第44話 闇の中から伸びる手

 翌日も、ナオミは一日、ペンダントをつけて過ごした。

 ペンダントをつけていると、授業もすんなり頭に入ってきたし、休み時間も、逃げるように席を立たずに、教室の中でみんなを観察していられた。

 教室で談笑しあう生徒達を見ていると、いつもは胸がざわついたものだった。

 独りぼっちでいる自分を、あざけっているのではないか、哀れんでいるのではないかという気がして。

 けれど、みんなナオミのほうを見ていたりしなかった。

 みんなそれぞれの友達づきあいに一生懸命で、他人のことなど気にしてはいられない。

 冷たいとは思わなかった。自分だって、クラスの子たちの事情をいちいち把握してなどいない。

 嫌がらせされるからわずらわしいのであって、放っておいてもらえるのなら気楽なものだ。

 昼休み、中庭で食事をしながら、携帯で裏サイトを覗いてみた。


  N、修学旅行さぼるらしいよ。

 >まじで。クラス委員なのに?

 >ちょー無責任じゃん?


 一人に話したことが、もう噂になっているらしい。よほど暇なのだろうか。ご苦労な話だ。

 ホームルームで檀上に立つのも、今では怖いとは思わなくなった。

 好きなように言わせておけばいい。陰でこそこそ言おうと、痛くもかゆくもない。

 もし本格的に嫌がらせをしてきたら、その時はこちらも実力行使に出るまでだ。

 昼食を終えて教室に戻ると、葵が隣の子へ意味ありげに目くばせしたのが見えた。

 それで思い当たった。

 さっきのサイトの書き込みをしたのは、葵だ。

 思えば、今までナオミの悪口を率先して書きこんできたのも、葵かもしれない。

 三十人もいるクラスメート全員がナオミの悪口を書きこむなんて、考えてみたら不自然だ。首謀者はせいぜい数人といったところで、他は適当に調子を合わせているか、障りのないように傍観を決めこんでいるに違いない。

 教室のみんなは、ひそひそと何か小声で話し合っている。

 いつものナオミだったら、自分の悪口を言われていると邪推したかもしれない。

 けれど、こうして落ち着いてみると、何を話しているかはおおかた想像がついた。みんなが気になるできごと、修学旅行のルートと、午後の班決めの件だろう。あるいは、バスの席順。あぶれないように、同じグループ内でもできるだけ気の合った子と座れるように、今のうちに必死になって根回ししている。

