第17話 逃亡
肺が焼けるようだ。
人気のない路地を駆けながら、ウーティスは頬を伝う涙を拭った。
「私のせいだ」
押し寄せる後悔の念がウーティスの心を突き刺す。
本来なら社屋の奥に籠もっているはずのウーティスは、己の会社として任されたアルバス・カンパニーから脱走した。
社屋の設計に参加した際に軽い気持ちで作っておいた秘密の抜け道を使う日が来るとは思ってもみなかった。使うことを前提にしていない窮屈な作りだったせいで、無理やり通り抜けたウーティスは土埃まみれだ。
洒落た服も、気取った帽子も汚れてしまった。今のウーティスを美しいと思う者などいはしないだろう。ましてやウーティスがやろうとしている裏切りを知れば、誰もが軽蔑の目を向けるに違いない。
この行いは正しくない。今すぐにでも引き返せ。
そう常識が訴えていても、ウーティスに戻る気はなかった。
「私の、せいだ……!」
誰も気が付かなかった銃声を、ウーティスだけが聞き取っていた。
アンナの魔術を崩したのは銃だ。ウーティスがかつて教会の隠れ里で犯した償えない罪が、とうとう味方に牙を剥いたのだ。
呆然とした表情で落下するアンナを見た瞬間、ウーティスの冷静な頭脳は何が起きたかを完璧なまでに理解した。
魔術破りの力を持つ神聖な金属、隕鉄。空の鋼とも称されるそれを融かして作られた弾丸は、隠れ里の担当者を名乗る聖職者が手放しで称賛するほど理想的な「聖戦士の武器」だった。
その弾丸が誰を穿とうと、教会に守られた自分には関係ない。そんな愚かな無責任さが、世界に七発の罪を産み落とした。
そしてその一発が目の前で使われ、大切な仲間を傷つけた。
「私が、止めなきゃ」
震える膝を叱咤する。
北へ進めば進むほど、3月の夜とは思えない熱気が肌を乾燥させる。
ウーティスの目的地は北の大鐘楼、そこにいるであろう狙撃手だ。刺し違えてでも銃を破壊しなくては、アンナや社員たちに申し訳が立たない。
日は陰り、すでに夜を迎えつつある街の中で、ウーティスは己の罪を滅するために一人で走っていた。
「――感情に振り回されるのは愚か者だ。ましてや、理解していて感情を優先する者は最も度し難い」
その声に気がついたときにはもう、ウーティスの身体は冷たい石畳の上で押さえつけられていた。
尖った小石で切れた頬だけが熱く焼けている。
どれだけもがこうと、倒れたウーティスの背中にのしかかる何者かは解放してくれなかった。
「さてもさて、お前には名前が多いから、どう呼べばいいか小生には見当がつかん。ウーティス・アルバス、エウラリア、エウラリウス、ユーラリー。名前の数だけ罪を負う者だな、お前は」
「どいて……お願い」
「お願い? もしもまだ気がついていないのなら、あまりに哀れだから教えてやろう。お前は人にものを頼める立場ではないし、小生もそれを聞き届ける気はない」
木底の革靴がウーティスの背中を踏みにじるたび、叫びたくなるような痛みがウーティスを襲った。身体の芯に灼けた針をゆっくりと刺されるような激痛で、視界が白黒に明滅する。
それでも、ウーティスは必死にもがいた。
己の作った武器が誰かを殺める前に、自分の手で責任を取らなくてはならない。そのために死ぬことを思えば、痛みなど問題ではなかった。
「小生は心底不機嫌だ。なぜだかわかるか? お前が仕事を増やしたからだ」
「行か、なきゃ」
「行って何になる? 行けばお前は捕らえられ、思考に枷をかけられ、新たな火種を生み出し続けるだろう。水車小屋の石臼でももう少し頭があるというものだ」
「私が……私の罪だから……ッ!」
腰のベルトからナイフを抜こうとした右腕は踏みつけられ、届かない。
にじむ視界の中で、風に吹かれて羽根付き帽子が転がるのが見えた。死んだ師、名前を教会に奪われた自然哲学者の遺品が火の粉混じりの風に煽られている。
父の望みは叶えられず、師の願いも果たせず、友を守ることも、己の罪を償うことも許されず、ただ虫けらのように踏み潰されるのは、ひどくみじめだ。
