1349年 婚約
第0話 鉛毒の小瓶
笑みを絶やさぬよう、頬が引きつらぬよう堪えながら、リシャール・エルメットは馬上で穏やかに相槌を打ち続けた。
「殿下の深き慈しみの心を知らぬ民などおりませぬ。無論、それは教会も同じこと。先だっての聖人の儀では管区長猊下から直々に祝福を授かったと、この老いぼれの耳にも届いておりますぞ」
「卿の敬虔さには及ばないよ、ガーナー伯爵。僕はこの国の王子として、あくまで世俗を預かる身だからね」
「であればこそ、納得がいきませぬ。あのような毒婦をわざわざ招き入れるなどと……大体、16歳の殿下を相手に7歳の婚約者を立てたその態度が儂は気に入らんのです!」
鞍を並べる老人は片手で髭をしごくようにしながら眉間に皺を寄せた。
この老人――ジョージ・ガーナーはこのレフコス王国の伯爵でありながら、自らの財をほとんど教会に寄進した変わり者として知られている。彼の纏う黒い外套と、その胸元に光る聖墓騎士団のタリスマンがその証だ。
その変わり者の騎士とリシャールがこうして街道を警護のために巡回しているのは、まさにジョージが毛嫌いする毒婦の助言によるものだった。
「畏れ多くも教皇聖下のお認めになった婚約だ、受け入れてはくれないかな」
「聖下のお赦しがあれば取り消すことも同様に可能でしょう! 殿下に相応しいお相手は他にいくらでもおりましょうに……」
「まあ、いいじゃないか。あまり嫌ってやらないでくれ、彼女は親の都合で異国の地に送り出された、まだ幼い女の子なんだから」
騎士の正義感をいたく刺激されたとみえて、ジョージは言葉を詰まらせた。
別にこの御老体が偏見と悪意で彼女を嫌っているわけではない。リシャールの婚約者は国中の嫌われ者だ。王家に忠実である者、信仰の深い者、そして国の行く末を憂い新たな指導者を求める者ほど彼女を嫌っている。
「鉛毒の小瓶。そんなあだ名をつけて忌み嫌うのは、僕には残酷に思えるよ」
「しかし、殿下……あの者はガロア王家の娘ですぞ! 野蛮なガロア人ときたら、戦争に明け暮れるばかりか、征服した異教徒の都市をそのまま属州として自治権を与えておるそうではありませぬか!」
「さすが、耳聡いね」
「僧たちは口々にガロアの脅威を噂しておりますぞ。聖地の修道院に運ばれるはずだった商隊の荷物を徴発したとか……」
さらに言い募るジョージを手で制して、リシャールは馬から降りた。
街道の外れ、草原の中からかすかなうめき声が聞こえたのだ。
青々と生い茂る草をかき分けて進むと、そこには一人の若い男が丸まるようにして倒れていた。
「気をしっかり持って、大丈夫だ。ゆっくり息を吸って」
「う、うう」
「殿下、何事ですか!」
「負傷者だ、ジョージ。手当ての準備を」
「なんと! 承知いたした、ただちに」
馬具に結わえた荷物を取りに慌てて戻ったジョージを傍目に、リシャールは男が意識を失わないよう声をかけ続けた。
彼の身体から流れ出た血で足元の土から嫌な金気臭さが漂っている。肩と腿に矢を受けているようだ。
「安心しろ、彼は聖墓騎士団の騎士だ。すぐに治癒できる」
「あ、ありがてえ……連中、俺の荷も馬も全部持っていきやがった」
野盗だ。
ここしばらく増えつつある野盗の被害はリシャールの耳にも届いていた。
警備は富を生まない。諸侯、教会、王国議会がそれぞれに責任を押し付けあっている間にも、こうして無辜の民が傷を負う。
身銭を切ってまで街道とその通行人を守る、そんな一銭の得にもならないことをしたがる奇特な者はそれほど多くない。
今まさに荷物を抱えて戻ってきた老人は、その「奇特な者」だ。
「お待たせいたした! 殿下、これを噛ませてやってくだされ」
ジョージに渡された布を言われるがまま男に噛ませる。
