第11話 敬虔な背教者

 まだ船酔いが残っている気がする。

 アンリは青ざめているであろう己の頬を軽く打って、先導する法衣の男に身振りで気にしないでくれと示した。

 手配された連絡船はレフコス島の東部にあるマボン湾に入港した。ここしばらくの騒動で教会がいつも使っている港は監視が厳しくなっている。アンリに後ろ暗いところはないが、教皇派に因縁をつけられると面倒だ。

 しかし、慣れない航路を進んだせいか、海が荒れていたのか、アンリは死を覚悟するほどの船酔いに襲われた。マボン湾から王都までの道のりを馬車の中でバケツを抱えて過ごし、もう胃の中は空っぽだ。

 上司のベルナールと違い、アンリは医療の奇跡を修めていない。この苦痛も神の与え給うた試練と思うしかないだろう。


「お疲れのところ恐縮でごぜえますが、何分急なことだもので、お休み処の用意がなく……いま助修士を遣いに出しましたんで、夕餉のほうは上等な仔山羊をご用意いたしますんで」

「お構いなく。ご馳走は貧しい方々に振る舞って差し上げてください」

「はあ、しかし、旦那様はシエナからいらしたんでしょう?」


 王都でアンリを迎え入れてくれたのは町外れの小さな修道院だった。建物も備品も質素で、祭具にも傷が目立つ。修道院長は北部の生まれらしく、ただでさえ耳慣れないレフコス語に訛りが加わって聞き取りづらい。

 彼なりの歓迎をしてくれているのは理解できるし、田舎の聖職者である彼らにとってシエナの高僧がこの上なく高貴な存在であることもわかる。

 しかし、アンリは贅沢の罪を犯す気はない。食欲もない。


「貧しい方、困っている方に手を差し伸べるのが私に与えられた役目です」

「はあ、そいつぁ素晴らしいことでごぜえますが……欲のねえお方だあ、せっかくの仔山羊を施しに回しちまうとは」


 本音を言えば、柔らかく温かな肉を食べたい気持ちはある。香草と塩で蒸し焼きにしてバターを添えたものなど、最高の贅沢だ。

 しかし、今のアンリは聖職者の中で誰よりも贅沢を避けねばならない身分を与えられている。シエナ教皇庁施与局の若き救護司祭ということになっているのだ。

 施与局は貧者を救済することを役割としている。施す者、最も敬虔で無私な神の僕として、施与局のタリスマンはどんな土地でも尊敬を集めている。

 しかし、枢機卿の直轄部門でもあるこの部局は、乞食や病人を情報源とする諜報機関の側面を持つ。

 アンリは上司のベルナールに命じられ、レフコス王国の協力者と接触することになっている。


「少し休んだら街に出ようと思います。荷物をお願いしても構いませんか」

「へえ、もちろんでごぜえます」

「ありがとうございます、兄弟。あなたと、この修道院の子らに主の癒やしがあらんことを」


 祈りを受け取って畏まった様子で平伏する修道院長をよそに、アンリは回らない頭を悩ませていた。

 先に潜入した異端審問官から上がってくるはずの定期連絡が途絶えたのは先々週のことだ。ベルナールは教皇派との衝突が生じたと考えていた。

 教皇派と枢機卿派は互いに相容れない目的を抱えている。なんとしてでも修道女ユーラリーを連れ帰るつもりの教皇派は異端審問官の動きに気づくやいなや、聴罪師をこの島に投入した。

 神の罰を代行する異端審問官にとって、聴罪師は不倶戴天の敵と言える。罰するはずの罪をなかったことにする敵だ。無闇に噛みつき、そして負けた可能性がある。


「狐のフーゴ、か」

「何かおっしゃりましたかね、旦那様」

「いえ、何も」


 疲労のせいだろうか、思わず口から仇敵の名がこぼれ出てしまった。

 内赦院が教皇庁で重要な役割を担っていることはアンリも理解している。世の中は綺麗事だけで解決するわけではない。敬虔な聖職者でも、必要に迫られて背教することはあるだろう。

 しかし、金さえ払えばどんな背教も許されると囁く者は、むしろ悪魔の遣いと呼ばれるべきなのではないだろうか。

 おそらくレフコス王国に来ているであろう上級聴罪師、狐のフーゴ。できれば顔を合わせたくない相手だ。

 客人用の寝室に荷物を預け、救護のための寄進箱に金貨を数枚入れてから、アンリは重い身体に鞭を打って街に出た。

 レフコス王国はシエナから見て田舎も田舎、辺境と言っていい。大陸の西端からさらに海を渡った先にあるこの島がシエナで知られているのは、勇者召喚の儀が執り行われるからというだけだ。

 その印象があったせいか、アンリの中でレフコス王国は貧しく未発達な島だった。


「に、賑やかだ」


 道行く人々は皆快活で、清潔な衣服はほつれや穴もなく、丁寧に繕われている。市場へ向かう馬車には新鮮な葉物野菜が山のように積まれ、商家の丁稚らしい子どもは馬の番をしながら林檎を頬張っている。