何より、その全てが己の愚かさから生じたことを理解できてしまうのが、ウーティスを苦しめる。
「主は愚かさに罪なしと言う。罪を罰せよ、人を罰するなかれとも言う。だからお前のような愚者でも小生は生かしてきた。……しかし、お前は偉大だ。生かすつもりだったものを殺そうと、小生に心変わりをさせた」
鞘から剣が抜かれる音がする。
ここで死ぬのか。
死ねば、もう苦しむことはない。道化のように振る舞って、怯えと痛みを誤魔化す必要はなくなる。ずっと抱えていた絶望、罪の意識と呼ぶには低俗で自己中心的な恐怖ともおさらばだ。
そう思うと、今からウーティスを斬るであろう刃が救いにも思えてくる。
それでも。
「まだ……死ねない」
無理やり身を捩って、左腕で背中を踏む脚を掴んだ。
あまりにもささやかな抵抗だ。蝶の羽ばたきでももう少し力強いだろう。
自分でも笑ってしまうくらい無力な、そんなウーティスに手を差し伸べてくれたのは誰だったか。守ってくれたのは、慕ってくれたのは誰だったか。
愚かさゆえに、ウーティスは諦めることを拒んだ。
「――そう、貴女はまだ死んではいけない」
そして、最後にウーティスは奇跡を聞いた。
ウーティスよりもはるかに身勝手な、悪魔のような主の声を。
「ウーティス・アルバス。貴女が諦めない限り、貴女は死にません。私が、オレリア・アルノワが貴女の死を許さない」
公務のため、レフコス王家の人々とともに海を超えたはるか彼方の北方商業都市群に赴いていたはずのオレリア。幼くも美しい鋼色の乙女が、風を纏って空から舞い降りた。
微笑んでいる。
愚かにも脱走し、今まさに殺される寸前だったウーティスに向けられたその微笑みは、まるで散歩中に偶然出会ったかのような穏やかさだ。だからこそ、超然的ですらあった。
「……オレリア・アルノワか」
「こんばんは、聴罪師のおじさま。私の可愛い部下から降りていただけますか?」
「ふむ。驚くべきことではある。しかし、この女の愚かさと弱さを思えば、主から最後の機会を賜ったとしてもおかしくは――」
風が吹いた。
ウーティスの頭上を吹き抜けていった焼けつくような熱風は、剣の一振りによって魔力を失う。隕鉄の剣だ。
しかし、ウーティスの背に乗っていた男は舌打ちしながら飛び退いた。
「言葉が悪かったですね。お願いしているつもりはありません。これは命令です」
「……賢しいな。小生は賢しい女は嫌いだ」
隕鉄は魔術を打ち消しても、魔術によって引き起こされた現象を巻き戻せるわけではない。風が消えても、燃え盛る大火の熱気は残る。
漂う熱を第二の風で追いやって、オレリアが倒れ伏すウーティスに歩み寄った。
「聴罪師のタリスマンに、隕鉄の刺剣ですか。見事な細工のヒルトですね。さぞ名高き名工の手によるものなのでしょう。月桂冠に星、ベナドゥーチ家の紋章は並の職人に扱える意匠ではありません」
「ほう、小生がベナドゥーチ家ゆかりの者と知ってなおその態度が取れるか。実家に迷惑がかかるとは思わんのかね、ん?」
「かかりませんよ。ご自分の独断で八聖家の過半数を敵に回せるほど、ベナドゥーチ家に余裕はありませんから」
「いいな、実にいい。小生はますますお前が嫌いになったよ、オレリア・アルノワ」
身を起こそうとしたウーティスの頭に、柔らかい何かが載せられた。
「大事な帽子をなくすところでしたね。……もう大丈夫です、ウーティス。後は私に任せなさい」
「オレリア、様」
「ええ。貴女のこわーい上司、オレリア・アルノワはここにいますよ」
涙と疲労で視界が薄れていく。それでも、ウーティスの網膜にはオレリアの美しさがしっかりと焼き付いた。きっと二度と忘れることはないだろう。
意識を失う直前、ウーティスは自分の口が謝罪の言葉を発したのを感じた。
「……馬鹿ですね、貴女は。謝るのは私だというのに」
その優しい声も、きっと忘れない。
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