戦況
「オト、絵図を広げておくれ」
「はい、御祖母様」
引き出しから香風が取り出した巻物を、オトは機敏な動作で広げた。
未だ大河以北を領有していた頃の【栄】が国家事業として作成した、大陸全図だ。
北方、中原、南方、西方……勢力範囲なのだろう、各地に色が塗られている。
「こいつは……」「そんな……」「ふ~ん……」
俺と白玲が呻き、瑠璃は目を細める。女傑も険しい顔だ。
「『敬陽』に向かわせた間者とは連絡が途絶しているんだがね、『臨京』とは連絡がついた。此方の手紙は届けられたんだが……警備が厳し過ぎて王家の娘とは直接接触出来なかったそうだ。都は殺伐としているようだよ」
『う~!!!! 隻影様ぁぁぁっ!!!!!』
子供のようにむくれる麒麟児様の顔が浮かんだ。
新進気鋭の大商家である明鈴の父、王仁は先取りの気風を持つ、と評される。
時局を見れば……愛娘が張家に肩入れするのは、座視し難いのだろう。
机の賽子を手に取り、瑠璃が絵図上の敬陽周辺と大河以南に並べていく。
「まず『湖洲』。次いで隣接する『安州』は理解出来るわ。だけど……この短期間に『平州』まで、【玄】に占領されたっていうわけ? 主力は動いていないんでしょう??」
――【白鬼】と【張護国】。
稀代の英傑同士が直接ぶつかった『敬陽会戦』は、互いの軍に大打撃を与えた。
名将、智将、勇将、綺羅星の如くな【玄】と謂えど、それは無視出来ない筈だ。
香風が指で大河沿いを叩いた。
「瑠璃の言う通り……『平州』を奪ったの西冬軍だ。主力は敬陽で、消耗した人馬を回復させているようだね。率いているのは『千算』のハショ」
忘れ得ぬ――かつての友邦【西冬】が首府『蘭陽』で行われた決戦。
彼の地で全ての計略を企てたと伝え聞く軍師が西冬軍と共に蠢動している、か。
敵軍主力が出てきていないってことは……。
香風が耐え切れなくなったように、拳で机を叩いた。
「謂わば――【張護国】と『鬼礼厳』、散った張家軍の勇士達は死してなお! このどうしようもない国を護り続けているのさっ! 都の愚帝様がそれを理解しているかは知らないがねっ‼」
無謀な西冬侵攻を言い出し、玄軍が敬陽へ押し寄せた際に援軍を一兵たりとも寄越さず、あろうことか【張護国】を殺した――栄皇帝。
長年に亘り西域を鎮護し、忠臣を輩出してきた宇家の現当主代行ですら、不信を隠そうともしない。他家は推して知るべし。
「だけど、それにも限りはあるわ」
膝上の黒猫を撫でながら、瑠璃が冷たい声で断言した。
青帽子を外し、自然な動作で俺の膝へ載せながら、淡々と戦況を分析する。
「張家軍と張泰嵐様は、玄の誇る『赤狼』『灰狼』『金狼』『銀狼』を次々と討った。だけど……『白鬼』アダイ・ダダの帷幕には数多の猛将、勇将、智将がいる。決戦で損耗した兵もこの半年で補充を終えた筈よ。何時、南征が再開されてもおかしくはない」
断言するが、親父殿も俺達も、張家軍も友軍も、各戦場でこれ以上ない程に勇戦した。
それでもなお――。
アダイの本陣に迫った親父殿を止めた、玄軍最強の【黒狼】ギセン。
見たこともない馬上短火槍によって、親父殿を負傷させた【白狼】。
戦歴だけならば、礼厳すら超える老元帥に、北方大草原で武勲を立てた若き狼達が、アダイの手には残っている。金髪を指で弄り、瑠璃が目を瞑った。
「威力偵察の先軍に圧倒されているのに……練度、士気で懸絶し、【白鬼】が直接指揮する玄軍本隊に勝てるとは思えないわ。水塞群と大水塞が健在だろうと、結果は変わらないでしょうね」
「……全面的に同意するよ」
白髪の女傑は重々しく腕を組んだ。
『お前に倒せない将がいないように、私に落とせない城はない!』
前世の酒席で、酔った【王英】はそう豪語していた。事実でもあった。
そして、俺が見た所――アダイの才は英風に匹敵するか、凌駕している。
絵図へ目を落とし、呻く。
「南域が離反しているってことは……飛鷹の奴が叛乱を起こした、ってのは本当だったのかよ。あいつ、何が考えていやがるんだ?」
――実父【鳳翼】徐秀鳳の死と冤罪による投獄。
あの実直そうな青年が、過酷な日々を送ったことは想像に難くない。
だが、世間で噂される『老宰相暗殺の実行犯』や、叛乱を起こすなんて大それたことが出来るとも思えないのだ。いったい何が……。
オトヘ新しい茶を注がせながら、香風が手を大袈裟に振った。
「人は変わるものだよ、張隻影。徐家の長子は苛烈極まる戦場と、自らの失策で多くの者達が負け戦を経験し……父親に冤罪まで被せられたんだ。恨みに支配されたっておかしくないだろう?」
「……確かに、そうなんだが」
ざらついた違和感を言葉に出来ない。情報もまるで足りない。
