第25話 王の目算

 オレリア・アルノワは無事リシャールと和解した。

 その報告をフレデリカから受け取ったオーウェン2世は、鷹揚に頷いてみせた。今回もオーウェンのは正確かつ完璧だった。

 エルメット朝レフコス王国当代国王、慧眼王オーウェン2世。勇者の血統として継承したのは「完璧な目算」だ。

 この謁見の間に敷かれている絨毯が何メートルあるのか、今杯に注がれた葡萄酒が何ミリリットルで、金に換算すればどれほどの価値があるのか。オーウェンにとって、オレリアという財の重みを量ることとそれらの目算に大きな違いはない。


「言ったであろう、フレデリカ。あれを受け入れるのは結果的にプラスだ」

「……ご慧眼、おみそれいたしました」

「投資というのはな、長い目で見るのが大事なのだ。メイドたちにもよく言い聞かせておけ」

「仰せのままに」


 献上品の上等な葡萄酒を舌の上で転がして、オーウェンは玉座に頬杖をついた。

 息子であるリシャールが「婚約者としてオレリア・アルノワを求めたい」と懇願してきた時点で、彼女がレフコス王国に代えのきかない利益をもたらすことをオーウェンは確信していた。

 確信がなければ婚約を認めなかっただろう。オーウェンが王である限り、認めるわけがない。一国の王子との婚約だ。並大抵の相手では国の将来に差し障る。

 オレリアは奇貨だ。

 国家の規模が大きければ大きいほど、個人の才覚は埋没する。オレリアという麒麟児が己の実力を確認し、発揮する場として、レフコス王国は十分に小さい。

 しかし、誰かがオレリアの手綱を締める必要がある。彼女を放任して暴走させれば、ガロア王国の二の舞を演じる羽目になるのは確実と言っていい。

 彼女の故郷、ガロア王国の宮廷で起きた騒動はオーウェンの耳にも届いていた。そしてその余波が今もなお収まらないことも。


「ガロア王国は大陸の覇者だった。しかし、彼奴らの時代は終わった。あるいは盛り返すやもしれんが、それも蝋燭が最期の一燃えを一層眩くするのと同じよな」


 失敗したのはオレリアではない。ガロア王国全体だ。

 大陸の覇者となりえる強大な国家があっけなく教会に乗っ取られたのはなぜか。それは、彼らが諸侯をまとめあげるために教会を頼っていたからだ。

 王とそれに仕える貴族。聞こえはいいが、貴族たちに真の忠誠心などというものは存在しない。彼らには養う家族がいる。富ませるべき一族がある。

 貴族は王に跪くのではない。権威に跪くのだ。

 そして、教会は権威として単純に比較するのなら、王よりも忠誠を誓うに値する。奇跡という実益を伴っているからだ。

 国家としてガロア王国は失敗した。教会を飼いならすことができなかった時点で、彼らは教会との戦争に負けた。


「鞭の入れ方も知らずに馬に乗るようなものよな。最初はきっと従順なよい馬だったのだろう。しかし、己が跨るのが暴れ馬だと気づいてから降りようとしても、そうはいかんものだ」


 オーウェンは杯を傾け、灰皿へと葡萄酒をこぼした。つい先ほど届いたばかりの書状がわずかに火の粉を散らしていたが、それも芳醇な香りの中で鎮火される。


「この手紙を寄越したじゃじゃ馬には丁重に断りを入れておけ。勇者の戦場をシエナの娼婦風情が決めようなどと、片腹痛いわ」


 手紙の送り主はガロア王国の王妃マロツィアだ。

 彼女はレフコス王国だけではなく、大陸諸国に檄を発している。南海沿岸の異教徒都市群征伐、これを聖戦と定め、信仰の名のもとに勇敢な騎士を募っているのだ。

 実際に得をするのはガロア王国でも、馳せ参じた騎士でもない。

 参戦した騎士には、マロツィアの実家であるベナドゥーチ家が戦費を喜んで貸し付ける。当然、彼らの貸付は善意ではない。

 それを理解していない愚か者は喜んで参戦するだろうし、理解していてなお信仰のために赴く敬虔な者もいるだろう。当代のガロア王は戦上手だが、果たして寄せ集めの軍をどこまで操れるのか。

 信仰と武勲に逸る者ばかりが集う軍。しかし、下手に被害を出せば教会がいい顔をしないだろう。


「哀れだと思わんか、フレデリカ」

「……一国の運命など、私には口にするのも畏れ多いことでございます」

「言っているようなものであろうに。ガロア王国は終わりだ。まあ、そうさな。あれの兄御が覚悟を決めれば、あるいは蝋燭に火を継ぐことも叶うやもしれん」


 上等な酒のせいか、それとも息子とその婚約者が上手くいっているせいか、どうにも舌の滑りがいい。

 オーウェンは再び満たされた杯を揺らしながら、その赤い水面に世界の未来を思い描いた。いくつもの絵図がオーウェンの脳裏に浮かんでいる。その中で、最もレフコス王国が豊かであるのはどれか。

