第61話 時は巡る

 ナオミたちが戻ってきたとき、双葉先生はまだ花の中に立ちつくしていた。

 先生はまだ迷っている風だったが、ナオミは吹っ切れたように言った。

「先生は未来に行って、霧島さんを救ってください。私はこの時代で先生たちの仕事に協力します」

「水城さん……」

「大丈夫です。先生がいなくなってもちゃんとクラスをまとめます。もう逃げません。友達がいなくたって平気です」

 それから、別れがどういう風に訪れたのか、記憶にない。

 気がついた時には、ナオミは温室の中で倒れていて、古瀬先生が心配そうに顔を覗きこんでいた。

「水城君」

 ナオミは身を起こし、辺りを見回した。

「双葉先生は?」

「さあ、午後の授業に行ってるんじゃないかな」

 あれ、と思った。

 何かがおかしい。

 双葉先生は未来の世界へ旅立ったはずじゃないのか。

「どうなったんですか? あの先生……それに、ここにあった……」

 若草先生とVOICEの秘密基地のことを尋ねようとしたけれど、うまく言葉に出せなかった。

 安易に口に出したりできないよう、未来の技術で封印されているのかもしれない。

「エレベータは消えていたよ」

 古瀬先生が残念そうに言った。

「僕らは取り残され組だな」

「でも、それじゃあ……」

 双葉先生は、未来へ行くのをあきらめたのだろうか。

 どうして?

 霧島さんは、無事なんだろうか?


