第45話 消失

 気づいた時、ナオミは踊り場にいた。

 身体の痛みは、いつのまにか消えていた。

 片側には闇が、反対側には光が見えた。

 夢を見ていたのだろうか。

 確かめる気にはなれなかった。振り返るのさえ怖かった。

 ナオミはよろめきながら立ち上がり、階段を上った。

 もう夕刻になっているらしく、オレンジ色の夕日が、斜めに校舎の中へ差しこんできていた。

 教室へ帰ると、もう誰も残っていなかった。

 ナオミはどこかほっとして、鞄を取り上げた。

「水城さん……!」

 教室を出ようとするところで、向こうから小走りに双葉先生が駆けてくるのに出くわした。

「どこへ行っていたの。保険室にもいないようだったから、さっきから探していたのよ」

 青ざめた顔をしている。

「すみません。階段を降りたところでめまいがして、少し休んでいたんです」

 双葉先生はますます心配そうな顔になった。

「大丈夫? 車の先生に頼んで、一緒に病院へ行きましょうか」

「大丈夫です。心配かけてすみませんでした」

 双葉先生は何か言いたそうだったが、その時うまい具合に携帯電話が鳴った。

 ナオミは小さく頭を下げ、双葉先生が誰かと話しているすきに、教室から逃げだした。


 霧島に声をかけられたのは、翌朝のことだ。

 下駄箱で靴を履きかえていると、まるでナオミが来るのを待ち構えていたみたいに、柱の影から姿を現した。

 霧島の様子は、いつもと違って見えた。真剣な顔で、睨みつけるようにされて、ナオミは思わず後じさった。

「なんで昨日黙って帰ったんだ」

「え……?」

「ペンダント、返してくれ」

 その言葉で、ナオミは前の日のことを思いだした。

 昨日起きた出来事が、頭の中を駆け巡った。

 階段の先の、存在しないはずの地下室へ歩いていって、暗闇で人に襲われて……その後、どうなったのだろうか?

 ぼんやりと脳裡に浮かびあがった光景があった。

 そうだ、あの後、ナオミはどうやってか、見たこともない奇妙な部屋へ連れていかれたのだ。

 薄明かりに包まれたその部屋が広かったのか狭かったのか。家具はひとつもなかったし、窓もなければ照明らしきものも見当たらなかった。距離感を狂わされるようで、どこから壁でどこから天井なのかも判然としなかった。

