第38話 暗い夜

『壁にぼんやりと黒い染みが現れたのはその時だ。

 染みが次第に濃くなり、大きくなり女の人の形の影になった、と思うと、もうそこには女の人が立っていた。

 未来の世界の不思議な部屋の移動方法は、太古の木々に育まれたこの世界でも変わらないようだ。

 だが、それにしても様子が変だった。

 女の人の目はうつろで、手にはタオルを握りしめていた。

 タオルに赤い染みがついているのに気がつき、私は思わず息を飲んだ。

「何があったんですか?」

 悟さんが鋭く尋ねた。

 女の人は、初めて私達の姿に気づいたように立ちすくんだ。

「なぜここには人がいないのですか。僕らがここに来ることは伝えてあったはずなのに」

 女の人が、怯えた様子で後ずさりした。

 身をひるがえそうとするところへ、悟さんがすばやく駆け寄って、腕をつかんだ。

「待て、何があったかと聞いているんだ……!」

 いつもの悟さんらしくない、乱暴な尋ね方だった。

 女の人が悲鳴を上げた。

 悲鳴を聞きつけたのか、それとも偶然だったのか、周囲の壁にいくつもの黒い染みが浮かび、またたく間に、部屋の中に数名の男女が現れた。

 悟さんは女の人から手を離し、身の潔白を証明するように、両手をあげて見せた。

「待ってください。僕は何もしていません」

 不審げに私達を見つめる人々を見渡し、悟さんは深呼吸すると、いつもの落ち着いた声で告げた。

「僕は妹を捜しにここへ来たんです。妹と、ビッグ・マザーに会いに」

「ここにはいない」

 男の一人が答えた。

「妹が、ですか。あなたは僕の妹のことをご存知なのですか?」

 男は、じっと窺うように悟さんを見つめたままだった。

 悟さんは続けた。

「少なくともビッグ・マザーは確かにここにいるはずです。そして妹はビッグ・マザーに会いに来た、僕はそう思っています」

 男の後ろにいた女性たちが、ちらりと顔を見かわした。

 悟さんはその姿に勢いを得たように続けた。

「お願いします。ビッグ・マザーにアニマ・プラーナの兄が会いに来たと伝えてください。きっと話を聞いてくれるはずです」

 女性の一人が、おそるおそると言った風に尋ねた。

「あなたはビッグ・マザーの知り合いなの?」

「はい。ずいぶんと世話になりました。妹も」

 男が女性のほうを振り返り、悟さんのほうに目を戻した。

「身体検査をさせてもらっても?」

「好きなだけ調べてください」

 悟さんは両手を掲げた。

 男の人が悟さんに近づき、服の上から身体を叩いた。

 女の人が私に近づいてきたので、私も同じようにした。

 私の体を探る女の人の手は、小刻みに震えていた。

 私のほうにもそれがうつったようで、じっと立っていられなかった。

 悟さんのほうは、身体を改められる間、じっと目を閉じて両手を上げたままだった。それは私には、心を落ち着けて、周囲の人の感情を読み取ろうとしているように見えた。

 悟さんの体を調べていた男が立ちあがった。

「武器は持っていないようだ。もとより、敵意を持った人間は、ここには入れない。いや、そのはずでした。つい先ほど、例外(、、)が起きるまではね」

 先ほどから感じていた嫌な予感が、じわじわと実感を帯びて迫ってきた。

「誰か来たんですね、ここに」

 悟さんがつぶやき、男を見つめた。

「僕より前に誰かが、妹を探していた。それで……それから何が……?」

「ついてきてください」

 私たちは男について部屋を出、細い洞窟の通路を歩いていった。

 最初の通路ほどではなかったけれど、通路は薄暗くて、曲がりくねっていた。

 背の高い未来の人々についていくのに、私は小走りに後を追わなければならなかった。

 必死に後をついていく間、私の心臓は苦しいぐらいに脈打っていた。

 こころ、お願いだから。

 無事でいて、無事でいて。

 祈り続けているうち、ふいに開けたところに出た。

 部屋の中にベッドのようなものがあって、真ん中が人の形に膨らんでいた。

 ベッドに歩み寄るのが怖くて、私は部屋の隅でしばらく立ち止まっていた。

 だが、そのうちに少しだけほっとした。