男の傍でジョージは跪き、胸元のタリスマンに拳を当てて目を閉じた。
「若いの、名をなんという」
「と、トマスだ、ボルジアのトマス」
「よし、もう少しの忍耐じゃぞ。――主の従順なる
ジョージが厳粛な面持ちで祈りの言葉を唱えるのを見守りながら、リシャールは励ますように男の手を強く握った。
まばゆいほどの光とほのかな熱がジョージの拳に宿り、そこからあふれるようにして男の傷口へと流れていく。
光が男の身体に触れると、一瞬痛みを堪えるように全身が強張ったあと、ゆっくりと力が抜けていった。
「これが……奇跡」
目の前でするりと抜け落ちる二本の矢。
傷が塞がり、光が収まると、その場を満たしていた澄み渡った緊張感もどこかへと消えていった。
本物の奇跡を目にしたのは久しぶりだ。ましてや、人の命を救うようなものは。
「もう大丈夫じゃ。しばらくは眠っておれ、ボルジアのトマス」
「あ……ありがとうごぜえます、騎士様」
「全ては主の御心じゃ」
ジョージの言葉に小さく頷いて、男は意識を失った。
傷は癒せても、消耗した体力が回復したわけではない。彼が失った富を嘆くのは身体が回復してからになるだろう。
「殿下のおかげで尊い命を救うことが叶いましたな」
男がリシャールに礼を言わなかったことを気にしたのか、ジョージの阿るような言葉にリシャールは小さく首を振った。彼を救ったのはリシャールではない。
「君でなければできなかったことだよ。彼を安全な場所へ送ってやってくれ。僕は野盗のことを詰め所に伝えてから戻るよ」
「では、そのように。殿下に主のお導きがあらんことを」
軽々と男を抱き上げて馬に戻ったジョージを見送ってから、リシャールは転がっていた二本の矢を拾い上げた。
黒い矢羽根に返しの付いた矢じり。北方のドゥムノニアから流れてきた狩人崩れが好んで使う矢だ。
「……不愉快だね」
己の守るべき民が傷つけられ、それを己の持つそれとは異なる力が救っている。
吹き抜けた風がリシャールの髪を乱していく。
幼い頃はこの夏に吹く風が好きだった。歳を重ねるごとに胸が躍らなくなってきたのは、きっと夏のせいではない。
汗ばむ額を拭う気力もわかなかった。
朝からジョージの巡回に付き合い、昼食は神官たちのご機嫌取りに一生懸命で何を食べたかもよく覚えていない。剣の稽古で弟に打たれた左の腿がまだ痛む。
それでもリシャールはすれ違う侍女たちにも笑顔を見せる。それがこのレフコス王国で第一王子として生きる者の役割だからだ。
自分が何者であり、この身にどんな血が流れているのか。それを本当の意味で理解した瞬間から、リシャールはずっと王子として振る舞ってきた。
「ジョシュア、君はここまででいい」
「しかし、殿下……」
ジョシュアの眉間に皺が寄るのを見て、リシャールはこれから訪ねる人物の評判がいかに低いかを再確認させられた。
従者であり、護衛であるジョシュアはリシャールの身に近づくあらゆる危険を排除するのが自分の仕事だと考えている。きっとこの先で待つ毒婦も彼にとっては排除すべき存在なのだろう。
それゆえに、ジョシュアをこの先に連れて行くわけにはいかない。
「婚約者と話してくるだけだ、危険はないよ」
不承不承ながらも一礼し、通路の脇に控える従者に小さく感謝の言葉を口にして、扉を叩く。
「――どうぞ」
彼女を警戒する者は宮廷内においても決して少なくはない。大国が送り込んできた鉛毒の小瓶。そうあだ名する者もいるほどだ。
彼女の何が人々を恐れさせるのだろう。
扉を開けた瞬間に感じる、埃とインクの匂い。つまり、知性がそうさせるのか。
ふとした瞬間に怪しくきらめく、鈍い鋼色の髪。つまり、隣国ガロアの王族の血統がそうさせるのか。
それとも、幼さに見合わない、この見透かすような瞳がそうさせるのか。
