第39話 心の重さ

 身近な人の死というものに、ナオミは対面したことがなかった。

 だから、それがどれくらい辛いものかは分からない。

 パパやママが死ぬところは想像したくない、と思う。

 けれど、このところ時々考えることがある。

 いっそ事故か天変地異でも起きて、気づかないうちに、この世からさよならできたら気楽なのでは、と。

 死ぬのは怖いけれど、その向こうには安らぎがあるように感じる。

 もう悩んだり苦しんだりする必要はない。誰かに傷つけられるとか、誰かを傷つけるかもしれないとか、心配せずに済む。

 結局誰だっていつかは死ぬのだ。

 こんな風なショッキングな方法でないにしても。

 そして、死ぬ時はみんな一人だ。


『翌朝になっても、悟さんはビッグ・マザーのそばを離れようとしなかった。

 タイムリミットが迫っていることは分かっていたが、私には急かすことができなかった。

 どんな言葉をかけていいかさえ分からなかった。

 生まれて初めて感情を持った人間が、なぜ哀しみにくれなければならないのだろう。

 ここには安らぎが待っているはずだったのに。

 人生の中で体験する感情が、焦りや恐怖や後悔や哀しみにだけ彩られているなんて、あんまりだ。

 自分の無力さが哀しかった。

 こころを助けるためにやってきたのに、何一つ役に立つことができない。

 私がしたことといえば、心配や迷惑をかけることだけだ。

できることならば、一人ででもこころを探しに出かけて、二人を引き合わせてあげたい。けれど、どこへ行けばいいのかも、どうしたらいいのかも分からない。

 焦るばかりで、何もできぬまま一日が過ぎた。

 その晩、思いがけぬ訪問者が訪れた。

 サルースがやってきたのだ。


 突然の訪問に、悟さんも驚いたようだった。

「なぜ、あなたがここに?」

「島へ行くと言ったきり、丸一昼夜、消息を絶っていたんだぞ。心配して当然だろう」

 心配、と言う言葉は、サルースには似つかわしくなかったが、悟さんは私とは別の受け止め方をしたようだった。

「ハプニングがあったんだ。裏切るつもりはなかった」

「そうじゃない。お前の身を心配してるんだ」

 サルースはそう言うと、にっと笑ってみせた。

「なにせ貴重な実験体だからな」

 相変わらず人を食った調子は変わらない。

「感情の重さを身に染みて思い知っただろう。そろそろ助けが必要なんじゃないか?」

「からかいに来たなら帰ってくれ」

 悟さんが語気を荒らげた。

「暗殺者がまだ近くにいるかもしれないんだぞ。そこへあなたまでのこのこやってくるなんて……」

 言い方は荒っぽかったが、悟さんはサルースの身を案じているのだ、と私は感じた。

 だがサルースは、まるで気に留めた様子はなかった。

「どうかな。ニセコの捕まった今、本部だって安全とはいえない。それよりも、お前の治療のほうが先決だ」

「治療? 僕はどこも悪くない」

 サルースが、手で黙れと言う風にさえぎった。

「冷静に任務が遂行できる状態だと思っているのか? 第三者を巻きこんでしまったことに罪悪感を感じているんだろう。親代わりの人を亡くしたのに、哀しむことさえできない自分を責めている。不毛なことだ」

「不毛だって? 死者を悼むことが?」

「不可能なことを望むのは、不毛なことだろう。感情を持ったところで、お前がその人のために涙を流すことは、そもそも不可能なのだよ」

「だとしたら、あなたの実験は失敗だったということだ」

「違う、今のお前に欠けているのは、人の心ではない。涙の元になる『温かい思い出』だ」

 悟さんは押し黙った。

「しかし、出かける前のお前に聞かせてやりたいな。『不毛だって? 死者を悼むことが?』あのころのお前なら、もう死んでしまった人間を前にこんなところでくよくよしているのは、まさしく不毛だと言い切っただろうに」

