第36話 温かい想い出

『兄さんは、見ていても観ない。聞いていても聴かない。

 いつかこころはそう言っていた。

 でも、それはあまりにも厳しい言い方に思えた。

「悟さんは十分、こころのことを大事にしてきたと思います」

 私は言った。

「悟さんがいなかったらこころは生き延びてこられなかったし……私と友達になってくれることもありませんでした」

 感情を持たない人間が、愛情を感じるという『報酬』すらなしに、家族をずっと守り続けてきた、私にはそのことのほうがずっと奇跡的なことに感じられた。

「でも、こころは僕のところから逃げだした。それが事実だ」

 悟さんは小さく息をついた。

「僕は今でもこころのことを理解できていない。江戸シティにある緑の森らしきものは一通り回ったが、手がかりが見つからない」

「たった一日で、全部回ったんですか?」

 私は驚いて聞き返した。

「時間がない」

 すっと体が冷え凍った気がした。

 すっかり忘れていた。この旅が、一週間の期間限定だったことを。

 悟さんの体内に恐ろしいタイムリミットが埋めこまれていることを。

「『執行者』のことだけじゃない。サルースが埋めこんだ感情エネルギー、あれがどれだけ持つか、正確なところはよく分からないんだ。こころは感情を持った僕に会いたがっている、君はそう感じているんだろう?」

「そう思います。こころは、心が通じ合うことを望んでいたんじゃないかって」

「心を持つのと、心を通わせるのはまた別の話だ」

 悟さんは苦い顔をした。

「今でもこころを愛してやれる自信は僕にはない。どのみち分かり合えないなら、感情をなくした後のほうがいいのかもしれない」

「そんな……」

「どうやったら、あいつを可愛いと思えるのか分からないんだ。そもそも、僕自身、人に愛された経験がない。生まれた時から、腫物みたいに扱われてきた。僕より先に生まれたタイプFは、たいがいひどいことをやらかしていたから」

「ご両親は……?」

「こころのことは可愛がっていたけれど、僕のことは、どうだろう。愛そうと努力はしていたようだけど、僕は誰にもなつかない、可愛げのない子供だったからね」

 もし本当なら、哀しすぎる。

 親にすら愛されない、そんな子供がいるだろうか。

 両親の腕の中にいる時、子供は一番安心して、安らぎに包まれているはずなのに。

 小さいころ、風邪をひいた時、お母さんがいつもおかゆを作ってくれたことを思いだした。

 温かい手でお腹をさすってもらうと、どういうわけか痛みがひいていくような気がした。

 お父さんも、いつもより早く仕事から帰ってきて、果物を差し入れたりしてくれた。

 熱があっても、お腹が痛くても、なんだか幸せだった……

 悟さんは隣で、目を閉じてじっとしていたが、だしぬけに身を起こした。

「安らぎ、温かい思い出、今君が感じていたのはそれ?」

 私は驚いて目を瞬いた。

 悟さんは、興奮したように先を続けた。

「思いだした。VOICEを出てから、こころが君のように感じていたことが、一度だけあった」

「何か分かったんですか?」

「<太古の森>……ビッグ・マザーだ。なぜ忘れていたんだろう……」

 音楽が消え、フロントグラスにぼんやりと映像が浮かびあがった。

 サルースの顔だった。

「どうした。何があった?」

「ビッグ・マザーの居所は分かるか」

「ビッグ・マザー? 研究所にいたビッグ・マザーのことか?」

「そうだ。僕らを匿ってくれたあの人だ。アニマがそばにいるかもしれない」

「ほう。さっそくリナに所在を確認してもらおう」

「待ってくれ」

 通信を切ろうとするサルースを、悟さんが、あわてたように呼びとめた。

 サルースがわずかに首を傾げた。

 悟さんはしばらく黙っていたが、やがて小さく息をついてから言った。

「ユニット23ーA、第三病院で捕獲騒ぎがあった。ディスカバラーが来ていたらしい」

 サルースの表情が引き締まった。

「ディスカバラーに追われているのか?」

「いや、気づかれたにしても、撒いたつもりだ。だが、仲間が捕獲された。最低でも一人」

 悟さんは言葉を切り、少ししてからつけ加える。

「ニセコが連れていかれた」

「ああ……それで、リナではなく、私に連絡してきたんだな」

 サルースが少しおかしそうに口の端をゆがめた。

 悟さんは、苦い顔をした。

「理解できないな。なぜそんなに嬉しそうなんだ? 仲間が連れていかれたと言ったんだぞ」

「いやすまん、これほど短期間で、お前がそういう繊細な感情を持てるようになるとは思わなかったものでね。リナと顔を合わせるのが怖いんだろう?」

「怖いわけじゃない。どう話していいか分からないだけだ」

「同じことさ。原初的な恐怖よりもかなり高次なものだがね。これで、私の学説が正しいことが証明されたわけだな。タイプFのお前にも感情の回路は存在していて、エネルギーさえ確保すれば、人並みの心を持てるらしい」

「それは朗報だ」

 悟さんが冷やかに言い、サルースは苦笑いした。

「言っておくが、からかっているわけじゃないぞ。この発見は、タイプFの人権問題に大いに貢献するはずだ」

「今は聞きたくない。研究の話は別の機会にしてくれないか」

「分かったよ。ニセコを救えなかったことを悔やんでいた、リナにはそう伝えておく」

 悟さんはようやく素直な調子に戻って、ため息をついた。

「リナも感情が不安定なタイプDだ。話を聞いたら動揺するだろうな」

「彼女も覚悟はしていただろう。まあ、私も医者だ。鎮静剤ぐらいならいつでも用意するさ」

 サルースは肩をすくめ、言った。

「頼む。傷心のところ彼女には申し訳ないが、ビッグ・マザーの所在の確認も急いでもらう必要がある」

「とりあえず、祇園シティに行け。あそこならば、すぐに一時滞在IDが発行できる。その間に、ビッグ・マザーの所在を確認しておく」

 私たちを乗せた車は、いったん祇園シティへ向かった。

 祇園シティの外観は江戸シティと似ていたが、中がどうなっているかは、ついに分からずじまいだった。

 広場などには立ち寄らずユニットに入り、こころの家に似た場所で、私はまた一晩明かすことになった。』

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