 店先に並ぶ品は種類こそ少ないものの量も質も不足しておらず、では価格が高いのかといえばそうでもない。


「えんどう豆がこの値段? 冗談じゃないわよ、ベーコンみたいに高いじゃないの」

「勘弁してくれ奥さん、例の火付け騒動で蔵の半分もお召し上げを食らっちまったんだよ。値上げしねえと女房に怒られっちまう」

「半分も! それはついてなかったわね……しょうがない、一袋ちょうだい」

「わりいね、この干し葡萄はおまけしとくよ」


 買い物客と店主のやり取りは粗暴で、シエナでは決して見られないやり取りだ。しかし、粗暴さの底にある互いへの思いやりは美しく思えた。

 美しいのはいいことだが、気がかりな点もある。

 アンリは勘定を済ませた店主に声をかけた。


「もし、ご店主」

「はいよ……おっと、これは司祭様」

「どうぞそのままで、お気になさらず。えんどう豆を一袋いただけますか」

「へえ、ただいま」


 アンリが差し出した麻袋に店主は乾燥したえんどう豆を木の匙で掬い入れた。先ほどの買い物客は値段に文句をつけていたが、これでもかなり無理をしているのだろう。在庫の半分が徴収されるというのはとんでもない痛手だ。

 その対価としてアンリが金貨を差し出すと、店主は眉を吊り上げた。


「司祭様、そいつは受け取れませんよ」

「どうか受け取ってください。私はこの地の司祭ではありませんが、主はあらゆる民を見守っていますから」

「でも、俺だけがもらっちまうのはそれこそ平等じゃねえでしょう」


 なんと高潔なことか。

 アンリは思わず頬を緩ませた。彼は経済的に困窮しているにも関わらず、自分だけが施しを受けることの不平等さを理由に目の前の金貨を拒んだのだ。

 その高潔さを讃えて、アンリは金貨を小銭入れに戻し、そして小銭入れごと彼に差し出した。


「では、これをあなたたちに差し上げます。あなたの友人で困っている方がいれば、私と同じように分け与えてください」

「い、いやいやいや、そしたら司祭様が無一文になっちまいますよ!」

「構いません。宿を借りている修道院にも荷物を残してありますし、何より私は苦しむ者を救うために遣わされたのですから」


 店主はおっかなびっくりアンリの小銭入れを受け取り、小銭入れに刻まれた施与局の焼印を指先でなぞって唸った。


「司祭様……俺ぁあんまり真面目な信徒じゃあねえが、この焼印は俺でも知ってる。物乞いだった曾祖父様が商人になれたのは、あんたがたのおかげだ」

「兄弟たちが誰かの助けとなれたのなら、私はそれを心から誇らしく思います。あなたにも主の祝福があらんことを」

「ありがとう、司祭様! 何か困ったことがあったら何でも言ってくれよな!」


 親しみやすい笑顔を浮かべた店主に小さく手を振って立ち去ってから、アンリは彼に道を聞くつもりだったのを思い出した。

 振り返ると、もう店には人だかりができている。今更戻っても騒ぎになるだけだろう。上司が見ていたら三度は彼の口癖である「間抜け」という罵声を浴びせられたであろう失態だ。

 しかし、彼らの苦しみを取り除くのは間違った判断ではない。

 レフコス王国でここ数ヶ月起きている教会放火事件は教皇派と枢機卿派の衝突によって生じている。おそらくは消息を絶った異端審問官がまだ潜伏していて、それを教皇派の工作員が炙り出そうとしているのだろう。

 無関係の教会が焼かれ、聖職者の飢えを防ぐために徴発が行われた。巻き込まれた彼らを救済するのはアンリの務めだ。

 よいことをした。

 胸が温かくなるような心地の中で再び前へと向き直ったアンリは、通行人と思い切り衝突してしまった。


「わっ……すみません、お怪我は?」


 かけられた心配の声に、自分がぶつかったのが女性だとわかり、しかもその人物が驚いただけで転びすらしていないことに若干の恥ずかしさを覚える。

 ベルナールにしごかれてはいるが、アンリの肉体は教皇庁の文官より少し鍛えられている程度だ。ちょっとしたずるをしなければ戦闘はおろか長距離走すらできない。

 毎日のようにぶつけられる「間抜け」の幻聴が聞こえる気がする。

 差し出された手を取ったときに安堵してしまったことはアンリをより羞恥に追い込んだ。彼女の手は鍛えられた武人のそれだったが、その硬さを己の惰弱の言い訳にすべきではない。


「ありがとうございます。往来で不注意でした」

「いえいえ、今日は混んでますからね。慣れてないと仕方ないですよ」

「……もしかして、私のレフコス語は不自然でしょうか?」


 あっさりとよそ者であることを指摘した女性はいたずらげに微笑んでみせた。好奇心できらめく瞳とそばかすが明るい印象を与える、中々の美人だ。


「いえ、とってもお上手だと思いますよ! 私なんかまだ訛りが出ますから」

「あなたも異国から?」

「ガロアから来たんですよ、仕事で」


 ベルナールから「レフコス王国にガロアの傭兵団が渡った」という情報を予め与えられていたアンリは、目の前の彼女を傭兵団の団員か、その関係者だろうと当たりをつけた。

 明るい赤毛を三つ編みにまとめ、飾り気のない真鍮の輪でほどけないようまとめている。服装は貴族の使用人のようだが、それが彼女の言う仕事だろうか。


「そしてあなたはシエナから、そうでしょ?」

「見事な観察眼ですね。どうして気づかれたのか、よければ後学のために教えていただけませんか」

「いやあ、大した理由じゃなくて。実はさっきのを見てたんです」


 アンリは思わず噴き出しそうになった。施しの現場を見られていれば観察も何もあったものではない。


「お恥ずかしい限りです……お察しのとおり、シエナから来ました。施与局の救護司祭、マルコと申します」


 シエナの聖職者にありがちな偽名を名乗って、アンリは握手を交わした。

 任務の都合上、本名を名乗るわけにはいかない。場合によっては背教の行いに手を染めることもあるだろう。その際、アンリに罪が課されるのは望ましくない。

 枢機卿の命に従う以上、このような影に潜む振る舞いは避けられない。しかし、名前を偽って罪が消えるとは到底思えなかった。

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