第40話 けんか

 気がつくと、外はすっかり薄暗くなっていた。

 ナオミはノートを鞄にしまい、校舎を出た。

 下駄箱のところへ行った時、クラスメートの女の子が靴をとりだそうとして、何やらもたもたしているのに気がついた。

 地味な目立たない生徒のせいか、ぱっと名前が出てこない。

 女の子はとうとう、靴を落とし、ついでに学生鞄も落として、派手に中身をぶちまけた。

 転がってきた消しゴムに、藤原、と書いてあるのを見て、ようやく思いだした。

 藤原 梨乃(りの)だ。

 消しゴムを拾って渡すと、

「ありがとう」

 梨乃が恥ずかしそうにお礼を言った。

「部活の片づけが、遅くなっちゃって」

「なんの部活だっけ?」

「吹奏楽部。水城さんも部活で遅くなったの?」

「私は、修学旅行のコースを調べてたから」

 ナオミはささやかな嘘をついた。

「修学旅行かぁ」

 梨乃がため息をついた。

「行きたくないなぁ」

 何気なく漏らされた一言に、ナオミは驚いて、梨乃を見た。

 ここにも同じことを考えている子がいたなんて。

「あ、ごめんなさい。今のは忘れて……」

「ううん。ほんとは私だって、行きたくないし」

 梨乃は驚いた顔をした。

 一度口に出してしまうと、すっきりした。

「京都は、子供のころ何度も行ったし、お寺なんかにも、興味ないし」

「そうだよね。水城さんはずっと、海の向こうにいたんだもんね」

 すごいなあ、と、梨乃がつぶやく。

「私、今度の吹奏楽部の発表会の曲が、まだうまく弾けないんだ。いつも音程を外して、みんなに迷惑をかけてばっかりだから、修学旅行になんか、行ってる場合じゃないって思っちゃう」

「えらいな、真面目なんだね、藤原さんは」

「ううん。そんなことないよ」

 梨乃はため息をついた。

「そうやって、自分に言い訳してるだけかも」

「言い訳?」

「バスの席決めで、ちょっともめちゃって、グループの子とけんかになったんだよね。なんだかこんな空気で長い時間過ごすの、嫌だなーって思っちゃって」

 梨乃は冗談めかして笑いながら言ったが、そうか、梨乃も苦労していたんだなとナオミは思った。

 梨乃の入っているグループは、ちょっと気の強い篠原 葵がリーダー格だ。葵の機嫌を損ねたのなら、グループにいづらくなってもおかしくない。

「ボイコットしちゃおっか」

 ナオミは何気なく言ってみた。

「え?」

「一緒にさぼっちゃおうよ、修学旅行」

 梨乃は目をぱちくりさせていたが、噴きだした。

「あはは、いいね」

「霧島さんも来ないって言ってたよ」

「本当?」

「うん。旅行に行かなければお金も節約できるし、吹奏楽の演奏の練習もできるし、一石二鳥じゃない?」

「たしかに、お小遣い、浮くなぁ」

「でしょ。私、吹奏楽部の発表会、応援に行くよ。その後、浮いたお金で、一緒にお茶でも飲もうよ」

「うんうん」

 梨乃は笑っていたが、ふと言った。

「でも、委員長が来なかったら、みんな困るんじゃないかなあ」

「困らないよ。私なんかいなくても、誰も」

 そう、誰も困らない。

 私が修学旅行に行かなくて、さみしがる人なんかいない。

 霧島さんだって行かないわけだし。

 一瞬、ちらっと双葉先生の顔が浮かんだ。

 そう、あの人は哀しそうな顔をするかもしれない。クラスの子が二人も三人も休んだら。

 でも、そんなのは私の知ったことじゃない。

 校門まで一緒に歩いた。

 梨乃は、ナオミとは、反対側の駅から登校しているようだった。

「それじゃあ」

 駅まで一緒に歩けたらよかったと、ちょっと残念に思いながら、手をあげた。

「うん、またね」

 またね、というのは、いい響きだな、と思った。


 その数日後のことだ。

 廊下を歩いている時に、誰かの声を耳にした。

「うっそー、それ、ありえなくない?」

 思わず足を止めたのは、その声に、どことなく意地悪な響きを感じとったからかもしれない。

 話しているのは、葵だった。同じグループの数名の女子が周りにいた。梨乃もいる。

「委員長が修学旅行サボるなんて、ちょー無責任じゃん」

 ナオミは凍りついた。

「京都なんて子供の行くところだって? そんな理由でさぼるわけ? マジ、ウケる」

「お小遣いが浮くとも言ってたけど」

 そう言った梨乃は葵の向かいで、一緒になって笑っている。

「冗談だとは思うんだけど……修学旅行のコースについて調べてるって言ってたし」

「冗談でも、さぼりたいなんて言う奴にコース決められたくないって」

 あいづちを打とうとした梨乃が、ナオミの姿に気づいて、気まずそうに押し黙った。

 振り返った葵と、一瞬だけ目があった。

 葵は、ついと顔をそらし、小声で別の話題を話し始めた。

 ナオミはそのまま彼女たちの脇を突っ切って、教室へ向かった。

 心臓が苦しかった。

 どうして?

 疑問符が頭の中で渦を巻いた。

 放課後の梨乃を思いだしてみたが、笑顔しか出てこない。

 あの時にこにこしていた梨乃は、心の中では、私をバカにしていたんだろうか。私の言っていることが間違っていると思うなら、目の前ではっきりそう言ってくれればいいのに。

 なぜよりによって、けんかしたはずのグループの子たちに告げ口するんだろう。

 なぜ一緒になって悪口を言っているのだろう。

 教室へ入って、じき、授業が始まったが、さっき見た光景が脳裏に焼きついて、先生の話もほとんど頭に入らなかった。

 ホームルームで、修学旅行の議題をあげたら、葵たちがどんな反応をするか、考えるだけでも怖かった。

 さぼるなんて言っていたくせに、と、意味ありげに目くばせしたりするんだろうか。

 班決めの時、どこのグループにも入れてもらえなかったら? ああ、あの人「ぼっち」だから、だからさぼりたかったんだろうね、と、陰口を叩かれるに決まってる。

 もう限界だ、と思った。

 転校したい。逃げだしたい。

 いっそ双葉先生の物語のように、遠い未来の世界に行ってしまえたら、どんなにいいだろう……

 放課後、ナオミは史学準備室へ行ってノートを広げた。

 校門から駅まで、みんなと一緒に並んで歩くのが嫌だったのだ。

 そうして続きを読み始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る