 ナオミはその部屋のベッドか何かに横たえられていて、起き上がろうとしても、身体はぴくりとも動かなかった。

 誰かがナオミを見下ろしていた。

 どんな顔だったのか思いだせない。

 相手の顔に焦点を合わせようとしたけれど、まるで急に視力が落ちたかのように、ぼやけてしまって顔かたちがうまく捕えられなかった。

 代わりに視界に飛びこんできたのは、あのペンダントだった。

 相手はナオミの前に、ペンダントをぶら下げ、尋ねた。

『どこで手に入れた?』

 低い声か高い声か、脅かしているのか、それとも優しく聞いているのか、男性なのか女性なのかすら分からなかった。

 夢の中で会話しているように、音を飛び越して、ただ意味だけが頭の中に流れこんできたようだった。

『誰からもらった?』

 あの時、なんと答えただろう。

 答えようにも、唇さえも開けなかったはずだ。けれど……

「返せって言ってるんだよ」

 霧島が、手を差し出した。

 いつになく苛立って見えた。いや、むしろ切羽詰まった様子といったほうが近かったかもしれない。

「なくしちゃったの」

 ナオミは小声で答えた。

 霧島は、目を見開いた。

「なくした? いつ? どうやって?」

「分からない。昨日、ホームルームの時間に、地下室へ向かったら……」

「ホームルーム? なんでホームルームの時間に地下室なんかに行くんだよ? っていうか、この学校に地下室なんてあったか?」

「教室にいたくなかったの。どこかで一人で過ごそうと思って、階段を下りたらその先があって……。そうしたら、誰かが私から無理やり……」

 ナオミは必死で訴えたが、霧島は話を聞いていないようだった。険しい顔になって、声を荒らげた。

「来週のホームルームが終わったら、必ず返すように言っただろ……!」

 霧島はその日体調がすぐれず、三時間目からずっと保健室で寝ていたという。できることなら途中で早退しようと思ったぐらいだった。

 だが、ナオミからペンダントを返してもらう約束だったので、ホームルームの終わる少し前に、教室へ戻った。

 授業が終わってから、双葉先生に、ナオミがどうしていたか尋ねられて、驚いた。

 ナオミは保健室へなど来ていなかった。

 霧島の話を聞いて、双葉先生も青ざめた。

「双葉先生と、残ってた生徒何人かで、手分けして探したんだ。史学の準備室から屋上、中庭、体育館、思いつくところをすべて探してもいなかった」

 双葉先生は、ナオミの家に連絡を取ることに決め、最後にもう一度教室を覗きに来た。そこでナオミと出会ったというわけだ。

「なんでさぼったりするんだよ? ホームルームに出るのが怖いっていうから貸したのに。さぼるなら、初めからおまじないなんていらないじゃないか!」

「初めはそんなつもりじゃなかったの。でも、なんだか急に嫌になって……」

 ナオミは口ごもる。

 ペンダントのお陰で、壇上に立つのが怖いという気持ちはなくなっていた。

 ただ、どういうわけか、急に気が進まなくなった。クラスメートが自分を心配して探し回るなら、いい気味だと思ったのだ。

 けれど、そんなあいまいな理由を、霧島はとても受け入れてくれそうにない。

「大事なものだって、言ったろ!」

 霧島は声を震わせた。

 あのペンダントはなんだったのだろう、と、ナオミは戸惑いながら思う。

 すごく高価なもの? 誰かの形見?

「ねえ、あのペンダントはどういうものなの? すごく貴重なものなの?」

 霧島は答えない。

「もしかして、双葉先生にもらったもの?」

「……そうだ」

 二人がつきあっているという噂は本当だったのだろうか。

 どういうわけか胸がざわざわした。

 ナオミは思わず、ぶっきらぼうな調子で尋ねた。

「そんなに大事なものなら、どうして私に貸したりしたの?」

 霧島が、怒りで顔を赤く染めた。

「君は人の気持ちを考えたことがあるのか」

 ナオミはショックを受けて黙りこんだ。

 霧島がきびすを返した。

「聞いて、私、地下室で襲われそうになったんだよ」

 背中に向かってそう言ってみたが、返事はない。

「わざとなくしたんじゃないの……霧島さん!」

 ナオミはしばらく、下駄箱の前に立ちつくしたままだった。


 おそるおそる教室へ足を運び、霧島が来ていないのに少しほっとしながら、ナオミは席についた。

 霧島は、史学準備室へ行ったのかもしれない。双葉先生に話をしに行ったのかも。

 少しずつ、生徒たちがやってきたが、さっきの出来事が頭の中に渦巻いて、周りの様子を見ている余裕もなかった。

 霧島があんな風に怒るところを初めて目にした。

 ナオミは哀しくなり、困惑していた。

 人の気持ちを考えたことがあるのか。

 霧島に言われた言葉が、胸の奥に突き刺さったままだった。

 あんなこと、言われたくなかった。

 せめて、そう、霧島にだけは。

 私に何ができただろう。

 どうすれば、ペンダントを奪われずに済んだのだろう。

 落としたのなら、なくしてしまったのなら、たしかに自分が責められるべきだ。けれど、誰かに奪われるなんて考えてもみなかった。

 大事なものだとは聞いたけど、誰かに狙われるような貴重なものだとも思っていなかった。知っていればもう少し上手に隠していたかもしれないけれど。

 言い訳がぐるぐる頭の中を回っている。

 人の気持ちを考えたことがあるのか。そう責められたけれど、霧島さんだって、私の話を聞こうとしてくれなかったじゃない。

 地下へ続く秘密の階段。ペンダントどころか、下手をすれば命を奪われるかもしれない危険な状況だった。だけど、襲われそうになったと言っても、霧島さんは振り返ってくれなかった。霧島さんには、私の命なんかより、ペンダントのほうが大事なんだ。双葉先生にもらったペンダントのほうが。

 ガラリと扉が開いて、双葉先生が教室へ入ってきた。

 どんな顔をしているだろう、霧島と同じように腹を立てているだろうか、と、様子をうかがったナオミは、自分の目を疑った。

 入ってきたのは、双葉先生ではなかった。

 見たこともない、別の先生だった。

「おはようございます」

 先生はにこやかに微笑み、出席を取りはじめた。

 ナオミは、隣の席の男子に小声で尋ねた。

「あの先生、誰?」

「誰って、若草先生だろ、担任の」

 担任? いつの間に新しい先生が来たのだろう。

 昨日のホームルームで、何か決まったのだろうか。

「双葉先生は、どうしたの?」

 男子は、怪訝そうな顔をした。

「双葉先生って、誰?」

 背筋が薄ら寒くなった。

 嘘だ。こんなことありえない。

 担任の先生を、あんなに面倒見がよくて鬱陶しいくらいの先生を、忘れるなんてことはありえない。

「水城 ナオミさん」

 若草先生が通りのよい声で、名前を呼んだ。

 昨日までここにいたのに。

 双葉先生の身に、何が起きたのか。

 地下室でナオミの身に起きたことと、何か関係があるのか。

「水城 ナオミさん?」

「……はい」

 ナオミは、かすれた声でそう答えるのがやっとだった。

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