序章 中

「ここらで良いか」


 幼い頃、親友達と共に駆け巡った秘密の獣道を抜け、目的地に辿り着いた私は、幾重もの包囲網を突破し疲労困憊な様子の馬を止めた。空は既に白み始めている。

 目の前には、崖そのものを飲みこむように育った桃の巨木と苔むした巨岩。

轟々と複数の滝の落ちる音が聴こえてくる。

 二十年ぶりにやって来た煌帝国始まりの地――先帝、私、英風が『天下を取ろう!』と誓った老桃は何一つとして変わっていなかった。その永き寿命と共に崇敬の対象である、一年中咲き誇る淡い紅花が、微かな朝陽の中で幻想的な光景を作り出している。

 あの頃、私達に怖いものなどなにもなかった。ただ大きな夢だけがあった。

 ……今となってはひたすらに懐かしい。

 馬から降りて鞍を外し、首筋を優しく抱きしめてやりながら声をかける。


「ありがとう。本当に助かった。もう行け。残ればお前にも害が及んでしまう」


 すると、賢馬は目を細め申し訳なさそうに嘶き、獣道を戻って行った。

 私は馬を見送り、背嚢を置いて巨木の前に佇んだ。既に矢筒は空で、槍も折れた。

 瞬く北の双星と沈みかけている月の位置、地平線の朝陽からして、夜明けは間近だ。

 追っ手も追いついて来るだろう。

 それにしても――。


「此処だけは変わらぬな」


 桃の木の寿命は短い。

 にもかかわらず……枯れることなく、伝承によれば千年の間この地にあり続けている。

 『老桃』という地名となったのも納得だ。

 ――暫くして、風が新しい土の匂いを運んで来た。

視線をかつてよりも広い山道へと向ける。


「……来たか」


 朝靄の中、楯兵を先頭に兵士達が前進して来る。

 その数――ざっと千。 

 帝国の最精鋭部隊を、たった一人の元将軍相手に投入するとは……御大層なことだ。

 顎に触れながら、馬に乗って中央を進む若い女将軍を一喝する。


「そこで止まれっ! それ以上進めば――今度は死者が出ようぞっ‼」


 先頭の戦列が慄いたように停止した。兵士達の顔には緊張が張り付いている。この地に来るまでの間に出た多数の負傷者を見てきたのだろう。……やはり、実戦経験不足か。

 それでも、派手な兜を被った女将軍が指揮棒を振り回し叫ぶと、ゆっくりと前進が再開。滝の音に遮られ聞こえないが、『臆するな!』とでも言っているのだろう。

 先帝自身が率いた古参親衛隊も解体されて久しい。私が数多の戦場で今まで何を為してきたのか、実際に知らぬ者も増えたようだ。


「……歳は取りたくないものだ。まだまだ、若いつもりだったのだが」


 苦笑していると、やや離れた場所で、崖上の私を囲むように布陣が完成した。


「芸がない。もう少し工夫があってもよいだろうに。しかし、困ったな」


 手持ちの武器は腰に提げている双剣のみ。

 これを、仮にも味方相手に抜くわけにもいかないのだが……軍旗の傍にいる若い将が剣を抜き放った。


「最早奴に逃げ道も、矢もないっ! 突撃し、逆賊を討てっ‼」

『…………っ』


 戦列内の兵達や下級指揮官達の顔に戸惑いが浮かび、声なき声となった。

 古参兵と分かる者に到っては、露骨に嫌そうにしている。

 このまま私と戦った場合、自分達がどういう目にあうのかを、理解しているのだ。

 女将軍が苛立たしそうに指揮棒を振り回し、怒号を発した。


「何をしているっ!!!!! 奴を――『逆賊』皇英峰コウエイホウを討つべしっ!!!!! こ

れは、皇帝陛下の勅命であるっ!!!!!」


 今夜、幾度も聞いた文言に胸が痛む。英風の懐刀までこう言うとなると、陛下はやはりそれ程までに私を憎んで――躊躇っていた兵の一部が山道を猛然と駆け上って来る。

 私は半瞬だけ瞑目し、右手を黒剣の柄へと持っていき、


「覚悟――っ!?!!」『!』


 真っ先に駆け上って来た兵が剣を上段に構えて振り下ろす前に、胴鎧へ蹴りを叩きこんだ。兵士は悶絶し近くの兵士達も巻き込み、山道を転げ落ちていく。

 その横から兵が殺到して来るが、


「――気をしっかり保てよ?」

『~~~~~~っ!?!!!』


 鞘に納まったままの黒剣の横薙ぎを躱しきれず、十数名が悲鳴をあげて空中高くまで吹き飛ばされ、次々と地面に叩きつけられた。悲鳴と苦鳴、恐怖の呻きが連鎖する。

 後に続く兵士達が驚愕し足を止めたのを見やりつつ、静かに忠告する。


「……人を待っている。死にたくなければ向かって来るな。殺したくはないのだ」


 兵士達の瞳が激しく揺れ、後退る者多数。

 数少ない古参兵達の中には見知った顔も多く、そういう者程、顔面を蒼く染めている。


「何をしているっ! 奴が虎や龍のように強かろうが――独り。たった独りなのだっ!!! 帝国と皇帝陛下に仇なす者を討てっ!!!! 討つのだっ!!!!!」


 女将軍もまた顔を蒼褪めさせながら兵を鼓舞。余程私を殺したいらしい。

いや――奴隷身分から将まで引き上げてくれた主である、『英風エイフウの手を汚させない』という忠誠故か。

 黒剣を握り締め、犬歯を見せる。

「では……致し方ない。我が首取って、末代までの誉と」


「待てっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 獣道から、優男が不格好に駆る馬が飛び出してきた。

 白髪混じりの髪はぼさぼさ。外套も薄汚れている。

 兜下の女将軍の顔が激しく動揺し、悲鳴をあげた。


「か、閣下⁉ ど、どうして、此処に……」

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