「今日はまた、一段とお疲れのご様子ですね、リシャール」
「……疲れもするさ、オレリア」
ゆったりとした簡素なローブを身に纏い、肘掛椅子の上でくすくすと笑う少女、彼女の名はオレリア・アルノワ。隣国からやってきたリシャールの婚約者だ。
まだ9歳の幼い少女。本来であれば嫁いでくるべき年齢ではない。宮廷に出入りする者のほとんどが彼女を憐れむか嘲るか、いずれにせよ彼女はこの部屋に押し込まれて久しい。
しかし、リシャールにとってオレリアは唯一無二の共犯者だった。
「もうくたくただ。午前中はずっとガーナー伯爵の隣で馬に揺られて、昼食は司教のありがたい説教付き」
「極端な振れ幅ですね。信心深い貴族と欲にまみれた高僧とは」
「うんざりするよ、まったく……でも、必要なんだろう?」
「ええ。どちらも必要な伝手です。新しい時代のために」
そう、新しい時代のために。
彼女が嫁いできた2年前、リシャールはオレリアと密約を結んだ。婚約者としてではなく、革命の同志として。
5年後に、この国は変わる。
勇者召喚の儀式が執り行われ、魔王封印の結界が更新される。それが5年後に迫っているという推論と、それを教会が秘匿しているという事実を指摘したのは、他ならないオレリアだった。
レフコス王国の王位継承順位は勇者の血統によって規定される。リシャールは第一王子であり、勇者を娶る必要がある。そのためにはオレリアとの婚約を破棄しなくてはならない。
しかし、二人の婚約は教会が定めたものだ。そう簡単には覆すことができない。
勇者の召喚という事件が王国を揺るがすことは、どうしようもなく確定していた。
だから、リシャールは愛する王国と家族を守るためにこの国を変えると決めた。オレリアは生存のため、その計画に参加した。
それ以来、この部屋は二人の秘密基地になった。
固めの長椅子、干した果実で満たされた壺、安っぽいワイン。どれも王子としては手に入れられなかったもので、この秘密基地に置かれているものだ。
リシャールが長椅子に寝転がると、オレリアが書き物を終えてインク壺に蓋をし、椅子から降りる音が聞こえた。
「私との婚約破棄の際、高位聖職者の伝手が必要になります。私達の婚約は教皇が認めた契約ですからね。教会を軽んじたわけではないという証を立てないと、最悪の場合再婚相手との子が嫡男として認められませんから」
「……9歳児に言わせることじゃないなあ、ごめん」
「悪く思うのなら頑張ってください、その努力が私の生存に直結します」
長椅子の端、リシャールの頭のすぐそばに腰かけたオレリアの小さな手に握られたハンカチが、そっとリシャールの額を拭う。
「まあ、私も力の及ぶ限りのことはしますからご安心を。人形相手でも愚痴を吐き出すと気持ちが楽になるそうですよ」
「……ありがとう、オレリア」
「一応、婚約者ですから」
9歳とは思えないほど賢く、皮肉屋で、不器用な優しい婚約者。
彼女が幸せに生きるためにも、リシャールは頑張らなくてはならない。こんな小さな子どもが政治の駒として使い潰されていいなんて道理はないのだ。
「そうだね、できるだけ頑張るよ」
「ええ。教皇にも信を置かれているガーナー伯爵は世俗の後援者としてこの上ない人物です、今日のお礼を手紙で伝えておいてください。彼の息子は確か、あなたと同世代でしたね?」
「……彼ちょっと怖いんだよなあ、ギラギラしてて。野心家っていうか」
「なるほど……まあ、程よい距離を保ちましょう。それから――」
二人きりの作戦会議。
この関係が構築されるきっかけは、たった一通の手紙だった。
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