宇香風

 宇家屋敷の最奥。

 内庭に設けられた水路の音が聴こえてくる部屋の前で、俺達を先導してくれていた黒茶髪の少女が声をかける。


「御祖母様、オトです」

「――お入り」


 飄々とした女性の声が、かちゃかちゃという音と共に返ってきた。

 オトはやや緊張した面持ちになり、俺達に先んじて部屋の中へ。

 両隣の白玲と瑠璃へ目を向けると、背中を押された。左肩に乗っていた黒猫のユイまでもが瑠璃の腕の中へと飛び乗る。


「隻影、早くしてください」「待たせたらことでしょう?」


 俺は『盾』代わりかよっ!

 お澄まし顔の少女達と黒猫を睨みつつも、部屋に入る。

 真っ先に飛び込んできたのは、西域で盛んな盤上遊戯――双六が広げられている古びた机。近くには見事な細工の施された長椅子。棚に並ぶのは陶器製や、色硝子で作られた異国の酒瓶で、壁には煌びやかな灯り台が設置されている。

 大きな丸窓の外からは、峻険な山々と優美な段々畑が見て取れ、気持ちの良い風が室内を通り抜けていく。


「今回も無事戻ったようだね、張家の坊主達。上々だよ」


 部屋の片隅から、オトを従えて姿を現したのは、長い白髪を三つ編みにし、地味な色の民族衣装を身に着けた小柄な女性だった。

 ――名は宇香風ウコウフウ

『西域にその人あり』と謳われた女傑にして宇常虎将軍の母親。オトと博文の祖母だ。

若い頃は大陸を放浪し、一時は張家に滞在していたこともあったとか。礼厳と恋仲だった、と聞かされた時は嘘偽りなくひっくり返った。俺は軽く左手を振る。


「お陰様でな、婆さん。いや――宇家当主代理にして、俺達を庇護してくれた大恩人様と言った方がよろしいでしょうか?」

「はんっ。慣れないことはお止め。私は所詮、老い先短い婆に過ぎないんだ。頭を下げるのはこっちの方さ」


 婆さんは楽し気に笑い、手に持つ数個の賽を空中に放り投げては取った。

 年齢は軽く六十を超えているらしいが……西域の食い物は、不老の効果でもあるんだろうか? どう見ても四十代にしか見えない。

 奥で香を焚いていたらしい女傑が俺達を促す。


「おかけよ。茶でも淹れよう。オト、手伝っておくれ」

「はい、御祖母様」


 言われるがまま、俺は長椅子へ腰かけると、両隣に白玲と瑠璃も座り、膝上で黒猫が丸くなった。動き辛いんだが……。

 棚から硝子製の茶入れを取り出しながら、香風が俺達を称賛する。


「首尾は博文から聞いているよ。手強い『虎殺し』を相手にして、今回もまた戦死者無し。大したもんだ。泰嵐坊と礼厳が自慢するのも理解出来る。ああ、よく分からない小箱はあんたの物だよ。当座の褒美にしちゃ、まるで足りないがね」


 白玲と瑠璃だけでなく、作業の手を止めたオトまでもが、ちらり、と俺を見てきた。

 博文が詳細な報告を香風にしていたことが、余程意外だったらしい。

 ふっふっふっ……見る目は俺の勝ちだな!

 仕草で勝ち誇ると、お姫様と軍師様に軽く頬を抓られた。手癖が悪ぃ。

茶杓で急須へ茶葉を入れ、女傑が顔を顰める。


「本来、賊なんぞうちの家が討伐しなければならないんだが……知っての通り、主力は愚息と共に死んじまってね。戦える軍はあんた達が救ってくれたオト達と、動かせない『鷹閣』の守備隊だけなのさ。宇家当主代理として感謝するよ。これで、古廟や街道が荒らされることもなくなり、祖霊と民を安んじられる」


 無謀極まる西冬侵攻戦の傷は深い。完全に癒えるのは数年先となるだろう。

 中原と西域とを唯一繋ぐ要害の地である『鷹閣』に、子飼いの将兵を残していった宇将軍は、誰が何と言おうと慧眼だった。


「ただ飯を喰らうわけにもいかないしな」「私達を匿っていただきましたので……」


 俺と白玲は本心で返す。

 正直言って、宇家に今の俺達を匿う利は乏しい。

 本拠地である敬陽は【玄】の手に落ち、精鋭と謂えど手勢は数百に過ぎないのだ。

 急須をオトへ手渡した女傑は、賽子を天井近くまで投げ、足を組んで目の前の椅子へ座った。落ちて来た賽子を鮮やかに受け止める。


「馬鹿な子達だねぇ。あんた達は……私の息子の最期を教えてくれた。孫のオトと兵達を生かして、西域へ帰してくれた。この恩義に勝るものなんかあると思うかい?」

「「…………」」


 幼馴染の銀髪少女と共に俺は黙り込む。

 親父殿は決して味方を見捨てなかった。俺も白玲もそれを真似しているだけだ。

 机の双六を興味深そうに見ていた瑠璃が会話に加わってくる。


「――で? ただ労わる為だけに、私達を呼び寄せたわけじゃないわよね? 本題を聞きたいんだけど。早く温泉にも入りたいし」


 古来より、武徳は温泉地として名高い。

 宇家の屋敷内にも湧いており、夏の間など瑠璃は日に幾度も入っていた。

 賽子を机に転がし、香風が肘をつく。


「あんたの賢しらな言動、嫌いじゃない。博文に出来た嫁がいなければ、うちに迎え入れたいくらいだね」

「……絶対に嫌よ」


 金髪仙娘は顰め面になるや、俺の膝から黒猫を取り上げ、自分の膝へと移した。

 本気で嫌だったのか、瑠璃曰く仙術ではなく、方術らしい萎れた白花が周囲にポロポロと零れ落ち、消える。ちょっと男嫌いの気があるんだよなー。

 オトが茶を湛えた碗を差し出してきた。


「どうぞ」

「お~助かる」「ありがとうございます」「ありがとう、オト」


 礼を言い一口。独特な香りだ――生き返る。

 俺達が軽く碗を掲げ讃えると、黒茶髪の少女は嬉しそうに表情を綻ばせた。

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