第35話 本物の友情
『息を切らして、私は床にへたりこんだ。
あれはなんだったのだろう? 追っ手が来ていた?
膝ががくがくし、体の震えが止まらなかった。
未来にやってきてからというもの、どことなく夢うつつの世界をさまよっているようだった。危険があると分かっていても、目の当たりにしたわけではなかった。それなのに。
白い床の中から、黒いセダンが現われた。
背中を押しこまれるようにして、車に乗った。
目の前にトンネルが現れ、車は見る間に吸いこまれていく。
「さっき連れていかれたの……ニセコ……ですよね?」
返事はなかった。
私は重ねて尋ねた。
「さっきのは……政府の追手ですか……?」
「仕方ないだろう」
予想外に冷ややかな声が返ってきて、私は凍りついた。
「あの状況では囮になってもらうしかなかった。あの場にいたら僕らも捕まっていた」
私は初めて気がついた。
悟さんはニセコを囮にしたのだ。
私を抱きしめたのは、私にあの様子を見せないためだったのだ。
追っ手に気づき、ほんの一瞬で、すべて冷静に計算した。追っ手の目は、互いに夢中になっているカップルよりは、ニセコのほうに向かう、と。私の気持ちも計算に入れた上で。
「万一の時、囮になることはVOICEも想定済みだ。でなければ、わざわざ不安定なタイプDをよこさない」
「そんな……」
悟さんはそれ以上の会話を拒否するように、オーディオのスイッチを入れた。ボリュームの+(プラス)ボタンを連打する。
聞いたことのない曲が、大音量で流れだした。
あまりの音量に、私は思わず耳を塞いだけれど、悟さんは気にかける様子もなかった。
以前には、音が大きいと《思った》だけでも、すぐに察して音を消してくれたのに。
悟さんの気持ちが、理解できなくなった。
ようやく心に触れられたと思ったのに、私の思い違いだったのだろうか。
救いを求めるように、私たちを見つめていた瞳が、話に聞いたお姉さんの姿と重なった。
ニセコはこれからどうなるのだろう。
命を奪われて、それとも過去の記憶も顔も失って……
「やめてくれ!」
悟さんが苛立ったように怒鳴り、それから小さく息をついた。
「頼むから、少し静かにしてくれないか」
静かに? と、聞き返そうとして、心の中のことを言ったのだと気づいた。
私がこんな風にパニックになるのは、悟さんにしてみれば、耳元で怒鳴られ続けているようなものなのだ。
私は、必死に心を落ち着けようと努めた。
深呼吸し、何か別のことを考えようとした。
静かな海の景色。森のざわめき。夜の星空。
音楽のボリュームが小さくなった。』
ナオミは小さく息をついて、顔をあげた。
これは小説だ。でも、主人公の絆は、やはり双葉先生と似ている。
双葉先生にも、あったのだろうか。
人の心が理解できずに不安に感じることが。
喜怒哀楽というけれど、感情のバリエーションには、辛いことや苦しいことのほうがたくさんある気がする。
辛いことを感じずに済めば、私だって……
ナオミは現実の出来事を頭から振り払い、物語に集中した。
『車は密林の上を飛びすぎ、黒い海の上に降りた。
窓の向こうから、波の音が聞こえてきた。
窓を開けて、潮の香りをかぎたかったが、この車の窓は開かないようになっていた。
私の知っている海とは違っていても、波の音を聞いていると、気分が落ち着いてきた。
「すまなかった」
悟さんがつぶやいた。
「私こそ、すみません。取り乱してしまって……」
「近くであんなことが起きれば、取り乱して当然だ。僕にしても取り乱していた」
こころに笑われるだろうね、と、悟さんは少し笑ってみせた。
そうやって優しい言葉をかけられると、なおさら、自分が足を引っ張ってばかりで何の役にも立っていないのが情けなかった。
私になぜお兄さんが責められるだろう。お兄さんだって、ニセコを見殺しにしたかったはずがない。
私のせいだ。私が入院していなければ、ニセコもあんな目に合わずに済んだのだ。
