第22話 勇者の末裔

 風が吹いた。

 多くの血が流れ、醜い怪物の死骸が今も腐敗の煙を撒き散らす荒野に、涼しく、軽やかな風が吹き抜けた。それは矢であり、馬であり、乙女であった。

 冥銀の乙女。

 暗い鋼の髪を風に踊らせ、弓と風に長け、悍馬を巧みに乗りこなす女傑の一族は、ミトラスの名の下に召喚された勇者と轡を並べ、この戦場を駆けた。

 神の祝福を受け、あらゆる敵を阻む光を得てもなお、勇者一人で戦は成り立たない。どのような策を練ろうとも、魔王が差し向ける圧倒的物量には敵わない。

 かつて遊牧の弓騎兵として大陸全土にその武勇と美貌を知られた冥銀の乙女たちも一人、また一人と散っていった。

 初代勇者を己の背に括りつけ、鞍に身を伏せるようにして駆ける彼女もまた、己の最期を悟っているのだろう。その鋼色は血で濡れている。


「――!」

「――?」


 己の伴侶に懇願されようと、彼女は馬を駆るのをやめない。

 その腹にはすでに孔が空いており、溢れそうになる臓物を氷の魔術で無理矢理にせき止めている。彼を後方で待つ味方に送り届けること。それだけが彼女に果たせる最期の役目だった。

 それがわかっていて、それでも、勇者は彼女が死へと進むのが辛かった。

 みっともなく泣き喚いた。怒り狂ってみせた。親の帰りを待つ赤子のために生きる気はないのかと、卑怯で残酷なことも口走った。

 勇者として、皆の前では決して見せられない無様な、等身大の愚かさ。それを彼女は受け止めて、身体を震わせた。

 すでに肺を壊された彼女は、それでも笑っていた。

 やがて二人を載せた馬はまだ機能していた前哨基地へとたどり着き、そして――


「――殿下。……リシャール殿下!」

「ッ……」


 リシャールが振り抜いた短剣を銀のトレイで受け止めて、フレデリカがいつも通りの表情でリシャールを見下ろしていた。

 己の手が枕元に置いた護身の短剣を握っていることを確認し、その腕がリシャール・エルメットのものであることを確認して、リシャールは大きく息を吐いて全身の力を抜いた。

 最悪の目覚めだ。


「おはようございます、殿下」

「……おはよう。今何時だい」

「12時を過ぎたところです。昼食はいかがなさいますか」

「いや、いい……すまない。水を」

「どうぞ。ひどく魘されておいででした。お加減はいかがですか。昨晩は遅くまで起きてらっしゃったご様子でしたが」


 差し出された水を一気に飲み干す。

 ぬるい水が今は命に染み渡る。

 まるでつい先程まで夢に見ていたあの荒野のように、全身が乾ききっていた。


「……だけだ」

「左様でしたか」

「国母アステラが討ち死にした日の記憶だった」


 フレデリカは小さく眉を上げたが、何も言わなかった。

 エルメット家は勇者の末裔だ。この末裔とは血筋や思想に限った話ではない。教会が魂と呼ぶ、曖昧で超越的な何か。それをエルメット家は継承している。

 教会にすら明かされていない継承だ。当然、オレリアも知らない。

 なにをどのように継承するのかはそれぞれ異なる。オーウェン2世は第四勇者が得意とした目測の技術を生まれつき獲得していたし、弟のレオは第三勇者がひた隠しにしていた剣の才覚を天禀とした。

 そして、リシャールが継承したのは、初代勇者の記憶だ。


「……フレデリカ。僕はであり続けられると思うかい」

「殿下の御身に流れる貴き血があればこそ、その偉業は可能となりましょう」

「そうか。……そう答えるのがメイドである君の仕事だものな」


 知識でも経験でもなく、記憶。

 オレリアが「王子様の仮面」と呼んで嫌がる外向きの姿は、記憶の中にある勇者を模倣したものだ。だから、正確には「勇者の仮面」と呼ぶべきなのかもしれない。

 この記憶がもたらされたとき、まだ4歳の少年だったリシャールは恐怖した。己が己でなくなっていき、勇者に塗り潰されていく感覚を、誰も、同じ血を継承する家族ですらも理解してくれなかった。


「陛下から言伝をお預かりしております」

「……聞かせてくれ」

「は。一週間の休みを取れ、見るべきものを見よ、と」

「父上は何でもお見通しだな、まったく。ありがとうフレデリカ、下がってくれ」


 父に仕えるメイド長が退出するのを待ってから、リシャールは起こしていた身体をベッドに倒した。二度寝するほど眠くはないが、気分は優れない。

 馬上に死する国母アステラ。レフコス王国史上最も偉大な英雄の一人として絵画にも描かれる彼女の死に様を夢に見たのは、きっと昨日の諍いがあったからだ。

 婚約者を泣かせてしまった。

 南方大陸から持ち込まれたという豆の詰まった壺。それをリシャールが拒絶したとき、オレリアは明らかに動揺していた。言葉に詰まり、涙ぐむほどに。


「南方大陸、か」


 過去にもこの夢を見たことがあった。魔王との戦いで前線から撤退する初代勇者と、彼を送り届けて馬上で死んだ国母の夢を。

 夢の中で、リシャールは初代勇者自身になっている。冷たくなっていく妻の身体に背負われて、身動きが取れない。そんな夢を幾度となく見てきた。

 南方大陸に進出すること、それ自体を咎める気はない。初代勇者は平等と開拓の守護聖人だ。教会による不平等な経済を是正するため、開拓に打って出るのはリシャールの役目だとすら思っている。

