第12話 コーヒーショップ

 日が傾きはじめ、冬の終わりを感じる鈍い寒さが風に混じりはじめたころ、アンリは市場で出会った赤毛の女性に王都を案内されていた。

 アンナと名乗った彼女は朗らかで人当たりがよく、街の人々にも親しまれている様子だった。


「いやあ、大したことしてるわけじゃないんですよ。喧嘩の仲裁とか、スリをとっ捕まえたりとか」

「立派な行いです。彼らがあなたに向ける表情を見れば、どれだけ感謝されているか私にもわかりますよ」

「へへ、やだなあ、褒めても何も出ませんよ?」


 口では謙遜しているが、内心満更でもないらしく、差し入れにともらった貝と根菜の串焼きを一本分けてくれた。

 シエナで育ったアンリにとって、大抵の街は治安が悪いように見える。諍いそのものが奇跡で封じられているシエナでは喧嘩もスリも現れない。一方で、この街を満たす賑やかさもシエナにはない。

 店番の子どもが猫を抱え、女が赤子をあやしながら糸を紡ぎ、玩具をねだられた父親が店先で値段交渉をしている。この街は騒々しいが、荒廃してはいない。

 アンリの表向きの役職は救護司祭だ。救護院で乞食や寡婦を相手に炊き出しを手伝ったことも一度や二度ではない。真に困窮した者が纏う濁って饐えた空気をアンリはよく覚えている。


「この街は、豊かですね」


 思わずこぼれた言葉に、隣で林檎をかじるアンナが首を傾げた。


「シエナではこういう食べ物は売ってないんですか?」

「食べ物の売り買い自体がありません。シエナに住んでいるのは聖職に就いている者とその家族だけで、教皇庁から賜るヴィダンダ以上の飲食は悪徳とされますから」

「ヴィダンダ?」

「ああ、失礼。一日分の生活に必要なものと引き換える札のことです。たとえば教皇庁の門守は給金とは別にパンのヴィダンダを1枚、魚のヴィダンダを1枚賜ります。それを家政局で引き換えるんです」

「はえー……私には無理そうな職場ですね。食い意地張ってるんです」


 アンリはいい返事が見つからず、曖昧に微笑んでみせた。

 故郷を悪く言うわけではないが、シエナの抑圧的な生活を息苦しく感じたことがないわけではない。そのせいで、幼い頃は「自分は聖職者に相応しくないのではないか」と自罰的になったこともある。

 その分、生臭坊主の極みのようなベルナールが上司となってからの日々はアンリにとって衝撃の連続だった。

 情報収集のためと言い張って商売女を宿に連れ込む、現地に溶け込むためと賭場を荒らす、挙げ句の果てにその土地の顔役をしているゴロツキにイカサマがバレて殴り合いになる……。

 巻き込まれて目に青あざを作ったアンリを指さして笑い転げる姿を見た時は、本当にこの人は聖職者として神の寵愛を賜ったのだろうかと不思議になったほどだ。

 認めるのは癪だが、そういった経験を積まされなければアンリはレフコス王国への潜入に失敗していたかもしれない。


「あ、じゃあシエナにはごはん屋さんもないんですか?」

「修道院の食堂があるので、強いて言えばそこでしょうか。祈祷書の朗読を聞きながら無言で食事しなくてはなりませんから、アンナさんにおすすめできる場所ではないかもしれません」

「朗読を聞きながら……そうだ! マルコさん、ちょっと寄り道しませんか?」


 偽名で呼ばれたことに一瞬反応が遅れつつも、アンリは彼女が指差す先にかかった看板へ目を向けた。湯気の立ったマグカップが描かれた看板の下では、市街の中でも身なりの整った男たちが飲み物を手に何かを語らっている。

 看板には見慣れない言葉が記されていた。


「コーヒーショップ、ですか」

「最近流行りなんですよ! 普段はちょっとお高いんですけど、仕事の伝手で優待券もらっちゃって」

「私は急ぐ用事があるわけではないので構いませんが……よろしいのですか?」

「もちろんです、色々面白い話聞かせていただいたお礼ってことで!」


 断る理由もない。レフコス王国の情報収集も兼ねて派遣されているアンリにとって、願ってもない話だ。

 手を引かれるままにアンリはコーヒーショップの看板をくぐることになった。

 扉が開かれるやいなや、アンリを包み込んだのは濃い香りだ。礼拝堂で焚かれる香木のそれとは違う、柑橘の酸味や焦げたような渋味を感じさせる複雑で重い香り。

 どうやらその香りは人々が手にする飲み物から漂っているようだ。マグカップの中に見える黒い液体の味が微塵も想像できず、アンリは少しだけついてきたことを後悔しはじめていた。