 下駄箱へより、靴の中に入った梨乃からの手紙を取りだした。

 そこには小さな小さな字で、こう書かれていた。

『がんばって』

 こころにあの風景を見せてもらっていなかったら、誰かがからかって入れたに違いないと、気味悪く思っていたかもしれなかった。

あるいは梨乃が入れたと分かっても、腹をたてたかもしれなかった。自分からあんな悪口を言っておいて、何を今さら、と。

 でも、今では梨乃の気持ちがなんとなく理解できた。

 梨乃はナオミの悪口を言うつもりじゃなかったのだ。

 けれど、葵の意見に同調しないわけにはいかなかった。グループの中ではみ出し者で、どうにかして隅っこにしがみついているような梨乃としては。

 ナオミにだって思っていることを言えないような子なのだ。

 修学旅行をさぼるなんて冗談だよね? と笑いながら聞き返したりできないような気の弱い子。

 ナオミはポケットに手紙を押しこんだ。

 教室へ入ると、ちょうど五時限目が終わったところだった。

 陽菜たちが、ナオミの周りに集まってきた。

「どこ行ってたの?」

「ごめんなさい、心配かけて」

 ナオミは素直に謝った。

「ちょっとめまいがして、倒れちゃって」

「だいじょうぶ?」

 琴音が心配そうに尋ねた。

「もう大丈夫、ありがとう」

 ありがとう、という言葉には、ちょっとした魔法の力があるようだ。

 口にした途端、ほんの少しだけ、空気が少し和らいだ気がした。

 ナオミは勇気を得て、質問した。

「修学旅行の班決め、どうなった?」

「ナオミの入る班は、後でナオミと話し合って決めるって先生が言ってたよ。ほら、昨日のホームルームで、ナオミ、いなかったから……」

「そうなんだ」

「どこに入るつもり?」

 陽菜が尋ねた。

「うーん、どうしようかな。今から入れてくれる班があればいいけど」

 できるだけ何気ない風にいうと、陽菜も、できるだけ何気ない風に口にした。

「よかったら、うちらと一緒に回る?」

 ナオミは、ちょっと考えたふりをしてからうなずいた。

思わず頬がゆるんだ。

 よかった、ありがとう、こころさん。

 ナオミは霧島のいた席を見つめた。

 カバンもかかっておらず、机の中もからっぽの座席。

 霧島さんは、無事に未来へたどりついたのだろうか。後で双葉先生に聞いてみようと、ナオミは思った。


 放課後、ナオミは鞄を抱えて、双葉先生を追いかけた。

「先生……」

 双葉先生は、ナオミを史学準備室へ招きいれてくれた。

 右手にあった間仕切りは取り払われ、棚の中に陳列されていた奇妙な品々は、いつのまにか消えていた。

 ナオミは鞄の中から、あのノートを取りだした。

「ずっとお借りしていて、すみませんでした」

 ノートを机に置き、深々と頭を下げた。

 双葉先生は、ノートを取りあげ、しばらくの間じっと見つめていた。

「先生……」

 ナオミは感慨深げにノートを観ている双葉先生に、そっと声をかけた。

「先生は、どうしてこの学校に残ったんですか」

「あなた達を、もう少し見守っていたかったから」

 双葉先生が微笑んだ。

 そんな理由で。

 ナオミは呆気にとられる。

「水城さんなら、余計なお世話だというかもしれないわね。でも、私ももう一度、あなた達と修学旅行に行きたかったの」

 未来へ行ったはずの病気の留年生のことを尋ねようとして、ナオミはショックに打たれた。

 名前が出てこない。

 もどかしくて、腹立たしくて、哀しくて、ナオミはじだんだを踏みそうになった。

 こんな風に、いずれ何もかも忘れてしまうのだろうか。

「私……忘れたくないです」

 ナオミは絞りだすように言った。

「そのノートのことも、私のした体験のことも、あの人のことも」

 自分が将来救うはずになるであろう人のことを、ナオミは必死に思いだそうとした。

 名前が思いだせなくなっても、青い不思議なペンダントのことも、眠っていた時の静かな横顔も、まだ脳裡に焼きついていた。

「忘れないわ。記憶は消えても、思い出はどこかに残り続ける」

 双葉先生が答えた。

「あなたが自分の運命に巡り合うまで、心の底で眠っているだけ」

「先生の運命は、どうなんですか?」

 ナオミは尋ねた。

「もう会えなくてもいいんですか。未来の人たちに……あんなに先生を必要としてくれた人たちに」

 双葉先生は首を横に振った。

「あの人たちは、本当に素晴らしい人たちなのよ。私にはとても及ばないような」

「でも……」

 そんなに簡単にあきらめてしまえるものなのだろうか。

 四百年の時を超えた絆を。

 先生は遠くを見つめるようなまなざしをしていた。

「あの人たちはね、私たちには考えられないような奇跡を起こすの。心と、知恵と、信念で」


 双葉先生が退任するという話を聞いたのは、修学旅行が終わって二カ月ほどたってからのことだった。

 遠い外国へ引っ越しするという話で、生徒たちは口々に別れを惜しんでいた。

 メールしてね、とか、連絡先を教えてください、などと言っている生徒たちもいたけれど、ナオミは何も言わなかった。

 先生は、メールなど届かない、もっとずっと遠い世界へ行くのだ、と知っていたから。

 先生は、いや、あの人たちは、双葉先生が未来へ行く方法を見つけだしたに違いない。

 ナオミが行きたいと願った世界。ナオミの決して行くことのできないその世界。

けれどそれは、ナオミの心の奥深くに、しっかりと根を下ろし、これからの人生を支えてくれる。

 遠い未来の約束が、ナオミの進むべき道を示してくれる。

 しっかり勉強しなければ、と思う。自分に与えられた役割を果たせるように。

 新しい先生は、どんな人だろうか。

 ひょっとして、時空管理局のあの人――ナオミが思い出せなくなってしまった双葉先生の代わりに勤めたあの先生か。

 三学期のはじめ、新しくやってきた先生は、けれど、若草先生とはまるで違った。

それなのに、ナオミはどこか懐かしい気持ちになった。

 すらりとして背が高く、長い黒髪を背中になびかせていた。美しい、切れ長の瞳が印象的だ。

 そう、こころとよく似ている。

 けれど、何かが決定的に違っていた。

 見た目はよく似ているのに、正反対の印象さえ受ける。

 生徒達の感嘆の目を受けて、さっそうと部屋に入ってきた先生は、黒板に向きなおり、さらさらと自分の名前を書いた。


 浅海 瑠依


「あさなみ るいといいます。みなさん、一学期と一年間、よろしくお願いします」

 浅海先生は、クラスの中をぐるりと見わたし、謎めいた微笑を浮かべて、出席簿を手に取った。

「それでは、出席を取ります。天野さん……」

 先生の澄んだ声が、教室の中に響き渡った。


   了


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こころ 時を超えた絆 七瀬 晶(ななせ ひかる) @nanasehikaru

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