 シャルル・アルノワが王位を簒奪し、教会との縁を切ればガロア王国は小さくも強力な国家になりうる。教会への反抗心を紐帯として結束した強い国家だ。

 しかし、その国家は長続きしない。教会が果たしている役割は多岐に渡り、それらすべてを国家が補うことはできない。人は一度得た豊かさを手放す苦しみに耐えられないようにできている。

 では、教会に恭順すればどうか。巨大な教皇領、教皇の代理人として大陸を治めるのだ。法王によって治められ、王権の上に教皇が君臨する国家だ。

 悪くはないが、これも些か将来性に乏しい。教会に縛られきっていないレフコス王国ですら信仰の枷が停滞の原因になっている。教会に恭順したレフコス王国は安定するかもしれないが、緩やかに衰退していく。

 ガロア王国が復活するためには、突飛な発想が必要だ。

 そして、その突飛な発想を産みかねない金のガチョウがどこで飼われているかも教会は気がついている。


「面を上げよ、


 オーウェンが戯れている間も微動だにせず頭を垂れていた客人が、ゆっくりとその顔をオーウェンへと向けた。

 頭から爪先まで全身を隠すように覆う赤の衣は修道女が一生纏う修道服によく似ている。しかし、その色と金糸で縁取るように縫われた聖句は彼女がただの修道女でないことを示している。

 感情を落としてきたかのような顔は、きっと笑顔を浮かべれば多くの男を魅了するであろう端正なそれだ。だからこそ不気味でしかない。


「改めて、名を聞かせてくれ」

「我が身はただ神の名のもとに」

「そうであろうとも。しかし、俗世では個々人を呼び分けるために名を使う。お前を遣わした主とて、そう教えたであろう」

「……主の敬虔にして忠実なる下僕、枢機卿であらせられるシエナのノワイエ猊下より、スルダと拝命いたしました」


 スルダ。古い言葉で「耳を閉ざされた者」を意味する名を平然と名乗り、金の瞳を躊躇うことなく王に向ける彼女は、まるで人形のようだ。

 事実、彼女は人形だ。操り主は枢機卿、シエナのノワイエ。

 よく手入れされた艶のある黒髪も、あかぎれひとつない指先も、全てが作り物。完璧に作られた敬虔な無垢の聖女は、ただ信仰だけを吹き込まれて育つ。

 オーウェンは彼女たちをよく知っている。


「では、スルダ。証を示してもらおうか。余の血統を越えうるという可能性を」


 それは、彼女たちが勇者としているからだ。

 オーウェンの命令に応じるようにしてスルダが指先に灯したのは、確かに魔術の光だった。勇者の血統にしか扱えない光の魔術を、たやすく御してみせた。

 スルダの存在は教会の禁忌だ。万が一にも勇者が召喚されなかった場合の予備を枢機卿は己の営む修道院で生産している。それは唯一絶対の神であるミトラスを疑うことと同義であり、背信にほかならない。

 彼女たちの存在を知るのは歴代のレフコス国王と枢機卿派のごく一部のみだ。


「よい。当代のか。期待させてもらおう」


 間近に迫る勇者召喚の儀。それが失敗した際には、彼女が勇者として現れることになっている。スルダは勇者の代わりとして命を捧げる聖女だ。

 己の呼び名にも無頓着なスルダを退室させ、オーウェンは枢機卿からの贈り物である葡萄酒をもう一杯注がせた。


「……陛下は、聖女をどうお思いなのですか」

「気がかりか」

「いえ」


 言葉を濁したフレデリカは、いつもどおりの鉄面皮で感情を隠している。

 しかし、付き合いの長いオーウェンには彼女がスルダの行く先を案じていることがたやすく見て取れた。気がかりなことがある時、そして情を揺さぶられた時に左の眉が揺れるのはフレデリカ自身も知らない癖だ。


「年若い乙女がああも無惨な有り様だ、気にもなるであろうよ。勇者が無事召喚されればあれはお払い箱だ。枢機卿が聖餐主義者を飼い続けているのもそれが理由なのだからな」

「あの娘は、狂人たちの贄になると?」


 聖餐主義者。その名を聞いて、フレデリカの鉄面皮も緩みを見せた。ただし、それは恐怖によるものだ。

 聖人の遺体を祀りながら、遺体を用いた儀式で特別な祭具を生み出す異端。源流を辿れば土着の信仰に由来し、一度は一掃された彼らは、枢機卿の与えた巣で飼いならされた。そして、彼らは実験と儀式を続けた。

 原則として、聖餐主義者は聖人の遺体や聖遺物を扱っている。しかし、信仰のためであれば生者を使うことも厭わない。

 奇しくもオレリアの兄が犠牲となりかけたように。


「しかし、それは。あれもまた奇貨だ、坊主どもに下げ渡すほど余は衰えておらん」

「では、いかようにいたしましょう」

「さて、な。……そうだ、内祝いとしてオレリアに与えてみるとするか」


 杯に沈んだ葡萄の滓を飲み干して、オーウェンは笑った。


「きっと面白くなる。余の目算は外れんぞ」

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