序章 下

「議論の余地無しっ! 我が国との長年の友誼を破った【西冬セイトウ】を討つべしっ‼ 今ならば、北の馬人共も敬陽における敗北で意気消沈しておるでしょう」


 諸官が集まった宮中の廟堂に肥えた男――エイ帝国副宰相、林忠道リンチュウドウの大声が響き渡った。

 頭に髪はなく、四肢は丸太のように太い。年齢は六十手前と聞くが若々しく見える。

 だが、その瞳は権勢欲で濁りきり、思慮深さは皆無。服装も過度に華美だ。

 皇帝家の遠縁で多少内政に功績があるとはいえ、天下の政を任せられる男ではない。大方、今回の件を用いて私――楊文祥ヨウブンショウが持つ宰相の地位を狙おうとしているのだろう。

 ……狐面をつとに被っているという懐刀の男の入れ知恵か。

 ちらり、と天壇てんだんを確認する。

 玉座に座られている『龍』が描かれた明黄の衣を纏われた若い男性――皇帝陛下は困った表情を浮かべられながら、我等の議論を見守っておられる。

 聡明であられた皇后陛下を数年前に亡くされた後、陛下は忠道の娘を愛妾とされた。


 ……あの時反対していればっ。我、誤れり。


 私は悔恨を覚えつつも白髭をしごき、静かに政敵を窘める。


「……忠道殿、少し落ち着かれよ。貴殿の気持ちは理解出来るが、西冬侵攻ともなれ

ば、国の大事。前線の張将軍とも図らねばなるまい」

「ふんっ。肉屋の息子と話すことなぞ……奴は陛下の命を破り首府を離れた不忠人っ! 侵攻の際はただ持ち場を守っていれば良いでしょう」


 家祖が肉屋だったという張泰嵐チョウタイランは、陛下の召喚を受けつい先日まで臨京リンケイに滞在していたが……『ゲン軍、大河及び敬陽ケイヨウに侵攻せり!』の報を受けるや北へ戻り敵軍を一蹴したのだ。

 臨京の民草だけでなく、宮中に仕える我等が祝杯を掲げたのは言うまでもない。

 副宰相派はそんな張泰嵐までも蔑んでいるっ!

 声が低くなるのを抑えきれず、淡々と事実を突きつける。


「……貴殿の言う『肉屋の息子』の働きによって敬陽失陥は辛くも免れ、奴等が『四狼』と誇っている猛将の一人を討つことも出来たのだぞ? 貴殿の主張するように西冬侵攻とならば、張家軍にも動いてもらう必要がある」

「宰相閣下は御甘い! 前線で何かあらば『張家軍』『張家軍』……そのようなことだから、奴等がつけあがるのですっ‼」

「では、どうすると?」


 五十余年前、大河以北を喪う前から我が国の軍は弱兵として知られている。

 北方より南進を窺う【玄】の大軍を押し留めているのは【張護国】率いる精鋭なのだ。

 林忠道が肥えた身体を動かし皇帝陛下へ向き直った。


「陛下! 張泰嵐の長年の働きは臣も認める所であります。同時に、彼の将は実現不可能な『北伐』を声高に主張して止まぬ男でもあります。これは自ら功を得ようとする私欲によるものと、臣は些か疑念を持っております」

「馬鹿なっ。そのようなことあるわけがないっ!」


 思わず激しかけ、私は腰を浮かせた。

 張泰嵐の忠義を疑う。仮にそうなれば我が国の将で誰を信じれば良いのか。

 だが、廟堂内の諸官は皆目を落としあるいは視線を逸らしている。

 事なかれ主義が時に悪だと分からぬとは……。副宰相が身体を揺らし、続けた。


「どうか臣に『賊国【西冬】を討伐せよ』と御命じくださいっ! 臣が手に入れた情報によれば、彼の国に北の馬人共は駐屯しておらぬようです。今行動せねば……敬陽も持ちませぬっ! 臣は老体に鞭打ち戦場へと赴き、賊国を討ち、陛下のご宸襟を安んじ奉る所存っ‼ 我等に精強無比な禁軍ありっ! これに西方及び南方の兵を動員すれば、兵数は優に十五万を数えましょう。その軍を以て――」


 忠道が一瞬だけ振り返り私を見た。

 そこにあるは驕りと嘲り。


「西冬南方『安岩』より奇襲侵攻致しますっ!」


 禁軍――皇帝陛下直轄の中央軍と、ここ数年は平穏を謳歌しているとはいえ、精強とされる西方と南方から兵を引き抜き、敬陽も兵站拠点にせず侵攻するだと⁉

 確かにそこまですれば兵数において、我が方は玄軍と西冬軍に優越しよう。奇襲効果も望めるかもしれぬ。

 だが、大運河を使わぬとならば兵站に不安がある。馬は船程荷を運べぬのだ。

 しかし『奇襲』という言葉は耳障りが良い。……この論の進め方、副宰相自身の考えではないな。

 幾ら何でもこのような案、通させるわけには――


文祥ブンショウ

「……はっ」


 皇帝陛下が短く我が名を呼ばれた。すぐさま向き直り、頭を垂れる。

 重苦しい沈黙の中、天壇から降りて来られ――私の肩に手の重み。


「泰嵐が私欲に溺れているとは思わぬ。だが、忠道の言にも頷けるところはあろう? 【西冬】は今や敵国。叩けるならば叩くべきではないか? 兵站維持をどうか頼む」

「…………御意。微力を尽くしまする」


 今まで我が国は大河を天然の要害として玄の侵攻を食い止めてきた。

 だが、敬陽北西に位置する西冬が敵となれば……如何な張泰嵐と謂えども苦戦は免れまい。可能かどうかは別として、副宰相の言にも理は確かにあるのだ。

 皇帝陛下が私の肩から手を外され、厳かに命じられた。


「林忠道! 一軍を率いて【西冬】を討伐すべし‼ ――くれぐれも油断はせぬようにな。兵だけではなく、蛮族との戦に慣れている南軍と西軍の将も連れて行くと良い」

「! へ、陛下、お心遣いは感謝致しますが」

「では、南軍の【鳳翼ほうよく徐秀鳳ジョシュウホウと西軍の【虎牙こが宇常虎ウジョウコを推薦致します」

 私は慌てた様子の副宰相の言葉を遮り、上奏した。

 歯軋りが聴こえて来たが無視し、勢いよく両拳を合わせる。


「両将が世に出て二十数年。未だ戦場で敗れた、という話を聞きませぬ。張泰嵐と並ぶ【三将】の内二人が陣中にあらば、将兵の士気も自ずと高揚致しましょう。また――張家軍からも一隊を加えては如何でしょうか? これ程の大戦。ここは張泰嵐の面目も立ててやるのが天下の度量と申すものと愚考致します」

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