立前最後の昼食を伴にした際、シャルルの語る構想に微笑みながら耳を傾けていたオレリアがこぼした一言だ。
シャルルはすっかり流民の都市群を収穫する気分でいた。しかし、これからシャルルが行わなければならないのは新たな属州を豊かにすることだ。そのためにはまず、民を従わせるだけの土壌を整えねばならない。
たった一言でシャルルの背筋に汗が伝った。
「なあ、マレー。俺は時々、思うのだ。あれが男として生まれたならば、俺よりもずっと素晴らしい王になっただろうと」
「……お戯れを仰っしゃらないでください、殿下」
「そうだな。今のは失言だった。許せ、マレー」
シャルルは甘えてくる愛馬の鬣を撫でてやりながら、未だ底の見えない3歳の妹が歩むであろう未来に思いを馳せた。
今回の南方出征に父は力を入れている。功を立てた諸侯にオレリアを下賜することもありうるだろう。そしてオレリアが産んだ児はシャルルが世継ぎを残せなかった際の保険になる。
オレリアは天賦の才を持って生まれた。少しでも言葉を交わした者は皆そう口にする。3歳、まだ3歳なのだ。幼いという言葉ですら足りない齢で、目が潰れそうなほどに眩しい。
その才覚がただの妻、ただの母として消えていくことは、兄としても、為政者としても惜しい。しかし、この国の頂点を女王とすることは諸侯が認めないだろう。
シャルルはオレリアという籠の中の鳥が羽ばたけるような場を用意してやりたいと常々感じていた。
「マレー。お前はオレリアをどう思う」
「私なぞには計り知れないお人です」
「建前はいい、ここには俺とお前だけだ。どうしても俺は兄としてあれを贔屓してしまうからな」
「……では、僭越ながら。オレリア様は私を他の従僕と同じ目つきでご覧になります。ただ殿下の従僕として見ておいでのようです。哀れみも、蔑みもなく……ガロアに来て、驚かれなかったのは初めてのことでした」
「驚かされたのはお前のほうか。それはいいな」
なぜ驚かなかったのか、この戦が終わったら聞いてみよう。あるいはオレリアさえ望めば、捕虜の中からいくらか見繕って与えてみるのも面白いかもしれない。
シャルルが空のゴブレットを弄びつつ先のことを考えていると、にわかに厩舎の出入り口が騒がしくなった。
どうやら馬丁が誰かと揉めているようだ。
「俺の鼻先で騒ぎとは、宮中の風紀はずいぶんと乱れているようだな。ジラールに言っておかねば」
「宮宰殿は明朝発たれたのでは? レフコス王国からの賓客を王の名代として迎えに行かれたと聞いておりますが」
「そうだったか。まあ、それならそれでジラールが立てるべき代理を間違えているということだ。ようやく落ち着いたゼフィランサスがまた暴れ馬になっても困る、見てきてくれ」
頷いたマレーが立ち上がり、出入り口へと向かっていく。
マレーがシャルルの従僕であることは宮中の人間なら誰でも知っていることだ。マレーを通してここにシャルルがいるという事実を示すだけでも、騒ぎを起こしたことがどれだけ愚かだったかわかるだろう。
そんなシャルルの考えは、一瞬の後には消し飛んでいた。
「――シャルル殿下。聖堂街までご同行を願います」
傷を負ったマレーに短剣を突きつけながら、淡々と要求する仮面の男。
ミトラス教徒の祭服を纏ったその男の短剣からは、馬丁のものであろう鮮血が拭われないまま滴っている。
「……なるほど。ゼフィランサスの飼い葉に何か仕込んだな」
腹の底から熱が引いていくような感覚の中で、シャルルの理性が感じていた違和感を整理していく。
出立の前日になって荒ぶりはじめた愛馬。
頑なに出立を主張したセベリウス侯。
宮宰が不在な中での騒ぎ。
シャルルは剣の柄に手をかけた。
「私の知るところではありませんな、主の思し召しでしょう。ご安心を。御身を傷つけるのは我々の本意ではないのです」
この流民は別ですが。
そう口にする男に、シャルルが抵抗する術はなかった。たとえ第一王子の従僕であろうと、ミトラス教徒でないというだけで彼らは躊躇うことなくマレーの命を奪うだろう。
「貴様……ッ!」
「あなたには魔王崇拝者の嫌疑がかかっています。身に覚えがないとは、よもや仰っしゃりますまい?」
「どの口がほざくか……!」
宮中でまことしやかに囁かれている、シャルルが魔王の後継者であるという噂。それをシャルル自身が知らないわけではない。
くだらない噂、小さな悪意と一笑に付していた。
全ては
「嫌疑を晴らすためにご協力いただけるのであれば、明日の朝には万事つつがなく片付くことでしょう。ご同行いただけますね?」
「耳を貸してはなりません、閣下……」
「黙れ、流民! ……貴様らの穢れた息がほんの一握りでも清浄な大気に混ざることを思うと、背筋に虫が這うような心地だ。そうは思いませんか、殿下」
腸が煮えくり返るようだった。
それでも、抵抗はできない。マレーの首筋に血をにじませている短剣の柄には流星の聖印が刻まれている。隕鉄が用いられた魔封じの聖具だ。
剣を抜けば、マレーが殺される。マレーの命を諦めて剣を抜いたとしても、証人もなく私刑で聖職者を斬ったとなれば遠征軍の統率は崩壊する。
謀略に気づけなかった時点で、シャルルは失敗したのだ。
シャルルは黙ったまま、腰に吊るした剣を外して床に放り捨てた。
「結構。表に怪我人用の担架をご用意いたしました。一言でも声を上げれば……わかりますね?」
仮面の聖職者に従う男たちに腕を縛られながら、シャルルは己の迂闊を呪った。
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