 しかし、己の婚約者を目前にして、リシャールは一瞬だけ、彼女に夢の中のアステラを重ねてしまった。初代勇者が唯一の妻とした女騎士を。

 オレリアを喪う。

 馬鹿げた話だ。リシャールは初代勇者ではないし、オレリアはアステラではない。それなのに、リシャールに宿った記憶は悲鳴を上げた。


「僕にとって、オレリアは……」

「――あにうえ!」


 考えにふけっていたリシャールは、小さな侵入者に気が付かなかった。

 勇者の血統を示す黒髪。誰もが愛するような天真爛漫さを神が人の形にしたような笑顔。第二王子レオは、ここしばらくやんちゃの盛りだ。


「ねぼすけさんですね!」

「……さしづめ、フレデリカに起こしてこいと言われたのかな?」

「あにうえに、ねぼすけさんがくっついたから、たいじをまかされました!」


 腹の上に飛び込んできた可愛い弟は、手に木剣を携えている。剣の才覚に目覚めて以来、彼にとって一番の楽しみは剣の稽古だ。

 リシャールが初代勇者の記憶に4歳で辿り着いたように、レオもまた第三勇者の剣才を4歳で覚醒させた。今年の誕生祝いにともらった木剣は彼の親友として、ベッドにまで連れ込まれていると聞く。

 レオが元気でいることはリシャールにとっても喜ばしいことだ。しかし、相手をして痛い目に遭うのは遠慮したい。

 いつもなら公務を言い訳にしている。先程フレデリカを通して父から伝えられた一週間の休暇がひどく嫌なものに思えてきて、リシャールは胸中のもやを誤魔化すようにレオをくすぐった。


「そら、笑ってばかりでは退治するものもできないぞ!」

「あはは、あにうえ、ずる、あははは!」


 無邪気な弟が、無性に羨ましく思えてしまう。

 レオの得た才覚はこれからの時代に役立つものだ。剣の腕があって損することより、なくて損することのほうがはるかに多い。

 それに比べて、知識でも経験でもなく、ただ記憶だけを追体験させられるリシャールの役立たずっぷりときたら。


「参ったか!」

「こうさん、です!」

「よし、元気な笑い声で寝坊助もどこかへ行ったようだ。起こしに来てくれてありがとう、レオ。着替えてくるよ」

「……あの、あにうえ」

「どうした?」


 散々くすぐられて頬を赤く染め、ぐったりしているレオをベッドに残して立ち上がり、リシャールは着替えを手に取った。

 旅の中で戦う勇者の伝統に従って、自分の身の回りのことは自分でできるようにと教育されるのがエルメット家の作法だ。人を雇うのには金がかかるというのが本音だが、伝統というのは本音を隠す建前としてちょうどいい。

 リシャールが新しい肌着を纏い、シャツのボタンを留めていると、レオがベッドの上で身を起こした。


「あねうえと、けんかですか?」


 一瞬、リシャールは動揺して手を止めた。

 レオが姉上と呼ぶ関係にある人物は二人いる。一人は傍系の姉。そしてもう一人がいずれ義姉となるオレリアだ。

 しかし、傍系の姉は他国に嫁いで久しく、祭事ですら顔を合わせない。レオから見て「喧嘩をした」と判断されそうな相手はオレリアだけだろう。

 もう噂が広まっているのか、それともレオに吹き込んだ者がいるのか。いずれにせよ、オレリアへの悪意を感じる。


「……少しね。大丈夫、ちゃんと仲直りはするさ」

「あにうえは……あねうえのこと、すきですか?」


 即答はできず、代わりにリシャールはタイをきつく締めた。

 オレリアのことは嫌いではない。時折刺々しくなるが、感情表現が下手なだけで根は善人なのだろう。聡明で、口が上手く、目端が利く。

 しかし、リシャールは彼女のことをあまりよく知らない。

 そもそも、彼女に婚約の話を持ちかけたのも、最初は同情があったからだ。その同情すら初代勇者の記憶に影響されてのものなのかもしれない。そうなると、リシャールは彼女を何の理由もなく助けたことになる。

 そして、顔を合わせてみれば聡明かつ自由奔放な気質に圧倒されて振り回される日々。彼女を迎え入れてから、落ち着いて過ごす日など滅多にない。

 接し方がわからないまま、協力者としての関係だけができあがってしまった。


「おませさんだな、レオは。……これからなんだ、僕と彼女は。これから好きになっていければいいと思っているよ」

「これから……いつですか?」

「いつ、というわけでもないんだけど、そうだな……」

「じゃあ、きょうからです!」


 何を馬鹿なことを、と言い返そうとして、言い返す言葉がないと気づいた。

 ベッドの上で嬉しそうに笑っているレオは、本当に兄と義姉の関係を心配しているのだろう。誰が彼の耳に吹き込んだかは調べねばならないが、今向き合うべきはそこではない。

 一週間の休暇を与えられた。婚約者との対話をしない理由はあるのか?

 計画の話以外で、オレリアがリシャールに話しかけてきたことはない。仕事相手とだけ見られているのだろうと、そう考えていた。

 しかし、それはリシャールが彼女と対話しない理由にはならない。


「レオ。君はオレリアが好きかい?」

「んー……わかんない、です。でも、これからです!」

「そう……そうだね。僕もそう思う」

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