「いらっしゃいませ。おや、アンナくん」


 二人を迎え入れた店員は、どうやらアンナと顔見知りのようだ。

 壮年の男性で、焦げ茶の髪をかっちりと固め、豊かに蓄えた口髭を反らせている。体格のよさも相まって、神経質な彫刻家のような印象を受ける。


「ヴィゴさんじゃないですか、なんで店員さんの格好?」

「ツケの支払いだ。この文化的空間に浸りつつ負債を帳消しにできる、実に合理的だと思わんかね?」

「呆れた……まあいいです、テーブル席空いてますか? お客さんが一緒なんで、できるだけステージに近いとこが嬉しいです」

「よかろう、吾輩の特等席を使いたまえ」


 どうも、と気安く挨拶をしたアンナに促されるまま、アンリは店の奥へと案内された。ずいぶん繁盛しているようだ。


「さっきの人はヴィゴさん。変わってますけど、悪い人ではないんですよ。変わってますけど」

「ご友人ですか?」

「仕事の顔見知り、って感じですかね。『月刊・同時代』って知ってますか?」

「噂には。遠方の事件が手元で知れるというのは中々魅力的だと思っています」


 よく手入れされたクルミ材の椅子に腰掛けながら、アンリはさらりと嘘をついた。本当はよく知っているが、シエナで流通していないものに詳しい顔をするのはあまり都合がよろしくない。

 アルバス・カンパニーが刊行している『月刊・同時代』は教皇庁の高官たちの間でも話題になっている。教皇派は『月刊・同時代』の影響力を魅力に感じているらしく、乗っ取りを画策しているという話もあるほどだ。

 前の月までの大陸情勢をまとめた情報雑誌。その魅力は遠方の出来事を比較的偏りなく知ることができる点にある。

 教会に阿る見方でも、その土地の権力者に従う見方でもなく、ただ起きたこととそのつながりが報じられる。これはとても新しい。


「ヴィゴさんはその『月刊・同時代』をまとめている偉い人なんです、一応」

「偉い人……工房の親方のような?」

「そうですねー、やってることは大体親方と同じかも。自分でも記事を書いてるらしいので、ちょっとあやふやですけど」

「――文化人への敬意を込め、デスクと呼んでくれたまえ、お客人」


 噂の人物が再び二人の前に現れ、品定めするようにアンリを見た。


「ふむ。アンナくんの逢引相手にしては痩せているな。この食道楽女と同じ生活をしていれば酒樽がごとき肥満体に至るのは確実なのだが」

「失礼な人ですねー、マルコさんは今日レフコスに着いたばかりのお客さんです」

「申し遅れました、デスク閣下。施与局の救護司祭、マルコと申します」


 マルコの礼儀正しい挨拶に満足したのか、ヴィゴは鷹揚に頷いてみせた。

 どうやら本当に変わり者らしい。


「ヴィゴだ、司祭殿。出会いを祝して御身の奉ずる神のために詩をしたためるのも吝かではないが、生憎と尊き労働に汗を流している最中でな」

「あんまり無駄話してるとマスターに怒られますよー?」

「そうであった、注文を取りに来たのだ」

「とりあえずコーヒーふたつ。砂糖とミルクもお願いします。マルコさん、甘いものお好きですか?」

「そう、ですね……普段はあまり口にしませんが」

「じゃあ、ショートブレッドもつけてください。ドライフルーツのやつと、ナッツのやつ」

「承った。ゆるりと寛がれよ。次の公演は4分後だ」


 アンリが呆気にとられているうちに二人は慣れた様子でやり取りを済ませてしまった。どうやら店員が注文を取りに来て、客がほしいものを伝える形式らしい。

 上司に付き合わされて市井の酒場に出入りすることが多いアンリはシエナで修行を積むまっとうな聖職者たちよりもこの手のやり取りに慣れているはずだが、口を挟む暇すらなかった。

 注文を任せきりにしてしまった申し訳なさと若干の恥ずかしさ、そしてこれから運ばれてくるであろうものへの不安が合わさって、思わず眉間にシワが寄る。そんなアンリの様子に気づいたのか、アンナが小さく頭を下げた。


「すみません、勝手に進めちゃって」

「いえ、私こそ任せきりにしてしまって、申し訳ないです」

「こういう場所には不慣れだろうなって思ったので、出しゃばっちゃいました。もしお口に合わなかったら、他の飲み物もあるので!」

「お気遣い感謝します。……ところで、公演と言っていましたが、ここは劇場なのでしょうか」


 ミトラス教では宗教劇以外の演劇を認めていない。かつて淫らな演劇が流行し、その手の演劇を披露する劇団が各地に病を運んだことを問題視し、当時の教皇が信仰の表れ以外の演劇を堕落の温床として禁じたのだ。

 聖職者であるアンリを連れてきた以上、ここが劇場であるとは思えない。しかし、立場上確認する必要があった。

 アンナは企みが成功したように笑って首を横に振り、垂れ幕のかかった小さなテラスを指し示した。


「修道院の食堂とおんなじです。ここでは朗読を聞きながら食事ができるんですよ」

「朗読、ですか」

「そう、コーヒーショップでは『月刊・同時代』の朗読が聞き放題なんです!」

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