「くよくよしているわけじゃない。僕がここから動かないのは、他に行く当てがないからだ。闇雲に動き回ったところで、意味もなく危険を増すだけだ。あいつの行く先さえ検討がつけば……」

 サルースは人差し指を振った。

「お前としたことが、らしくない言い訳だな。感情が不合理な行動をとらせると、理性はすぐに苦しい言い訳を始める。本当にその気なら、昨日にはここを飛びだして、VOICEに連絡してきたはずだ」

 悟さんはそれ以上反論しなかった。

 代わりに小さくため息をついて尋ねた。

「分かった。あなたが僕に治療(、、)が必要だと言うなら、そうなんだろう。手早く頼む」

「ふむ。手早く解決しろというなら、感情を除去することもできるが」

 悟さんがごく一瞬、不安げな表情を見せた気がした。

「……プロジェクトFに失敗の汚名を着せるのは、私も悔しい。となると、少々手間暇かけて、お前の気持ちに折り合いをつけてもらうしかないな。理屈でなく感情のほうに」

 サルースは、少し考えるようにしてから、ベッドに顎をしゃくった。

「お前は、この人と、話したかったんだろう」

 悟さんがしばし黙り込み、頭を振った。

「どんな名医でも、死者を生き返らせることはできないはずだ」

「もちろん生き返らせることはできない。ただし」

 サルースさんが、自分の頭をつついた。

「思い出ならとりだせる」


 サルースは、ベッドの近くに寝椅子を取り出して、悟さんと私にそこに横たわるように告げた。

 私達が言う通りにすると、サルースは小さなテーブルを近くに設置し、その上にろうそくを置いた。

 炎が揺れ、いい香りが辺りに漂い始めた。

 うっとりとして目を閉じた私は、周りに人の気配を感じて目を開けた。

 いつのまにか、私はたくさんの子供たちに取り囲まれていた。

 夢の中のようにぼんやりとしていて、子供たちの顔はよく分からない。

 実際、それは夢だったのだ。ただし、自分ではなく、他人の記憶で作られた夢。

 子供たちはやかましく、わめいたりはしゃいだりし、やわらかで温かかった。

 子供たちの中に、とりわけ目を引く少女がいた。

 顔がはっきり見えなくても、私にはそれが誰だか分かった。

 こころだ。

 子どもはみんな、自分のために泣き、笑い、かんしゃくを起こすのに、その子はいつも他の子のために泣き、笑い、かんしゃくを起こすのだった。

 周りの子供と合わせて、まるで鏡のようにふるまう。

 お陰で、誰よりも感情表現が豊かなのに、その子自身が何を感じているのか、望んでいるのか、見極めるのはとても難しかった。

 ビッグ・マザーは、だから、誰よりも注意深くその子のことを観察していた。時にはみんなから引き離し、少しでもその子が自分らしくいられるよう、気を配った。

 もちろん、ビッグ・マザーにとっては、どの子どもも自分と同じようにかけがえがなく、子ども達もみんな、ビッグ・マザーが大好きだった。

 こころも、そんなビッグ・マザーのことが大好きだったが、それが、他の子供達の感情やビッグ・マザーの愛情に同調したと言うだけではない証拠に、一人でうんと離れた部屋に出かけて、ビッグ・マザーに手紙を書いたことがあった。

 そこには、満面の笑みのビッグ・マザーと、こころ自身と、子ども達が描かれていた。

 それは、ビッグ・マザーにとって宝物になった。

 夢の中で、私は時に第三者になり、時にビッグ・マザーになり、愛らしい子どもたちに囲まれて、穏やかな優しい気持ちに包まれていた。

 優しい記憶の中に、ふいに灰色の影が差した。

 不安の中での、短く濃密な時間。それから、別れの時が訪れる。

 泣きじゃくっているこころの顔。

 いやだ、いやだ、いやだ!

