第33話 心を強くするおまじない

 外に出ると、今にも雨が降りだしそうな天気だった。

 教員室に貸し出し用の傘があるのだが、取りに行くのも億劫だ。

 濡れたっていいや、という、どこか焼けくそな気分もあった。

 駅に向かって歩きだしたが、五分と立たないうちに後悔した。

 小ぶりだった雨がたちまち大粒になり、太い線のようになって、ナオミは鞄を頭の上へ掲げて走りだした。

 ぱしゃぱしゃと跳ねあげる水が、靴下にかかって気持ち悪い。ここからもう少し先の、ビルの影までいけば、少しは雨も防げそうだけれど……

 そう思いながら小さな十字路を一気に駆け抜けようとしたとき、プップーと、車のクラクションの鳴る音がした。

 はっとして立ち止まろうとした瞬間、足を滑らせた。

 びしょ濡れの地面にしりもちをつく。

 車が目の前を走り抜け、水たまりの水が勢いよく制服にかかった。

 涙がじわりとにじんできた。

 あまりにもみじめだ。

 いっそこのまま、雨に溶けて消えてしまいたい。

 頭のてっぺんから、雨は容赦なく振り続けている。

 その雨粒が、突然消えた。

「だいじょうぶ?」

 見あげると、傘をさした霧島が立っていた。

 雨が降っていて、よかった。

 泣いているのは、気づかれなかったに違いない。

 ナオミは立ちあがった。

「ありがとう」

 今度は素直に言えた。

「ちょっと、足、滑らせちゃって」

「うん」

「バカだね、私」

 霧島は何も言わなかった。

 代わりに、十字路の角にあった喫茶店を指さした。

「服、乾かしてく?」

 個人が趣味でやっていそうな、こじんまりした喫茶店で、前から気になっていたけど、入ったことはない。

「先生に怒られないかな」

「見回りに来ないよ、こんな日に」

「そっか、そうだよね」

 店の入り口で、水を含んだスカートをぎゅっと絞ってから、中に入った。

 店の中は思った通り狭かったが、居心地はよさそうだった。

 席に着くと、霧島は慣れた様子でコーヒーを頼み、ナオミはホットミルクティーを頼んだ。

「よく来るの、ここ?」

「時々ね」

「一人で?」

「うん」

 不思議な人だなと思いながら、ナオミは霧島の様子をうかがった。

 何を考えているのかよく分からない。

 でも、考えてみれば、ナオミには他のクラスメートのこともよく分からなかった。

「霧島さん、今日、ホームルームの時間、いなかったね」

「ちょっと体調が良くなかったから休んでた。どのみち、修学旅行には行かないし」

 ナオミは驚いた。

「行かないことって、できるの?」

 そう尋ねると、霧島はちょっとあいまいな表情をした。

「俺の場合は特別かもしれない。先生と話したんだ」

「ああ、そっか」

 二年も同じところに、しかも、年下ばかりの同級生と出かけるのは、苦痛かもしれない。

「いいなあ。私も行きたくないなあ、修学旅行」

 ナオミは頬杖をついて、窓の外の雨を眺めた。

「台風でも来て、修学旅行が中止になればいいのに」

「仮病使えば?」

「えっ?」

 ナオミは驚いて霧島を見返した。

「そんな勇気ないよ」

「勇気、いる?」

「いるよ」

 ナオミは息を吐きだした。

「みんな、私が強い子だって言うけど、そんなことない」

 友達を作ることもできない。クラス委員を辞めることもできない。仮病でさぼることもできない。

 自分には、逃げ場がない――

「霧島さんは、友達がいなくて良かった、って言ってたけど……私はそんな風に思えない」

 声が震えそうになった。

「私も、霧島さんみたいに強くなれたらいいのに」

「強くないよ、俺は」

 霧島が言った。

「どちらかといえば、臆病者だと思う」

「本当?」

 ナオミは、霧島の顔をうかがった。

 卑屈な様子も、恥ずかしがっている様子もなく、ただ事実を述べているという風だった。

「霧島さんは、堂々として見えるけどな。すごく落ち着いてる」

「まあ今はね……落ち着いて見えるかもしれない」

「どうやって強くなれたの?」

 ナオミは尋ねたが、霧島はちょっと笑って頭を振ったきりだった。

「私って、コミュニケーションが下手みたい。人の気持ちを読み取ったりとか、苦手みたい」

 ナオミはつぶやいた。

「だったらいっそ、心なんてなかったら、楽なのに。傷つけたり傷ついたりしなかったら、苦しくもないのに」

 霧島は、ナオミの様子をじっと見つめていた。

 穏やかな瞳を見返すと、今までずっと我慢していたものが、溢れだしそうになった。

「今度のホームルーム、修学旅行の班決めだよね」

 誰がどういう風に組むかはだいたい想像がつく。

 ナオミを班に誘ってくれる友達はいないだろう。

 それ以上何か話したら、また泣いてしまいそうだった。

 ナオミは唇を噛んで横を向いた。

「雨、止んだみたいだ」

 霧島がつぶやいた。

「そろそろ出ようか」

 ナオミは唇を噛みしめたまま、うなずいた。

 店を出て、駅へ向かう間、ナオミは霧島から一歩遅れて、黙々と歩いた。

 なぜ霧島にこんな話をしたのだろうと後悔し始めていた。

 急に打ち明け話をされて、霧島さんは困惑しただろう。友達はいらないって、はっきり宣言されたのに。ちょっと優しくしてくれたからって、甘えすぎだ。

 霧島は振り返らず、かといって足を速めるでもなく、落ち着いた様子で歩いていた。

 駅で別れ際に、霧島が言った。

「来週、もし我慢できなくなったら、声かけて」

 一瞬、意味が分からず、問い返そうとすると、続けてこう言った。

「いいおまじない、教えてやるから」

 じゃ、と手を挙げると、霧島は改札の向こうに消えた。

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