第8話 婚約破棄から
湯浴みを済ませたオレリアは、アンナに髪を任せながら今日の宴で得た成果を整理していた。
「それで、どうだったんです? 派閥は」
「思っていたよりも不安定です。予想していたよりも教会と仲のいい貴族が多いですね、あれは」
日中のパーティーはただの婚約発表ではない。次期国王であるリシャールの婚約者、つまり未来の王妃との顔合わせだ。
教会に認められた婚約というのは若者の気まぐれな口約束とはわけが違う。覆すためには教皇直々に贖宥状を発行してもらう必要があり、相応の金品を必要とする。婚約相手の死すら破棄の理由にはならない。
原則として覆ることのない婚約によって、オレリアはこのレフコス王国の次期王妃として貴族たちと対面した。
オレリアを目前にして彼らが浮かべた表情は、リシャールへの忠誠心とおおむね比例するといっていい。不快感を顕にする者はリシャール以外を信仰している。
婚前の身で婚約者の居城に転がり込むという非常識さに顔をしかめることはあるだろう。しかし、それを除けばオレリアとリシャールの婚約を嫌がる理由はないはずなのだ。彼らが勇者の血統を神聖視しているのであれば、だが。
「リシャール殿下個人を支持しているのは2割。勇者の血統を神聖視しているのが3割。残りは勇者崇拝よりもミトラスへの忠実な信仰を選んだか、もしくは信心よりも金勘定が得意か」
「うわ……じゃあ、リシャール殿下を支持してるのは半分ですか?」
「いいえ、2割です。3割のほうは勇者の血統なら誰でもいいわけですから」
オレリアは確かに見ていた。
第二王子レオとあっという間に打ち解けた青年、ヴィクター。ガーナー伯の名代として出席を許された彼は、主賓への挨拶よりも第二王子との交流を優先していた。
幼いレオを子ども扱いせず、かといって神聖視するわけでもなく、一人の人間として誠実に接する姿勢は見事なものだった。聡明で、しかもそれを鼻にかけない者でなければできないことだ。
だからこそ、本来であればありえない。
パーティーの主賓である第一王子よりも、わがままを言って連れてきてもらった第二王子を優先する。これは礼儀に反する振る舞いだ。
多少でも頭の回る貴族なら、後の国王との間に禍根を残すようなことはしない。
そのような態度を取ったのがヴィクターだけであれば、彼個人に問題があると考えるのが自然だ。しかし、貴族たちの中にはヴィクター同様に主賓であるリシャールを軽んじる者や、それを咎めない者がいくらか見受けられた。
「第一王子が王になることはないという確信、でしょうかね。勇者の召喚が近いことを知っている者は私たちだけではないようです」
召喚された勇者が次代の王になる。
レフコス王国の王権は勇者という聖性によって守られている。誰もが王の正統性を信じて疑わない。
しかし、それを逆手に取る者も当然いる。
勇者は召喚される者であり、魔王と聖墓の封印を維持するために必ず召喚される。では、その召喚はいつ行われるのか。突如として勇者が召喚され、王が交代することになれば、否が応でも国は混乱する。
教会は召喚の周期や条件を秘匿することで、レフコス王国の王権に圧力をかけ、手綱を握っているのだ。
「それって、まずいんじゃないんですか?」
「おや、アンナはそう思いますか」
「そりゃあ……リシャール殿下が支持されてなかったら、婚約してる姫様が危ないじゃないですか」
「そこまではっきり言葉にされると、さすがにひやりとしますね。でも、私はむしろ好機だと思っていますよ」
アンナが驚いて間抜けな声を上げた。
「私たちは勇者の召喚を確信しているんですよ、アンナ。教会とのつながりがないどころか、忌避すらされている私たちがね」
「……貴族たちはこちらの動きを予想できない、ってことですか?」
「そのとおり」
オレリアが勇者の召喚を9年後と予言してみせたのは、占いや神託によるものではない。データによる推定だ。
勇者は過去に4回召喚された。季節は常に春だが、日付はまちまちで、間隔も一定ではない。教会は「ミトラスが必要と定めた時」としているが、本当にミトラスが必要とするのなら、ミトラスが自ら魔王を滅すればいい話だ。
儀式を行うのは人であり、その人が行使するのは奇跡であり、そして奇跡には天体運動に基づいた法則性がある。
リシャールに頼んで勇者が召喚された正確な日時を取り寄せ、星図や過去の天体観測記録と照らし合わせること、1年半。リシャールと文通で喧嘩をする片手間に、オレリアは勇者召喚という奇跡に求められる条件を見つけた。
9年後に召喚される勇者が王となることは避けられない。しかし、これまでと同様に勇者が現代日本から召喚される若者だったとしたら、その勇者が王として相応しい確率は極めて低い。
だから、オレリアとリシャールは改革を断行するのだ。
「勇者の召喚、王の交代、大いに結構。しかし、次の勇者が王として君臨するころには、統治者は議会になっています。レフコス王国はこの世界で最初の立憲君主制国家となるのですから」