 小さくなっていく二人の影が、ビッグ・マザーの心に一抹の影を落とす。

 込み上げてくる不安と寂しさ。

 固く両手を握りしめ、ビッグ・マザーは二人の後ろ姿を見送る。

 遠いところへ去っていくあの子達が、どうか無事でありますように、と、ただ祈り続ける。

 時が飛ぶように流れ、やがて、美しい少女が、自分を訪ねてくる。

  細部まで鮮明に見える新しい記憶の中で、長く伸ばした黒髪や、ほっそりした体つき。

 自分を見つめる黒い瞳を見て、ビッグ・マザーはその子が誰であるかを悟る。

 ビッグ・マザーは、優しくこころを抱きしめる。

 十年前と同じように。

 懐かしさと愛しさがいりまじる。

 甘く優しいひと時。

 けれど、その平穏は長くは続かない。

 人の叫び声が聞こえてきた。

 緊張感がせりあがってくる。

 滲み出してくる不吉な影が、人の形になり、銃を向ける。

「やめろ!」

 と、どこか遠くで悟さんが叫ぶのを夢うつつに聞いた。

 私は、半分眠り、半分覚醒したまま、銃を向ける暗殺者の顔に目をこらす。

 けれど、目鼻立ちを見ようとしてもぼやけてしまって、結局何もとらえられない。冷たい瞳だけが、心臓をわしづかみにする。

 ビッグ・マザーは、こころを突き飛ばす。

 乾いた音がし、胸に激しい痛みがほとばしる。

 こころが何か叫んでいる。

 わめき声がし、人が部屋に駆けこんでくる。

 ゆっくりと倒れこむ間、暗殺者が部屋を走りだしていくのが見える。

 こころがかがみこんで、ビッグ・マザーの目を覗きこむ。

 美しい顔がくしゃくしゃになっている。大粒の涙がほおを濡らす。

 行きなさい、と、ビッグ・マザーはささやく。

 ――どこへ? 私にはもう行くところがないの。

 あなたが昨日話していたところへ。フィオレのような子供がいるところへ。

 ――ネバーランド?

 そう、そこなら安全だわ。

 痛みの中に、不思議と幸福な気持ちが湧きあがる。

 子供たちを見送ってから、ずっと心配していた。最期にこの子を守ってあげられて、私は幸福だった。

 遠のきかけるビッグ・マザーの意識の中に、一人の男の子の姿が浮かぶ。

 いつも冷めた目をして、一人で遊んでいた男の子。

 それは、こころと同じくらいに気にかけていた子供だった。

 誰もが欲しがるものをその子は欲しがらなかったが、本当は誰もがそれを必要としていることが、ビッグ・マザーには分かっていた。

 それなしでは、掛け値なしの愛情なしには、子どもは生きられないのだから。

 だから、迷惑な顔をされようが、逃げ腰になろうが、抱きしめて優しい言葉を浴びせ、利口そうな額にキスをし続けた。

 ビッグ・マザーは微笑む。

 行きなさい、かわいい私のアニマ。あなたが無事であるように祈ってる。

 お兄さんに会えたら、愛していると伝えて。


 血の気がひいていくにつれ、寒くなり、眠くなり、意識が遠のき、私は目を覚ました。

「いい夢を見られたか」

 サルースが、腰かけていた椅子から立ち上がって、私たちのほうに近づいてくるところだった。

 隣ですでに身を起こしていた悟さんは、目頭を押さえていた。

「これでお前にも温かい思い出ができただろう」

「温かい思い出? これが?」

 悟さんは声を震わせた。

「苦しめた分は、償わなければいけないと思っていたのに。あの人は……」

 それきり言葉を詰まらせた。

「彼女の思い出はお前も目にしただろう。お前たちに関わることができて。アニマを逃がすことができて、彼女は最期の瞬間も幸せだった」

「あんなのは本当の幸せとはいえない。もしあと少し早くたどりついていれば……」

「早くたどりついていれば、命を救うことができたと思っているのか? 心を持ったお前と、感動の再会を果たしたと? もしも、は無意味だ。アニマやお前が代わりにに死んでいたかもしれないし、もっと悪い結末もありうる」