「君のせいじゃない。病院に連れていったのも、ニセコを君のそばに残したのも、僕の判断だ。こころも僕も、生き延びるために回りに犠牲を強いてきた」
悟さんは、小さく息をついた。
「君がそういう風に考えると、僕が責められているみたいに感じる」
「すみません……」
悟さんがこの件で感じたのはどんなことだろう、と私は思った。
恐怖。罪悪感。後悔。
どうして世の中にはネガティブな感情がこんなにたくさんあるのだろう。
喜びだけを感じていられたら幸せなのに。
こころは今どこにいるのだろう。安らぎと温かい思い出のある場所にたどり着いただろうか。そこに行ったら、悟さんも安らぎを感じ、温かい思い出を作ることができるのだろうか……
「君はなぜ、こころと友達になったんだ?」
悟さんが不意に尋ねた。
「たいていの人にとって、友達が重要だということは知っている。人が社会で生きるためには、いないよりいたほうがいいのも分かってる。なければ生きていけないというものではないまでもね」
自分にも友達はいると悟さんは話した。
親愛の情を感じることはできなくても、模倣することはできる。悟さんは、他の人より自分に親しくしてくれる人間には、同じようにふるまってきた。一種のギブ&テイクだ。そのうち、友達と呼んで差し支えないような関係が生まれる。
「でも君は、こころから得たものはほとんど何もないのに、僕らのために命を懸けてくれている。友達なら他にもたくさんいたはずなのに。どうしてだ?」
「こころは……」
こころと出会ったころの思い出が、頭の中で渦を巻いた。
初めて教室に入ってきた時の驚き。
心が通じた時のこと。
心が通じなかった時のこと。
こころに助けてもらったこと。こころに冷たくされたこと。
楽しかったことも、辛かったことも、後になってみれば温かい思い出だ。
「こころは、特別なんです。私に、一番大事なことを教えてくれたから……」
「大事なこと?」
「私も、昔はお兄さんと同じように考えていたんです。友達は、社会で生きていくのに必要だって……それで、自分に嘘をつきながら、周りに合わせて生きてたんです。たいした友情も感じないまま」
悟さんは、意外そうな表情を見せた。
「友情を感じていなかった? 君が?」
「はい……」
私はうなずいた。
「誰も私のことを理解しようとしていなかったし、私もそうでした。みんなの気持ちに興味が持てなかった。本当の友達なんて誰もいなかった。そんな中で、こころは、こころだけは、私の気持ちを理解してくれました。だから私はこころのことを理解したいと思った……」
悟さんは、真剣に話を聞いているようだった。
「こころに出会って気づきました。友達でも……友達だからこそ、何もしてくれなくてもいいんです。一緒にいるだけでいい。たとえ一緒にいられなくなっても……無事で、幸せでいてくれたらいい。そう思えるのが本当の友達だって、今はそう思ってます」
こころが私のことを覚えていてくれてうれしかった。
こころが私を頼ってくれてうれしかった。
もう一度会いたい。幸せそうに笑っているところが見たい。
「そうか。そういうことか」
悟さんはつぶやいた。
「初めて友情を感じられた。君にはそれ自体が報酬だった」
報酬。他の人にそんなことを言われたら腹を立てたろうけれど、悟さんの真摯な様子を見ていると、怒る気にはなれなかった。
悟さんは、自分なりの言葉で、私の言ったことを理解しようとしているように見えた。
悟さんはじっと遠くを見つめて何か考えこんでいた。
「感情がどういうものなのか、少しは分かりかけてきた気がしたが、難しいな。僕はこころに友達を作ることをずっと禁じていた。それはこころにとっては……」
悟さんは、声を落とした。
「いや……あいつがどう感じていたかは知っている。僕がその声に耳をふさいでいただけだ」』
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