第37話 ビッグ・マザー
『ビッグ・マザーは、もともと研究所で感応力者の子供たちを預かっていた保育士だったらしい。
研究所の大人は、感応力者か、研究者か、その両方であるかの場合がほとんどだ。
感応力者の子供たちを育てるのに、感応力者の親だと、感情の『共鳴』がやっかいな事態を引き起こすことがある。研究者は日中忙しくて手が離せない。
しかし、感応力者の子供たちを育てるのは、なかなか厄介な仕事だった。大人が少し憎らしいと思っただけでも、子供たちは敏感に察知する。わずかなえこひいきも見逃さない。
ビッグ・マザーは、どんな子供でも等しく愛することができる稀有な人物だった。子供たち一人一人を気にかけ、大事にしてくれた。
子供たちはみんなビッグ・マザーになついていた。
泣きじゃくっている子も、ビッグ・マザーの大きな腕に抱かれると安心して眠りにつくのだった。
ビッグ・マザーは、子供たちが厳しい任務に就かされることに心を痛めていた。
こころと悟さんが研究所を逃げることになった時、一ヶ月ほど、隠れ家を提供してくれたのがビッグ・マザーだった。
こころは、夜中に悪夢を見て大声をあげて目を覚ましたり、急に泣きだしたりして悟さんを困らせていたが、ビッグ・マザーのそばにいる時は、安心して落ち着いていた。
「なぜそこを出たんですか?」
「サルースが接触してきたんだ。僕らの時代と時空間上近接している君の時代に、安全な住処を用意してくれると言ってくれた。長居すれば政府に感づかれると思っていたから、渡りに船だった。ビッグ・マザーのような人を危険に巻きこむのは、正しいことではないと僕は思っていたしね」
たぶん、悟さんの判断は正しかったのだろう。
けれど。
「ビッグ・マザーには別れの挨拶もできなかった。君の時代に行ってから、こころはずっと泣きじゃくっていた」
どういうわけか、その時私の脳裏には、その情景がありありと浮かんでいた。
甘えたい盛りの六つの少女が、両親と別れ、親代わりの人からも引き離されて、泣きじゃくっている姿が。
見知らぬ世界に連れてこられて、どんなに心細かったことだろう。
その傍らには、年上のお兄さんが、白けた表情で立っている。
十二にしては大人びた、利口そうな顔で。
誰が二人を責めることができるだろう。
少女は、誰も捕まえたりしたくなかった。ただ、自分を愛してくれる人間が必要だった。
お兄さんは、研究所を出たりしたくなかった。それでも、自分の意志は封じて、十二歳の少年に探せる限り、一番安全なところに、妹を連れていった。
「安全と安らぎは違う――こころはそのことを僕に教えたくて、あの謎かけを出したのかもしれない」
悟さんがつぶやいた。
「あいつは僕を恨んでるんだろうか」
私は頭を振った。
「こころは、悟さんにも感じてほしかったのかもしれません。安らぎを」
そうだ、きっとそうだ、と、私は思った。
こころは、悟さんにも温かい思い出を作ってほしかったのではないか。
心を持った今のうちに。
二人を母親代わりに育ててくれたビッグ・マザーの下でなら、きっとそれができる。
私はそんな、都合のいい期待を持っていた。
ビッグ・マザーがいるのは、環境保護区に指定された離島だという。森の奥の洞窟にあるという居住区には、武器の所持はおろか外部との通信すら遮断されており、政府軍でも、通常入りこむことができない。
安全な緑の森と聞いて、私は希望を持った。こころの向かった先は、きっとそこに違いない。
入島許可を取りつけるのに時間がかかり、島へ出発できたのは、翌日の夕刻のことだった。
黒ずんだ海上を飛び続けた先に、その島はあった。
悟さんが言うには、潮の引いた数時間の間しか海面に現れないとのことだったけれど、ちょうど今はシャボン玉のような透明な半球に覆われていて、子供のころ読んだおとぎの世界の浮遊島を思いだした。
空飛ぶ車は、島の入り江を過ぎ、森の入り口へ停車した。
そこから私たちは車を降りて、徒歩で林道を歩いた。
変わり果てた姿を見せていた東京湾と違って、ここにはまだ昔ながらの日本の自然が残っているようだった。
針葉樹の間を歩いていくと、森の木々の香りがし、足元で小枝がかさかさと音を立てた。
中学の時、こころと歩いた山道を思いだした。
森は次第に深くなり、大きな木々が日の光を遮り始めた。
岩にも、神様の住んでいそうな巨木にも、青々とした苔が生えている。
「ここの木は、本物なんですよね?」
「大半はね。ここは、特別な許可がなければ立ち入れない保護区だから」
「きっと、大昔から生えていたんですね」
「何千年も前からあった森だからね。君の生まれる前から生えていたものも多いんじゃないかな」
壮大な時間の流れに、私は圧倒された。
何千年も前から世界を見守ってきた森にとって、私と、こころや悟さんを隔てていたのは、たった(、、、)四百年でしかないのだ。
やがて、私たちは大きな岩盤の前にやってきた。
苔むした岩の一部に、文字が彫られていた。
この先、一切の武器の所持及び外部との通信を禁ず、と書かれている。
悟さんが岩に手を触れると、岩の一部が透き通り、その向こうに洞穴が現れた。
「しばらく暗いから、気をつけて」
言われたとおり、中に入って二十歩も進むと、何も見えなくなった。
岩肌を探り、おそるおそる歩いていくと、指が悟さんの手に触れた。
悟さんは私の手をとって誘導してくれた。
しんとした暗闇の中を歩いていると、雑念が取り払われていく気がした。
高校の地下室と違って、闇の中にもどこか温かみがあるように感じたのは、滴り落ちる水音や、柔らかな足音がしていたせいだろうか。近くに悟さんがいたからだろうか。
この島全体に漂う、どこか厳かな空気のお陰かもしれない。
その時だ。
ふいに悟さんが立ち止まった。
悟さんとつないでいた手のひらに、鋭い熱さを感じて、私は思わず握っていた手を離した。
悟さんの指にはめられた指輪が、光り輝いていた。
地下室で見たような白い輝きではなく、熱した鉄の放つような赤銅色だ。私は今まで、指輪がこんな色に輝くのを見たことがなかった。
「どうしたんですか、その指輪……」
「分からない。あいつに何かあったのかもしれない」
怖れを感じた時に輝く指輪。いったいこころに何があったのだろう。
じきに光は消え、私たちは、不安な思いを抱えたまま、また手をつないで暗闇の中を歩きだした。
薄暗い通路は、真珠色の光に満たされたドーム状の空間につながっていた。
学校の教室よりも少し広いぐらいの大きさで、私は子供の頃に連れていってもらったプラネタリウムを思い出した。
「おかしいな。誰もいない」
悟さんがつぶやいた。
「ここは、この居住区に住む人たちの憩いの場で、玄関でもあるんだ。滅多に来ない訪問者が来た時には、たいてい誰かがここで待っているものなんだけどね」
「すみません、誰かいますか」
私は声をあげてみた。
トンネルの中で叫んだかのように、周囲から声が反響してきたが、何も返事はなかった。』
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