第23話 バターと蜂蜜

 勢いよく自室を飛び出したオレリアは、扉の目の前に立ちふさがる何かにぶつかって尻餅をついた。固い石畳の廊下に打ち付けた尻やら、盛大にぶつけた鼻やら、あちこちが痛む。

 混乱しているオレリアの視界に、手が差し伸べられた。

 見上げると、そこに立っていたのは複雑そうな表情を浮かべたリシャールだった。


「……殿下」

「すまない、急に飛び出してきたものだから避けそこねた」

「いえ、注意散漫だった私が悪いので……どうも」


 差し出された手を取って立ち上がる。

 ちょうど会いに行こうとしていた相手が目の前に現れて、オレリアは何をどう言えばいいものかわからなくなってしまった。文字どおり、出鼻をくじかれたわけだ。

 オレリアを助け起こしたリシャールが黙って立ったままなのもオレリアの混乱を助長した。彼は忙しい身だ。用事があって訪ねてきたのなら、先にその用事から済ませるべきだろう。

 二人して黙ったまま廊下に立ち尽くす。

 しかし、気まずさに耐えかねてオレリアが口を開いた、まさにその瞬間。

 くう、と小さくオレリアの腹の虫が鳴いた。


「あ……」

「……出直そうか」

「これは違うんです。その……」


 気を遣われた恥ずかしさに耳が熱くなるのを感じながら、オレリアは彼を引き止める言葉を一生懸命に探した。


「昼食」

「昼食?」

「はい。もしお済みでないようでしたら、よければご一緒しませんかとお誘いしにいくところだったんです。ちょうど」

「……僕を?」

「はい。今できあがったところで……軽いものですが、いかがでしょうか」


 変に意識させられてしまったせいで、いつもならすらすらと出てくるような誘い文句すらおぼつかない。オレリアは内心でウーティスを恨んだ。

 呆気にとられた様子でオレリアを見下ろしていたリシャールは、オレリアが不安になるのには十分な時間黙っていたが、無言で頷いた。

 計算は大きく外れたものの、オレリアはつい先ほど飛び出した自室になんとかリシャールを招き入れることに成功した。


「どうぞ、お掛けになってお待ち下さい」

「ああ、うん、ありがとう」


 ソファに腰かけて物珍しそうに部屋を見渡すリシャールを残して、オレリアは侍従用の厨房に戻った。ウーティスの手を借りて完成したは、すでにトレイに載せられ、あとはワゴンに運ぶだけの状態だ。

 オレリアが押すには大きすぎるワゴンの取っ手をつま先立ちになって掴み、半ばぶら下がるようにして押していく。

 距離はほんの数メートルだというのに、身体が小さいせいでこんなところまで苦労をする。こんなことならウーティスを残せばよかったかと一瞬後悔するが、彼女は「若い二人で過ごすのがいいだろう」と鼻歌交じりに出ていってしまった。


「……一応聞くけど、それは押せているのかい?」

「いち、おう……押せてます」


 なんとかリシャールの待つ居室までは押すことができたが、絨毯で足が滑って上手く進まない。

 オレリアがもがいていると、ふいに身体が持ち上げられた。

 今日はやけに抱き上げられる日だ。


「……どうも、お手数をおかけします」

「無理するくらいなら最初から呼んでくれないか。僕からはひとりでにワゴンが近づいてくるようでちょっと不気味だったよ」


 無理に伸ばしたせいで震える腕をさすりながら、オレリアは小さく頷いた。

 思えば、この城にやってきたときも彼の腕に抱かれていた。あの時は足を挫いたふりをしてのことだった。

 オレリアを片手で抱き上げたまま、リシャールがもう片方の手でトレイをローテーブルに移していく。

 銀製のフードカバーに覆われた皿が2つ。蜂蜜の入ったポットとバターの小皿。カトラリーの入った籠。新鮮なミルク。


「手際がいいですね」

「身の回りのことは自分でできるよう叩き込まれたからね。やろうと思えば完璧な給仕だってこなしてみせるよ、僕は。さ、これで全部かい?」

「はい、今はこれで全部です、ありがとうございます」


 招待するつもりだったのに配膳を任せきりにしてしまった。やけに積極的で、それでいて表情が固いリシャールにオレリアは違和感を覚えたが、それよりも冷める前に食事を披露することにした。

 対面のソファに降ろされたオレリアは、フードカバーに手をかけた。


「どうぞ。お口に合うといいのですが」

「これは……パンケーキ、なのか?」

「ホットケーキです。どう違うのかは、うまく説明できる自信がありませんが」


 三枚重ねのふわふわに、朝摘みのベリーを少々。お好みでバターと蜂蜜を。

 オレリアが用意したのはホットケーキだ。

 見た目で一番近い料理はパンケーキだろう。この国で食べられているパンケーキは文字どおり平鍋パンのケーキで、クレープのように薄く、レモンを添えて供される。

 薄焼きのパンケーキを綺麗に焼くのには技術がいる。オレリアは失敗を避けてホットケーキにすることを選んだが、それでも2枚ほど失敗作をウーティスの胃に収める羽目になった。


