第60話 未来への架け橋

 ナオミは、黒い箱に乗り、こころと悟と三人で、不思議な空間から外へ出た。

 そこは、学校の中庭にある温室だった。

 温室を出、中庭から渡り廊下を通って校内へと入っていく。

 いつもの見慣れた学校に戻ってきたはずだが、どこか奇妙な感じだった。

 信じられないようなことが立て続けに起きたせいなのか、夢の中のように現実感がない。

 ちょうど今は昼休みらしく、生徒達が談笑しながら通り過ぎていく。けれど、ナオミたちが通り過ぎても、まるで目に入らないかのようだった。

 不思議な顔をしているナオミに、こころがそっと言った。

「今、あの子たちに私たちは見えていないわ。話しても大丈夫」

 自分が見られていないと分かって、ナオミも気楽な気持ちになった。

 こころに手をひかれて、ナオミは廊下を通り過ぎ、階段を上る。

悟はこころの隣で、静かな影のように歩みを合わせていた。

 やってきたのは、ナオミのクラス、201教室の前だった。

入り口から中を覗きこんだナオミは、ぎくりとして立ちすくんだ。

 琴音と帆花、陽菜の三人が、教室の中に腰を下ろしていた。

「どうしたんだろう。朝のホームルームの時にはいたよね、ナオミ」

 こちらに背を向けて座っている琴音の、心配そうな声が聞こえてきた。

「昨日も急にいなくなっちゃったじゃない。今朝来たからほっとしたんだけど」

「体調がよくないんじゃないの?」

 そう答えたのは、向かいに座っていた帆花だ。

「でも、保健室にもいなかったんだよ。おかしいよ」

「人嫌いなんだよ。昼休みもどっかにふらっと出ていくし」

「人嫌い……なのかなあ。はじめはうちらと食事してたじゃない?」

「そういえばそうか。いつから一緒に食べなくなったんだっけ?」

「裏ブログのことを知った辺りかなぁ」

 陽菜が、ぽつりとつぶやいた。

「裏ブログ……えぇっ、ナオミ、見てたんだ? あのブログ!」

 帆花がとんきょうな声をあげた。

「だって、誰かが言ってあげなくちゃって思ったんだよ。ナオミ、全然気づかなかったじゃない。みんなを不快にさせてたことも。だけど、ナオミに面と向かって言える勇気のある人なんて、うちのクラスにいないんだし……」

「ばか、ばか。なんてことするんだよ」

 帆花が頭を抱えた。

「だって、クラスメートなのに知らせないって、それこそいじめみたいじゃない」

「いいじゃん、別に。向こうはこっちに溶けこむ気なんてなかったんだから」

「そうかなあ。たしかに、今思えば教えなければよかったのかもしれないけど……ナオミがあれを見たら、反省するか、ムキになって反論してくるかなって思ってた。でも、本気で落ち込んじゃったのかも……」

「あれ、読んでたんだぁ」

 琴音がため息をついた。

「チョーうざいなんて書かれたら、へこむよね」

「あれ書いたの、私じゃないよ」

 帆花は口をとがらせた。

「じゃあ、誰が書いたの?」

「さあ、葵じゃないの? まあ、私もちょっとイラついてたから、つい乗っちゃったとこもあるけどさ」

「文化祭のとき、文句を書きこんだのは帆花だよね?」

「だってあれはさ、ちょっとひどかったと思わない? 文化祭の時、ナオミ、志保にひどいこと言ったんだよ。お茶をこぼしたのはたしかだけど、お客さんの前で、あんなにひどく叱らなくたって……」

 それから三人はしばらく黙りこんだ。

 ナオミはその様子を、息を潜めたまま見守っていた。

 私は志保を傷つけたんだろうか。 

 何を言ったのか、思いだそうとしたけれど、正確なところは思いだせなかった。

 あの時は、本当にいっぱいいっぱいだった。お菓子は調達できず、人出は足りず、誰も自分から手伝ってくれようとしなくて、まるで孤軍奮闘しているみたいだった。

 どうすればよかったのだろう。

 きっと自分に能力がなかったんだろう。

 みんなに喜んでほしかったのに。みんなの役に立ちたかったのに。

 ナオミは目を閉じた。

 唇を噛みしめ、ぎゅっと手を握りしめた。

 こころがそっとその手を握り返してきた。ナオミの気持ちを受け止めるように。

 しばらくして、琴音が言った。

「だけど。ナオミが音頭をとってくれなかったら、うちらのクラス、文化祭の出し物すら決められなかったかもね。委員だって、誰もやりたがらなかったよ」

 陽菜が小さくうなずいた。

「みんな、忙しいもんね。この時期は、受験勉強のほうが大事だし」

「一番よく働いてたよね。毎日毎日、遅くまで」

 琴音の言葉に、ちょっと泣きそうになって、ナオミはこころの手を握りしめたまま、心の中でつぶやいた。

 ごめんね、ありがとう、ありがとう。

 ふいに、琴音が勢いよく立ち上がった。

「私、先生に相談してくる」

「相談って? まさか、裏ブログのこと、先生に話すつもりじゃないよね」

「だけど……このままじゃ気持ち悪いし。せめて、ナオミがどこにいるのか確かめないと。何かあってからじゃ遅いよ」

「え、何かって、何……?」

「待って、私も行く」

 陽菜が言って、席から立ち上がる。

「帆花は?」

 帆花が小さく首を横に振った。

「すぐ戻ってくるね」

 後には帆花が一人、残された。

 ナオミは、ふと、何かが流れこんでくるように感じた。

――どうしてこうなるの?

