夕闇の少女
「姫様、急ぎませんと。陽が落ちる前に皇宮へ入れねば、騒ぎになってしまいます」
「……分かっているわ、芽衣」
夕刻前に臨京の外れの水路へと辿り着いた私は、焦る親友へ答えました。
私は皇族であっても何の権限もない小身に過ぎません。これからいったいどうすれば。
考え続けながらも年上の親友に手を引かれ小舟を降り、整備された岸へ。
ここから皇宮まではかなり距離があります。急がないと。
気を何とか取り直し周囲を見渡すと、私達が乗って来た小舟とは別の、やや大きな舟が郊外へ出て行く所でした。船上には大きな荷物を持ち泣いている女子供が多く、岸や近くの小橋で見送る大半は男と老年ばかり。
……夜間の航行は禁止な筈。もう陽が落ちるのに今から船を?
しかも、あの悲愴感や恐怖しかない目は。
「美雨様?」
「芽衣、あの船に乗っているのはどういった人達なのかしら?」
親友が怪訝そうに私の顔を覗き込みました。
ちらり、と確認し見解を示してくれます。
「御存知の通り、都は船の往来が大変多ございます。出航遅れの一艘かと」
「……そうかしら」
納得がいきません。
舟が見えなくなると、群衆はすぐに散り始めましたが、小橋で話し込む外套姿の少女と女性が目に留まりました。少女は手に紙袋を持っています。
「え? 美雨様?」
衝動に突き動かされ芽衣の手を引き、少女達に近づき声をかけます。
「もし、すいません」
橙色の帽子を被り、栗茶髪を二つ結びにした、豊かな胸でありながら私よりも小柄な少女が振り返りました。後方の、長い黒髪で白と黒基調の服が良く似合う長身の美女も怪訝そうにしています。
小柄な少女が小首を傾げ、私を見つめました。
「ん~? 私ですかぁ?」
「はい。いきなり不躾な質問なのですが……先程の小舟に乗っていた方々は何処へ行かれるのでしょう? 知っていたら御教え願いませんか? お願いします、この通りです」
「! ひ、姫……美雨御嬢様っ⁉」
私は自然と頭を深々と下げていました。芽衣の焦る声が耳朶を打ちます。
皇族の礼儀作法としては異例かもしれません。
けれど――どうしても、知らなければならない。そう思ったのです。
「
黒髪の美女を少女が押さえるのが聴こえました。軽く肩を叩かれます。
「いいですよ。けど……取り合えず顔を上げてください。話し難いです」
「あ、ありがとうございます」
ゆっくりと顔を上げると、明鈴と呼ばれた少女は紙袋から美味しそうな饅頭を取り出し、一口齧りました。
「――はぁ、美味しい。あの子の饅頭が食べられなくなるのは大損失ですね~。あ、あの人達は避難したんですよ。怖い怖い【白鬼】が都へやって来る前に」
「「えっ⁉」」
何でもないかのような口調で告げられた事実に、私と芽衣は言葉を喪ってしまいます。
都から……史上でも空前の繁栄を誇る栄の首府から、民達がもう逃げ出している? しかも、その理由が【白鬼】がやって来るから?? 多くの者達はこの国をもう見限って???