「パンケーキとマフィンの中間くらいにある食べ物だと思っていただければ結構です。甘くておいしい、はずです」

「はず?」

「失敗していなければ……」

「失敗?」

「と、とにかく! 食べましょう!」


 リシャールは胡乱なものを見る目で焦げ目のついたホットケーキを見下ろしていたが、オレリアが彼の動向を見守っているのに気がつくと、諦めてフォークとナイフを手に取った。

 ナイフがすっと柔らかな生地に入っていく。


「……生焼けではなさそうですね」

「どうしてこう、これから食べる人の前で不安になることばっかり言うんだ君は!」

「自分が焼いたホットケーキでお腹を壊されたら申し訳なくなるからです、焼き加減を気にするのは当然でしょう」

「……焼いた? 君がか」

「私が焼きました。ご不満ですか?」


 リシャールの視線が自分の手に向けられたのに気がついて、オレリアは後ろに隠そうとした。しかし、それよりも早くカトラリーを手放したリシャールの手が腕を掴み、隠そうとした傷は明るみに出た。

 オレリアの両手はあちこちが軽い火傷で赤くなっている。

 軽傷も軽傷、放っておけば治る程度のものだが、じくじくと痛む傷。油跳ねの火傷もあるし、初めて調理器具を扱ったせいでうっかり負った火傷もある。

 ため息をついたリシャールが傷に手をかざすと、まるでなかったかのように痛みが引いていった。久しぶりに見る光の魔術だ。


「……今度は何の実験なのか知らないけど、もう少し自分を大事にしたほうがいいと思うよ。この料理は君じゃなきゃ作れないものってわけでもないんだろ?」

「それは……そうですが」

「いつものメイド……メイドじゃないのか、えっと、侍女に任せればよかったじゃないか。君らしくもない」

「……実験じゃないので」

「は?」

「ええ、そうでしょうとも。私は性格が悪くて厭味ったらしくて、それでいて自分では何もしない怠け者です。婚約者として期待されるようなことは何一つできない女です。料理をしたのだって初めてです」


 リシャールの手を振り払って、オレリアはソファの上に立った。

 自分が何をまくし立てているのか、自覚もないくらいにオレリアは怒っていた。

 兄を助けようと幼稚な策を練って大失敗し、緩やかな死に追いやられていたところに差し伸べられた手。感謝すべきか警戒すべきかもわからないまま、結局は掴んだその手に、オレリアは報いようと頑張ってきたつもりだ。

 しかし、その努力がいかに独りよがりか気付かされ、反省し、こうして対話の場を設けた。その結果がこのザマだ。

 オレリアは激怒していた。

 自分が情けなくてしょうがない。今こうして八つ当たりをしている自分自身の愚かさが全くもって度し難い。


「初めて婚約者に手料理を振る舞われたんですよ? 私が初めて自分で作った料理です。少しくらい……少しくらい、喜んでくれたっていいじゃないですか!」

「つまり……これは、僕のために?」

「ええ、そうです! ご不満なら召し上がらなくとも結構です!」


 とんでもない理不尽を喚き散らしている。それはオレリアも自覚している。

 しかし、オレリアは頑張った。

 初めての料理だ。生地には少しダマが残ってしまったし、焼き加減がわからず2枚焦がしてしまったときは心底自分に失望した。なんとか6枚焼き上げて、上等なほうをリシャールの皿に積み上げた。

 オレリアを迎え入れて以来ずっと難しそうな顔をしているリシャールが、喜んでくれるかもしれないという勝手な期待。その裏返しで怒鳴りつけられたリシャールはたまったものではないだろう。

 ひとしきり吐き出して、倒れ込むようにソファに座る。

 全部台無しだ。


「――うん、おいしい」

「……え?」

「おいしいよ。甘くて柔らかくて。バターも合うね」


 フォークとナイフで音もなく器用にホットケーキを切り分けるリシャールが、余所行きの作り笑いではなく、本心から笑っている。

 申し訳なさやら、恥ずかしさやら、まるで童話に出てくる魔女の大鍋のようにごった煮になっていた負の感情。それらがすべて馬鹿馬鹿しくなったオレリアは、蜂蜜のポットを手にとって、自分のホットケーキにぶちまけた。


「そんなにかけて大丈夫かい?」

「絶対に甘ったるいです。……でも、そういう気分なので」


 一切れ口に運ぶ。かけすぎの蜂蜜で喉が痛くなるくらいに甘い。

 馬鹿になりそうな頭に糖分を入れるのだ、と自分に言い聞かせて、オレリアは絡みつくような甘さを無理やりに飲み込んだ。

 しかし、いくら甘さで上書きしても、胸の痛みも、緩む頬も、誤魔化せそうになかった。

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