 悟さんは答えなかった。

「確かなのは、ここでこうしていれば、間違いなく彼女の遺志を無駄にするということだけだ。今、お前のすべきことは、アニマを連れ戻すことだろう。関係ない人間まで平気で巻きこむような暗殺者だ。抵抗すれば、アニマを撃たないとも限らない」

「そんなことはさせない」

 悟さんは目を押さえたまま、低くつぶやいた。

「こんな立派な人を平気で殺す人間を、野放しにしておくわけにはいかない。必ず見つけだして、僕が裁きを受けさせる」

「やる気が出たようで何よりだ」

 悟さんが顔をあげた。

「今、何時だ」

 サルースさんが時間を告げた。朝の六時を回ったところだった。

 旅を始めてからすでに五日が過ぎていた。

「あと二日か」

 悟さんが硬い声になった。声がかすかに震えていた。

「あいつの行く先が分かった。ネバーランドだ。IDが用意でき次第……」

「待て、まだ治療は終わっていない。手を出せ」

 サルースが、握手するように悟さんの手を握りしめた。

 しばらくして手を離したときには、魔法のように、てのひらに小さな虫を乗せていた。

『執行者』だった。

「なんのつもりだ?」

 悟さんが、困惑した様子でサルースの顔を見あげた。

「お前の心の負担を、少しでも軽くするためだよ。身近な人の死、敵地を這い回る恐怖。どちらも感情を持った人間には、大変なストレスだ。そこにこんなものが加わっては、明らかに重量オーバーだろう。心というのは、存外重いものらしいからな」

 サルースは、手の中でぴくぴくうごめいている虫を、ひょいとひねりつぶした。

「ネバーランドの警備は少々厳しいが、今晩か明朝にはIDを用意できるだろう。それまでに通信の届くところへ出ておいてくれ」

「あなたがこんなことをするなんて……もし僕が追っ手に捕まったらどうする?」

「だとしても、こんな虫に脳を食われては困る。お前は貴重な実験材料だ」

「VOICEを危機にさらすことより、僕の実験のほうが大事だっていうのか?」

「言い方が悪かったかな。お前はただの実験材料じゃない。私にとっては、タイプAよりはるかに大事な存在だ」

「冗談はやめてくれ。タイプFがタイプAよりも重要だなんて……」

「冗談なんかじゃない!」

 サルースが、少々強い調子で言い返した。

 それまで何の色も浮かばなかった瞳が、ふいに熱を帯びた。

「今までのタイプFを思い返してみるといい。欠陥と言われ続けた。実際、失敗作ばかりだった。反社会的なお荷物ばかりで、寿命を全うしたものはいない。お前を除いてはな。いいか、お前だけが、まっとうに生きてきたんだ。人間として」

「そうだろうか」

「そうだとも。タイプAは実験材料だが、お前は私の研究の理解者で、共同研究者だ。私には分かっている。お前は決して私を裏切らない、ということを」

「僕だって絶対にVOICEを裏切らないとは言い切れない。もちろん、自ら進んでそうするつもりはないが、政府の連中に捕まったら最後、何をされるか分かったものじゃない。拷問か洗脳か施術か、あるいはアニマを人質に取られて脅されたら……」

「そうなったら、生き延びることだけ考えろ」

「なんだって?」

「私の身に何があろうが、VOICEが壊滅しようが、寿命の果てるまで生き続けろ。生きて、お前が私に代わって学説を実証するんだ。タイプFが欠陥などでないことを。ちゃんと人間社会の中で、寿命を全うできることを。分かるか、私の学説が目指すのは、とどのつまり、お前が人間だと証明することなんだ」

 悟さんの答えを聞く前に、サルースは、きびすを返した。

 そのまま、別れの言葉も言わずに立ち去ろうとするサルースを、悟さんが呼びとめた。

「サルースさん」

 サルースは、振り向かずに、足だけ止めた。

 悟さんの目に、光るものが見えた。

「ありがとう」

 サルースは、手をあげて、部屋から去って行った。』

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