 ベッドの端からはみ出している髪の毛は、こころの黒髪とは似ても似つかない、真っ白なものだったから。

 私は恐る恐るベッドに近寄り、悟さんの背後から、横たわる人を覗き込んだ。

 ベッドの中で眠っていたのは、見知らぬ老婆だった。

 名前から想像していたよりも、ずっと小柄だったが、この人がビッグ・マザーなのだろうか。

 だが、そのことを尋ねようとして、悟さんが、血の気を失っているのに気づいた。

「まさか……こんな……」

 悟さんのかすれた声を聞いた途端、私は雷に打たれたように気がついたのだった。

 この人は、死んでいる、ということに。

 女の人の手にしたタオルの赤い染み、あれはきっと、この人のものだ。

 目の前がすうっと暗くなる気がした。

 死んだ人間を見るのは、この時が初めてだった。

 小学生のころ、私は兄を交通事故で亡くしたが、その時には、両親は、私に遺体を見せてくれなかった。

 お通夜の夜に目を覚ましてトイレに行くとき、こっそり棺の中を覗こうとしたけれど、結局怖くてできなかった。

 私の頭に焼きついたのは、たくさんの白い百合の花と、遺影に飾られた白黒の写真だけ。

 だが、それは決して消えることのない思い出となった。

 生まれて初めて目にした「故人」の写真。

 そう、人は死ぬのだ。

 時には、本当に信じられないくらいあっけなく。

 私は不意に寒気を感じた。

 もしこころがビッグ・マザーに会いに来たのだったら。こころは無事でいるのだろうか。

 横たわっていたのがこころでなかったことに、私は恥ずかしいことながら、少しだけ安堵していた。

 だが、こころが会いに来たビッグ・マザーがこんな目に遭っているということは、こころだって無事ではないのではないだろうか。

「僕の妹は

 周囲の人の心を読み取ったのだろうか、悟さんがつぶやいた。

 私達を案内した男が、うなずいた。

「あの子がやってきたのは二日前だ。久しぶりの再会だといって、ビッグ・マザーに会って感激していたよ。ビッグ・マザーもそれはとてもうれしそうだった」

 異変が起きたのは、ほんの数時間前のことだったらしい。

 本当なら起きようのないはずのことだった。

 保護区に入るには事前の許可が必要だ。

 岩盤の入り口では感情のチェックが行われ、敵意や殺意を持った人間が触れても、開かないように作られている。

 さらに、その先にある細い道ーー私の通って来た隧道と呼ばれる洞窟の中では、武器の所持についてもチェックされ、問題があれば部屋まではたどりつけない。

 だがどこをどうすり抜けたものは、暗殺者はここへたどりついた。

 誰にも気づかれず、ビッグ・マザーと過ごすこころに、銃を突きつけた。

 ビッグ・マザーが、とっさにこころをかばわなければ、倒れていたのはこころだっただろう。

「すぐに大勢人が駆けつけて、暗殺者はどこかへ逃げた。あの子も、裏口を通って、ここから逃げていった」

「そこからどこへ向かったのですか?」

 男は力なく首を振った。

「分からない。我々はみんな、ビッグ・マザーを救命しようと必死で……」

 遅かった。

 ほんの少しだけ。

 あと数時間早くここに着いていれば、こころと再会することができたのに。

 それとも、悟さんがビッグ・マザーの代わりに撃たれていたかもしれない。

 そう思うと、私は恐ろしくて震えた。

「信じられない」

 悟さんは、ビッグ・マザーの遺体にそっと触れた。

「保護区で銃を撃つなんて」

「追手、でしょうか」

 私は小声で尋ねた。

「だとしても、この場所で銃を撃つのは……そうだな、君に分かるように言うならば、神社や病院の中で、散弾銃を乱射するようなものだ。あるいは、戦争で赤十字のテントを狙ってミサイルを落とすようなもの。普通ならとても考えられない」

 こころを追っていた政府は、タブーを破ってまで、タイプAという『武器』を手に入れたかったのだろうか。

 こころを追う旅は、ここまできて行き詰ってしまった。

 これからどこを目指して進めばいいのだろう。

 その晩、私たちは、ビッグ・マザーのそばで一夜を明かした。』

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