 頭が冴えてきたようで、いろいろなことがはっきり見える。

 ホームルームに霧島の姿はなかった。行きもしない修学旅行のために、時間をつぶすなんてバカらしいと思っているのかもしれない。

 ナオミとしても、行きたくもない修学旅行のために、あれこれ努力したり思い悩んだりするのがバカバカしくなってきた。

 みんなに文句を言われながら、自分が必死に音頭を取る理由なんてどこにもない。ナオミを無責任だと非難した誰かが、頑張ってみんなをまとめればいい。

 双葉先生が教室に入ってきた。

 ナオミは立ち上がり、双葉先生に近づいて、小声で言った。

「すみません、保険室に行っていいですか」

 双葉先生は、戸惑った顔を見せた。

「どうしたの。どこか具合が悪いの」

「気分が悪くなりました。いろいろ嫌がらせをする人がいるので」

 前のほうの席の子には聞こえたようだ。

 落ち着かなげにこっちを見る子、聞こえなかったふりをしている子もいる。

「どういうこと? 水城さん……」

「後でゆっくり話します。ホームルーム、お任せしていいですか」

 ナオミは双葉先生の脇を抜けて廊下に出た。

 後ろから双葉先生が何か言ったが、ナオミは振り返らなかった。

 これでいい。うんと心配すればいい。

 先生も。みんなも。

 この場に私がいる必要はない。

 班に入れなくたって、最後には、余ったグループのどこかに割り当てられるだろう。

 修学旅行なんて、本当にさぼってしまったって構わない。

 ナオミは、階段のほうへ向かった。

 保健室ならこの下だ。けれど、ベッドで横になっている気分にはなれなかった。

 史学準備室へ忍び込んでノートの続きを読んでもよかったが、鞄は教室に置いてきてしまった。

 階段は上と下と両方へ伸びている。

 もし、と、ふと思った。

 もしこのまま、屋上へ行って飛び降りたら、みんなどんな顔をするだろう。

 ナオミはおかしくなって微笑んだが、すぐにその想像を打ち切った。

 今の状況で、屋上から飛び降りるのは、少々やりすぎだろう。まだあのノートも読み終わっていないし、人生を終わらせるのに、今ではきりが悪すぎる。

 それよりもっといい方法がある。

 ナオミは階段を下りるのはやめて、渡り廊下を通って特別校舎へ向かった。

 ノートの中で、絆がこころのメッセージを聞いた渡り廊下だ。

 人の少ない特別校舎は、ひんやりして気持がいい。

 いくつかの教室では、他のクラスが授業をしているらしく、中から先生の声が響いてきた。足音を立てないようにして下へ降りる。

 一階までやってきた。この少し先に、化学室がある。

 ナオミは、有機溶媒の臭いと、部屋に並んだ奇妙な実験器具のことを思いだす。古瀬先生も授業中だろうか。

 ナオミはそのまま、階段の下を覗きこんだ。

 ここなら、しばらく誰にも見つからないだろう。消えてしまったナオミを探して、双葉先生もクラスメート達も心配するに違いない。

 電気をつけず、そのまま踊り場まで降りて、元来たほうを振り仰いだ。

 一階の明るい廊下が、四角く切り取られた絵のように見えた。

 左手には、暗闇が続いている。

 ブラウスの下から、ペンダントの青い光が滲みだしていた。

 ナオミは胸元に手を入れて、ペンダントを取りだした。

 目が慣れてくると、ごくわずかだが、周囲の様子が見えてきた。

 壁に手をつきながら、四段降りた。

 その先にある壁にもたれかかって、しばらく暗闇の中で座りこんでいるつもりだった。

 けれど、先に延ばした手は空をかいた。

 ナオミはそろそろと足を延ばした。

 もう一段。

 まだ先がある。

 そこにあったはずの壁が、いつの間にかなくなっていた。

 あのノートに書かれていたのは本当のことだったのだろうか? まさか。

 この先には未来へ行く装置が置かれていて、恐ろしい、美しい、謎めいた未来の世界へつながっているのだろうか。

 ナオミはゆっくりと、足元を探りながら階段を降りはじめた。

 そろそろと階段を降りていくと、頭の中が空っぽになっていく。階段を降りる単調なリズムが、時間の感覚を奪う。

 いつから降りはじめたのか、どこまで降りていくのか、分からなくなってきたころ、ふいに、誰かに足首をつかまれた。

 ナオミは足を引き抜こうとしたが、逃れられない。

 強い力でぐいとひかれ、ナオミは階段に転がった。受け身もとれず、体をしたたかに打つ。

 反対側の手が、胸元に伸びてきて、ペンダントをもぎとった。

 ふいに、恐怖がナオミを襲った。

「嫌、助けて……!」

 みんなが心配して探し回るまで、暗闇の中でじっと待っていようと思った。そのまま闇に溶けて消えてしまってもいいとさえ考えていた。

 けれど、こうして危険が迫ってくると、恐ろしくて心臓が止まりそうだった。

 ナオミは必死に見知らぬ誰かの手から逃れようとした。

 体をよじり、むちゃくちゃに手足を振り回した。

 追いすがる手を蹴とばし、階段を這い登る。

 逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。

 はるか向こうに、小さな光が見えた。なんとかあそこまでたどりつかないと。

 そこで意識が途切れた。

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