第34話 甘美な夢

 翌日の昼休みは、図書館で過ごした。次週のホームルームに備えて、修学旅行の行き先について少し調べておきたかったからだ。

史学研究室に足を踏み入れたのは、放課後のことだった。

 ナオミは電気をつけて、ノートの続きを読みふけった。


『退院には、お兄さんがつき添ってくれた。

 病院の外の敷地には、芝生が広がっていた。よく晴れているが、日差しは強くない。入院客の家族なのか、子供たちの姿もちらほら見える。

 門まではかなり遠く、ここで見舞い客がくつろげるようになっているようだ。

 お兄さんが辺りを見回した。

「ニセコも来ると言っていたんだが見当たらないな。すれ違ったかもしれないね」

 ニセコと聞いて、私は聞いた話を思いだした。

 捕まったお姉さんのこと、お兄さんには気をつけろと忠告されたこと……

「ニセコが何か僕の話をした?」

 鋭く尋ねられて、私はあわてて首を振った。

「あいつはタイプDだから、少しむらっ気があるんだ。気分に波があって、人の心を読み違えたりする。あまり気にしないほうがいい」

「タイプDは……落第生(ドロップアウト)?」

「いいや。タイプ・ディスオーダー……無秩序型の略だ」

「なんだかそれも、ひどい名前」

「もっとひどい名前もある。タイプFは、タイプ・フロー……欠陥型の略だよ」

「欠陥? ニセコは、タイプFは優秀だって言っていたのに……」

「感応力という意味ではね。自分の感情がない分、周囲の感情が正確に感じとれる。サルースもよく言っていた、タイプAは大器だが、タイプFは空っぽの器だと」

 ずいぶん失礼な言い方だ。

 感情を持たないお兄さんなら、何を言っても傷つくことはないと思ったのか。

 いや、サルースはそういう人だ。科学者としては優秀なのかもしれないが、人との接し方に少々問題がある。

「サルースは、僕自身に興味を持ってくれているだけいいほうだ。タイプFと聞けば、たいていの人は気味悪がる。眉ひとつ動かさずに人を裏切ったり殺したりできる兵器か何かのように考える。僕に言わせれば、殺人を伴う重大犯罪の九割は、むしろ感情が引き起こしていて、だからこそ人の感情を感知する僕らのような人間が役に立つのにね」

 お兄さんは淡々と話した。

「タイプAの兄でなければ、VOICEも僕を迎え入れる気にならなかったかもしれない。<逆流>に使えると分かって、少しは扱いが変わったが、VOICEのメンバーのほとんどが、僕の名前さえ呼ばない」

 そうだったろうか。

 私は記憶を探ったが、確かに名前を聞いたことはほとんどなかった。それどころか、お兄さんの本名がなんだったかすら自信が持てず、改めてそのことに愕然とした。

 私だって『亡くなった純平ちゃんの妹』では嫌だった。

 兄のいなくなった後、私が外から家に帰ってくると、ときどき、お母さんが呼び間違えることがあった。

 純平、お帰りなさい、と。

 そんな時、私は、『私は絆!』と、怒鳴るように言い返した。

 こんな風に一緒に旅を続けているのに、名前も呼んだことがないなんて。

「名前……フリ……ええと、フリギドゥス、でしたっけ?」

「僕の名前?」

「……名前で呼んでも、いいですよね……?」

 お兄さんの表情が柔らかくなった。

「フリギドゥス・プラーナ。研究所の与えた名前はね。呼ぶなら悟でいい。両親はそう呼んでいた」

「分かりました……悟さん」

 口にしてしまってから、急に恥ずかしくなった。

「ありがとう、絆」

 そう言われて、なおのこと、耳まで熱くなった。

 その時だ。

 悟さんが、ぐいと私の手をひいた。

 いきなり抱きすくめられ、頭の中が真っ白になった。

「何も考えないで。僕(、)の(、)こと(、、)だけ(、、)考えて」

 自分の心臓の音だけが、とくんとくんと聞こえてきた。

 まさか。こんなことはありえない。

 気をつけたほうがいい、という、ニセコの言葉が、一瞬浮かんで消えた。

 すぐにどうでもよくなった。

 きっとこれは夢だ。夢でもいい。時が止まってしまえばいい。

 どこか怖いような、甘美な夢に浸っていた私は、様子がおかしいことに気がついた。

 悟さんは、身を硬くして、私以外のどこかを見ているようだった。

「走って」

 悟さんが、緊迫した声でささやいた。

「え?」

「こっちだ。早く!」

 悟さんが手をつかみ、病院の建物と反対側へ走りだした。

 私はほとんど引きずられるようにして走った。

 背後から、サイレンのような不穏な音が聞こえてきた。

 走りながら振り返ると、芝生の上に、黒々としたヘリコプターが滞空しているのが見えた。

 病院には不似合いな、黒いスーツを着た男女が数名、その下に立っている。みんな体格がよく、銃に似た武器を手にして、周囲を見渡している。

 病院の中から、大柄な男が誰かを捕らえて出てきたようだ。後ろ手をねじりあげられた捕虜が、じたばたしながら逃れようともがいている。

「振り返るな!」

 悟さんに叱咤されて、私は目をそらそうとしたけれど、遅かった。

 救いを求めるような細い瞳と目が合ったとたん、私は思わず叫びそうになった。

 病院の門をくぐりぬけると、周囲の景色がかき消えた。

 変わって現れた灰色の細い通路を、私たちはまっすぐ駆けた。

 全速力で、走りに走り続けて、もう息が持たない、と思い始めたころ、目の前に黒い染みが現れ、私たちはぱっと白いユニットの中に飛びだした。』

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