私達が混乱する中、明鈴は饅頭を気持ちの良いくらい豪快に食べ終え、指を舐めました。
――瞳にあるのは、信じられない位に深い知啓の光。
「大陸を南北に貫く大運河の連結点にあった『敬陽』を喪ったことで、臨京は『水の利』を大きく損ないました――致命的な程にです。宰相代理様に副宰相様、廟堂の方々はまだ気づいていないみたいですけど」
「明鈴御嬢様、水もお飲みください」
静と呼ばれた女性が白布で少女の指を拭い、竹筒を渡しました。
隣の芽衣が私へ囁きます。「(……気を付けてください。凄まじい手練れです)」。
少女は水を飲み干すや小橋の欄干に腰かけ、足をぶらぶら。
「『馬車よりも船の方が荷をより多く積める』。この単純かつ強大な原理故に、今日まで『臨京』は繁栄を謳歌してきました。ですが、それももう終わりですね」
「終わり……?」
明鈴の言葉を繰り返し、私は呆然としてしまいます。
この少女のことを私は何一つとして知りません。
ですが……その言葉の端々に、希望的観測に縋る皇宮ではなく、現実を冷徹に観察しながら都で生きる者の、確かな『血』が流れていることは感じ取れました。
陽が完全に落ち、闇が帳を広げ始めると、すぐ都の到る所に設置されている街灯や提灯に灯りがともされていきます。何度手見ても幻想的な光景です。
紙袋が宙を飛び、黒髪の美女へ投げ渡されます。
「静も食べて。美味しいわよ」
「明鈴御嬢様、はしたないです」
なんなく紙袋を受け取った美女の小言に、明鈴は手をひらひら。
――双眸が私へ戻ってきました。
「大運河からの物資供給はこの半年で激減しました。結果――物価は高止まり。治安も急速に悪化し、異国の船も着実に減っています。減った税収を確保する為、塩税を上げたのは大愚策でしたね。老宰相様はあれ程、塩賊対策に心血を注がれていたのに。結果、南方では、活動を再開した塩賊達の間に得体の知れない邪教も流行り始めているとか?」
「「…………」」
無意識に恐怖を覚え、芽衣の袖を強く掴んでしまいます。
目の前の少女は、廟堂に居並ぶ誰よりも……皇帝でありながら現実に耐えきれなくなり、寵姫と過ごす時間が増え続けている兄よりも、この国の実情を理解している。
黒髪の美女に「そのような場所に座ってはいけません。隻影様へご報告しますよ」と注意され、明鈴は舌を小さく出し小橋へ飛び降りました。……『隻影』?
橙帽子を直した少女が私とはっきり目を合わせ、淡々と結論を示します。
「きっと【白鬼】は自分の兵に『臨京』を攻めさせる必要性すらありません。だって、封鎖していれば勝手に自壊するんですから。そこに加えて……張泰嵐様の理不尽な処刑を、都の人々は忘れていません。【白鬼】は自分の心胆を寒からしめた救国の名将の死を大いに嘆き、敬意を払って『敬陽』へと入城しなかった、とも聞いています。……いいですか、何処かのお姫様? 人々は『アダイ・ダダは張泰嵐の死を嘆いた』という事実をもう知っているんです。たとえそれが演技であったとしても、張泰嵐様の御遺体を晒し辱めた皇帝陛下への不信は拭い難い、と私は思います。だから、逃げられる人から逃げているんですよ」
「……っ」「……美雨様」
思いっきり、頬を叩かれたような衝撃を受け、私は身体をよろめかせました。
『人心の離れた王朝に、生き残りの路無し』
かの千年前の
芽衣に支えられながら、明鈴と視線を合わせます。
「貴女はいったい――……いえ、聞いても仕方ないことですね。御教授、大変有難うございました」
再び市井の
顔を上げて受けとり、私は目を瞬かせます。
「こうして話したのも何がしかの縁です。私の……今は遠くにいる最愛の旦那様ならば、きっとそう言われます! 私、こう見えて愛する殿方に影響される女なんです♪ それではまた何処かで、美雨姫様☆」
明鈴は薄らと染まる頬に両手の指を当て、黒髪の美女と共に小橋を渡って歩いて行きました。私は紙袋を片手で抱きしめ、今の言葉を反芻します。
廟堂内の認識と、市井の人々の認識との大きな乖離を知ることの出来た――『縁』。
私はこれを活かさないといけない。
私の名前は光美雨。栄帝国皇帝の妹なのだから。
「美雨様」「芽衣」
年上の親友の憂いを帯びた瞳を見上げます。
……巻き込んでしまう申し訳なさを覚えながら。
「近く兄上に諫言するわ。『臨京』を、【栄】を守り抜く覚悟があるのなら――」
祝い事でもあったのか、後方から十数の花火が上がりました。
それは美しく――とても儚い。息を吸い、決意を伝えます。
「絶対に援軍が必要よ。徐家は無理にしても、使者を無事に帰してくれた宇家ならば、私自身が出向けば交渉の可能性はあるかもしれないわ。それが……それこそが、忠誠無比なる【張護国】を愚かにも殺してしまった、我が一族の責務だと思うの」
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