――私はただ。

――私は悪くない、悪くない、悪くない……

 ああ、これは帆花の感じていることだ、と、ナオミは気づく。こころが感じとった帆花の感情が、ナオミの中に流れこんでくる。

 どこか気まずい風なその感情を、ナオミは帆花と一緒に噛みしめる。

――悪いのは向こうだもの。

――向こうが、初めに……だけど……

 帆花が鞄を探り、携帯を取りだした。

――あのブログ、閉鎖しよう……

 それから、ナオミはこころに手を引かれて教室を出た。


 次にやってきたのは、校舎の入り口だった。

 校庭のほうから、葵のグループが歩いてくるのを目にして、ナオミは胃がきゅっと縮まるのを感じた。

 下駄箱のところで靴をはきかえながら、由美子が靴箱を見上げて言った。

「まだ学校にいるんだね」

「誰?」

「水城さん」

「ああ」

 罪悪感のようなものが、一瞬流れこんで、消えた。

――知らないよ、自業自得じゃん。

怒りの感情に置き換わる。まるで言い訳するみたいに。

――どこに行ったんだろう、あいつ。

――ほんと、鬱陶しい奴だよね! いてもいなくても。

 葵が自分のことを思いだすのを、ナオミは不思議な気持ちで受け止めた。

 自分に対して攻撃的な葵の感覚は、棘のように突き刺さってきて苦しい。

けれど、どうやらナオミをただ嫌っているだけでもなさそうだった。そこにはどこか、甘えのようなもの、自分が関心を持っているのに決して自分の思い通りにならない相手に対する、苛立ちや嫉妬のようなものも混じっているようだった。

 中学時代に苦しめられた、キツネのことを思いだした。

 自分にすりよってきたキツネがナオミを無視し始めた、あの時も、ひょっとしたらこんな風だったのじゃないか。

「案外、午後にはけろっと教室に戻ってくるんじゃないの」

 葵は肩をすくめる。

「かもね」

「そうだよ」

 口々に言いかわしながら、葵たちはナオミたちの脇をすり抜け、階段へ向かったが、ただ一人、梨乃だけは靴をはきかえても、まだもたもたしていた。

――どうしよう。

――見つかっちゃったら。

――でも、でも……

 不安げに、靴箱の向こうを窺うようにする。

 葵たちは、梨乃がいなくなったことにさえ、気づく様子がない。

 梨乃は、ブレザーのポケットから何か取りだし、ナオミの靴箱の中に押しこんだ。

 それから、たたっと階段のほうへと駆けていった。

 ナオミは靴箱を覗きこもうとしたけれど、こころは、

「それは後でね」

そう言って、ナオミの手を引いた。

校庭の脇を通って、中庭まで戻ってくると、ナオミはつぶやいた。

「こころさん、みんなの気持ちを見せてくれてありがとう」

 教室での居心地を悪くさせていた、正体の見えない悪意への恐怖が、いつのまにか消えていた。

 結局自分は、幻に怯えていただけだ。

 自分の犯した小さな間違いや、羨望や、誤解でできあがっていた幻に。

「でも、やっぱり分かりません。私がこの時代に残らなければならない理由なんて、あるんでしょうか」

 こころがちらりと、悟のほうを見た。

 悟がうなずいた。

 こころはナオミの目を見て、ゆっくりと言った。

「水城さん……あなたはこの先、大人になって、大きな発見をするの」

 発見?

 ナオミは戸惑った。

 私が何を発見するというのだろう。

「詳しいことは言えない。でも……みんなの役に立つような。歴史に残る、とても素晴らしい仕事をする」

「素晴らしい仕事を……私が?」

 悟が後を引き取った。

「その発見が霧島君を救う」

 ナオミは思わず息を飲んだ。

 そして、心の中で、その言葉を繰り返した。

 私の発見すること、私が将来なし遂げる仕事が、霧島さんを救う――

 心臓が、とくんと音をたてた。

 私が、霧島さんの命を救うような発見をする。

 私がいなくなると、未来が変わってしまう。だから私は未来へ行けない……

 ようやくパズルのピースが埋まった。

 信じられない。私がそんな大きな何かを、未来に影響を与えるような大きな仕事をなし遂げるなんて。

 それに、やっぱり辛い、苦しい。

 霧島さんと別れたくない。

 それでも、私たちはつながっているんだ。

 四百年の時を超えて。

「無駄なものなんてひとつもない。何百年も、何千年も、何万年も昔から、僕らはずっとつながっている」

 悟はつぶやいた。

「今の君たちがいるお蔭で、僕らがいる」

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