隣から細い手が伸び、絵図に触れた。
「現状の結論はもう出ていると思います」
全員の視線が白玲に集中する。
数々の戦場を潜り抜けた結果、初陣から僅か一年足らずで、うちのお姫様は『張』の姓に相応しい将になりつつある。誇らしくはあるが……良いかどうかは分からない。
銀髪の少女は各地域の賽子を指で叩いた。
「十州の内、三州が占領され、南域も離反。私達がいる西域を除くとしても、半年で【栄】の領域はほぼ半減しました。しかも、軍を北と南に二分している。……これではもう」
絵図に書き込まれた栄軍は約十万。
その殆どは戦場を知らない者達だろうし、北から迫る玄軍と南の徐家軍とに対応する為、軍を二分している。白玲の言う通り、勝機はまずない。
肘をつき、宇香風が賽子を手にした。
「そこでさ――あんた達の意見を聞きたいんだ。【栄】を助けるのか。この地に籠るのか」
『…………』
先日――都から『鷹閣』へ使者がやって来て、高慢な態度で会談を要求した、との話は耳にしていた。今現在、誰が【栄】の差配を行っているかは不思議と聞こえてこないが、救援がなければ、大水塞とて持ち堪えてられないのは分かっているだろう。
そして……徐家が叛乱を起こした以上、頼れるのは宇家しか存在しない。
女傑の表情に陰が落ち、握り締められた賽子が軋んだ。
「私はね……動く必要のない時に動いた挙句、息子と徐家の坊、泰嵐坊と礼厳が死ぬ切っ掛けを作った栄の愚帝を信じちゃいないっ。あの馬鹿が、西冬侵攻なんてことを言い出さなければ、こんなことにはっっ」
血を吐くかのような告白。
俺達の目の前にいる老女は、愛する者達を愚帝の大失策によって喪った人物なのだ。
白玲が俺の袖を強く握り締めてきたので、手を重ねてやる。
俺が生涯を懸けて守るべき少女の手は冷たく、震えていた。
「だがね……北の馬人共に故国を蹂躙させるのも真っ平なんだ。援軍を中原に派遣するのは無理だが、落ち延びて来るのなら受け入れても良いと思っている」
香風が賽子を空中に投げ、手に取った。
硯から筆を取り、州北東の地に丸を付ける。
「西域は四方を峻険な山脈に囲まれているからね。軍の侵攻に使えるまともな街道は峻険な『鷹閣』を抜けるもののみ。防戦に徹すれば、大軍相手でも相当持ち堪える自信はある」
「玄軍もこっちには来ないでしょうね」
話を聞いていた瑠璃が、説明を補足する。
「アダイは無駄な損耗を嫌っているわ。軍を分けるとは思わない。攻めて来るとしたら、『臨京』が陥落した後よ」
「瑠璃さんに同意します」「私もです」
白玲とオトが即座に賛同した。
『鷹閣』は俺達も通ったが、城砦は堅固で老将が率いる守備隊の士気も高かった。
真正面からの攻撃ならば、突破を許すとは思わないんだが……。
「隻影、あんたの意見はどうだい?」
「……ほぼ同意見なんだが」
婆さんの問いかけを受け俺は口を開き、鷹閣近郊、無数の崖が描かれた地から、『武徳』北方まで指を滑らせた。
「『鷹閣』を迂回されるとまずいな」
千年前の俺はそうやって、当時この地にあった【丁】という国を落とした。
英風と組んだのは、あの作戦が最後だったな。
「……迂回、ですか?」
「そいつは無理な話だよ。『【皇英】の千崖越え』は私も知っちゃいるが、肝心の路は誰も知らない。鹿だって、落ちて死ぬ場所なんだ」
朧気な記憶は、不思議そうなオトと呆れ半分な香風の声によって霧散した。
現地を知っていれば知っている程、『無理』と判断するのだろう。
対して、白玲と瑠璃は真剣に考え込む。
「いえ、玄軍は人跡未踏の七曲山脈すらも踏破しています。可能性はあります」
「私達に兵を割く余裕はないわよ? 『武徳』前の古橋前で迎撃する位しか手は……」
「分かってる。何もかもが足りないからな」
両手を掲げて、俺は目を瞑る。
アダイが西域に軍を進めるとは思わない。
『自軍の全力を以て、敵の分軍を討つべし』
戦場の原理は千年経とうが不変だ。あの【白鬼】も理を篤く信奉している筈。その点で瑠璃の見立ては正しい。
――が、戦場では時に奇怪なことも起こるのだ。
万が一攻めて来た場合は、俺が時間を稼ぐしかない、か。
女傑が額に手をやり、嘆息した。
「……長生きはするもんじゃないね」
「長生きしてくれ。あんたが今死んだら、オトと博文が大変だ」
「ちっ、分かっているよ。本当に、泰嵐坊や礼厳にそっくりだね、あんたは」
舌打ちし、宇香風はその場で立ち上がった。
窓の外を見つめる。
「とにかく御苦労だった。当面はゆっくりと身体と心を癒しておくれ」
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