名将 上

「やばいっ! やばいっ‼ やばいっ!!!」


 翌朝。

 俺は屋敷の廊下を全力で駆けていた。外から、民衆の歓声と馬の嘶きが聞こえてくる。

 親父殿――エイ帝国の防衛を一身に背負っている名将、張泰嵐チョウタイラン敬陽ケイヨウに帰還したのだ。

 居候の俺が寝過ごして出迎えないのは、非常にまずい!


「し、しかも、こういう日に限って白玲は起こしに来ないし……昨日の仕返しか⁉」


 悪態を呟きながらとにかく急ぐ。

 親父殿の趣味に合わせ頑丈に作られている廊下を駆け抜け、質素な玄関前に辿り着くと、軍装の礼厳ライゲンがそわそわした様子で待っていた。


「若! お早く、お早く‼ 皆、既に整列しております!!!」

「お、おうっ!」


 爺に頷き、急いで屋敷の外へ。

 すると――正門前で張家に仕えてくれている者達が整列していた。

 皆、緊張しつつも高揚が見て取れる。

 前線の実情を知らない臨京にいる連中はともかく、湖洲に住む者で、【玄】の侵攻を防ぎ続けている親父殿に感謝しない者はいないのだ。

 誇らしく思いながら、俺も淡い翠を基調した礼服の白玲ハクレイの隣にそそくさと立つ。今日は白と蒼の髪紐で銀髪を結い、花飾りも前髪に着けている。

 少女はちらりと俺を見て、冷たく一言。


「……遅い」

「お、お前が起こしに来ないからだろ」

「…………はぁ」

「な、なんだよ」


 溜め息を吐いた銀髪の美少女の手が伸びてきて、細い指で黒髪を梳いてきた。

 張家に仕えている人達はともかく、警護の兵達の視線が集まり、恥ずかしい。


「お、おい」

「動かないで。……寝癖、みっともないです。枕元に礼服の用意もしておいたのに、普段通りの服を着て来るなんて……」

 

 有無を言わさず、白玲は俺の寝癖を直していく。

 ……起こさなかったのは、まさかこれを人前でする為に⁉

 爺を始め、使用人達の『仲がおよろしくて、大変結構ですね♪』という生温かい視線に耐えていると、屋敷の正門前に黒い馬が止まった。

 降り立ったのは、厳めしい顔と見事な黒髭、巨躯が印象的な偉丈夫。

 腰に無骨な剣を提げ、身体には傷だらけの鎧を身に着けている。

 【護国ごこく】の異名を持つ、字義通り栄帝国の守護神――張泰嵐だ。

 七年前、【ゲン】の先代皇帝が生涯最後に行った大侵攻を不屈の闘志で凌ぎきった名将。

 白玲の実父であり、俺を戦場で拾い、育ててくれた大恩人でもある。

 親父殿は従兵に「頼むぞ!」と馬を預け、門を潜り抜けて大股で屋敷内に入って来た。

 すぐさま俺達に気付き、名を呼んでくれる。


「おお! 白玲! 隻影!」


 少女は俺をようやく解放し、向き直ると優雅な動作で一礼した。


「――父上、御無事の帰還、おめでとう、きゃっ」


 最後まで言い終わる前に、親父殿は丸太のような両腕で娘を軽々と抱き上げた。

 厳めしい顔を崩し、大声で笑う。


「はっはっはっ! また少し背が伸びたのではないか? 小さい頃のお前は食も細く、何時まで経っても背が伸びず、亡き妻と一緒に、夜な夜な心配したものだったが……。うむうむ! 上々上々。やはり、隻影が帰って来たからか!」

「ち、父上。み、皆が見ていますっ!」


 堪らず、白玲が抗議した。

 親父殿は愛娘を地面に降ろし、手を頭に置いて謝罪。


「うむ? おっと、すまんすまん。どうにも癖でな。許せ!」

「…………」


 白玲は恥ずかしそうにしながら黙り込み、すぐ俺を睨んできた。助けなかったのが不満らしい。爺にも視線で促されたので、口を挟む。


「親父殿、前線よりの帰還おめでとうございます」

「うむ! 臨京と義姉上はどうであった?」


 愛娘を解放した名将は髭をしごきながら、簡潔に尋ねてきた。

 白玲が俺の後ろに回り込み「……遅い」と囁いてくる。後が怖い。


「叔母殿にはしごかれました。都市も栄えてはいましたね。……ただ」

「ただ?」


 当代随一の名将の視線が俺を貫く。

 ――その何でも見通す瞳は、煌帝国初代皇帝に少しだけ似ている。


「いえ。どうやら、俺には敬陽の方が性に合っているようです」


 親父殿はそれを聞いて破顔。

 近づいて来て、俺の肩を大きな手で何度も叩いた。


「はっはっはっ! そうか、そうかっ‼ 明日以降は混み合った話を諸将とせねばならん。その前に土産話を聞かせてくれ。――礼厳、息災か?」

「はっ! 殿。御無事の御帰還、何よりでございます」

「なに、城に籠って睨み合っていただけよ。玄の皇帝は恐ろしく慎重で有能な男だ。七年前、先代皇帝が急死した折、全軍を指揮し追撃する我等を、見事な指揮で押し留めてみせた。あの時が十五。しかも、初陣であったという。この七年で更に成長しておろう。――どうにか、都から増援を引き出せねばなるまい」


 俺達から離れ、親父殿は爺や皆と言葉を交わしていく。

 どうにかこれで――白玲に裾が引っぱられた。

 長い付き合いなので理解する。『昨日の遠駆けの話!』。……約束だしな。

 皆からの歓迎を受けている名将の大きな背に声をかける。


「あ~――……親父殿。お願いがあるのですが」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る