「みんなびっくりしますねえ、それは」
「ええ。勇者の聖性が王権の正統性を裏付けていたこの国にとっては、青天の霹靂と言えるでしょう。王を法で縛るには、王が人でなくてはなりませんから」
本来であれば、いつかは王に対して諸侯が請願を突きつけ、法で縛る日がやってくるのだろう。その法が憲法と呼ばれる日も来るのかもしれない。
しかし、ミトラス教が俗世に利益をもたらす力を持つこの世界では、神聖な王権を法で縛るのは困難を極める。国家の力が教会の力を上回らない限り、法が神に影響を及ぼすことはないからだ。
レフコス王国はあまりにも歪だ。王は臣民と親しげでありながら、絶対で超越的な存在と定められている。その裏付けとなるのは教会の権威だ。しかし、教会はレフコス王国の勇者崇拝を疎ましく思っている。
このままレフコス王国が潰れられては困る。
レフコス王国にはシャルルが王位に返り咲いた後の同盟国として健全でいてもらわねばならない。オレリアはガロア王国を捨てたわけではないのだから。
オレリアは兄の君臨するガロア王国に戻るため、レフコス王国を整理する。
「貴族たちは私のことを狂人だと思うでしょうね。勇者を担ぎ上げても自分たちの思うように政を動かせないなんて、彼らの常識ではありえませんから」
オレリアはすでに決めている。たとえ後世の歴史家に狂人と言われようとも、転生者であるというアドバンテージを最大限に活かすことを。
歴代の勇者たちは世界に様々な影響を及ぼした。技術、文化、言語、時には学問すら遺していった。
しかし、オレリアはもっと長い目でこの世界をかき乱す。
この世界にないものを根拠に、9年間の改革を行うのだ。
「こればかりは転生者として生まれたことを感謝しなくてはなりませんね。私はパラダイムシフトを待つ必要がない。正気のままで論理を飛躍させることができる」
「ぱら……なんでしたっけ。ものの考え方がぐるっと変わることでしたっけ」
「そう、よく覚えていましたね」
「もちろんです。私は姫様の家臣ですから」
髪にブラシをかけるアンナの手にねだるように頭をこすりつけると、「せっかく整えたのに」と文句を言いながらアンナはオレリアを撫で回した。
少し雑なその手付きがたまらなく温かい。
アンナが肯定してくれる限り、オレリアは自分の正気を疑わずに済む。転生者だから知っている、などという世迷い言で世界をかき乱すことができる。
王権の制限と議会への実権付与。これはマグナ・カルタを参考にしたものだ。かつてイングランドで伝説的なほどに失政を重ねた王に対し、諸侯が突きつけた憲章。オレリアはそれを再現しようとしている。
そしてその失政とは、オレリア・アルノワとの婚約だ。
「アンナと違って、この国の貴族たちは私の正気を疑いますからね。狂人は王子の婚約者に相応しくありません。彼らが訴え出るのもわかります」
「エグいですねえ、それ。勇者の子孫だから王様としても正統だ……って考えを、あの人たち自身に否定させるってことですよね?」
「彼らが目を背けてきたところをちょっとつついてあげるだけです。一人でも暴発してくれれば、あとはリシャール殿下自らが改革を進めてくれますよ。上からの施しは拒みづらいものです」
諸侯たちからリシャールに婚約の破棄を請願させることで、勇者の血統にまつわる聖性が王権を裏打ちする現状に対し問題提起の機会を作る。それがオレリアの考えた計画だった。
権利を制限される側であるリシャールが主導して議会に実権を譲渡すれば、諸侯は表立って反対することができない。
「……でも、それって教会は何も言ってこないんですか?」
「十中八九動きますよ。議会を乗っ取るのは教会でもそれなりに苦労しますからね、勇者が王として専制を敷ける国のほうが都合がいいでしょう」
「じゃあ、対策必須って感じですか」
「ええ。まあ、そのあたりはもう少しこの国を調べてからです。さて、アンナ。あなたのほうはどんな収穫がありましたか?」
手櫛でオレリアの髪を整えなおしていたアンナが、思い出したように手を止めた。
パーティーにアンナを同行させなかったのは、彼女がメイド長のフレデリカと相性が悪いからではない。情報を集めてもらう必要があったからだ。
貴族たちが王城にやってくるための道中、彼らを世話した人間がいる。従者や御者、護衛たちだ。アンナには彼らから情報を集めてもらっていた。
もちろん、彼らは自分たちの主に都合の悪いことは言わない。それくらいの教育は施されている。しかし、自分たちの主と領地を自慢する言葉はいくらでも引っ張り出せる。それが人の心だ。
たとえば、主が客として招いた珍しい存在、とか。
「いましたよ、錬金術師を招いている貴族」
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