第43話 静かな人々
「へぇ、またここにいたのか」
声をかけられ、ナオミはあわててノートを閉じた。
霧島が、ドアを開けて入ってきたところだった。
霧島の顔を見て、ナオミは思わず口走った。
「……おまじない」
霧島が小さく首を傾げた。
「この間さ、おまじない、教えてくれるって言ったじゃない?」
「ああ」
はー、と、大仰にため息をついてから、ナオミは努めて明るい声で言った。
「私、もうゲンカーイって感じ、なんだよね」
へへっと、肩をすくめ、笑ってみせる。
「なんだかもう、疲れちゃった。学校に来るのも、生きていくのも」
「生きていくのも?」
霧島が、驚いたように聞きとがめた。
「だって、ちっともいいことないんだもん。辛いばっかりでさ」
ちょっといいことがあったと思ったら、結局辛い結末に終わった。
どうしていつも、ああいう結末になるんだろう。
私が何かいけないことでもしているんだろうか。
もしそうなら誰か教えてほしい。どうやったらうまく生きていけるのか、みんなとうまくやっていけるのか、教えてほしい。
「正直、ホームルームに出るのが怖くって」
ナオミは言った。
「みんなの意見をまとめなきゃならないのに。もう、みんなの前に立ちたくない」
霧島は、しばらく黙ってナオミを見つめていたが、やがて机のそばまでやってきて、身をかがめた。
「秘密は守れる?」
ナオミはドキリとして、身を引いた。
「秘密って」
「このことは誰にも言わないって、約束してほしい」
「うん……」
ナオミがうなずくと、霧島は、ひとつ、ふたつ、シャツのボタンを外した。胸に手を入れて取りだしたのは、いつか見た青いペンダントだった。
「これ、貸してやる」
「いいの……?」
霧島はうなずき、机の上にペンダントを置いた。
「大事なものだから。来週のホームルームが終わったら、必ず返して」
「分かった……」
霧島はきびすを返し、ドアの向こうに出て行った。
ありがとう、と言い忘れたことに気づいたのは、霧島の足音が消えてからだった。
大事なはずのものをなぜ自分に貸してくれたのかも、聞きそびれた。
これはどういうおまじないなんだろう。
青く不思議な色に輝くペンダントには、まだわずかに、霧島の肌のぬくもりが残っていた。
しばらくためらってから、ナオミはそっとそれを取りあげ、首にかけてみた。
胸の鼓動が、すうっと静まっていくような気がした。
深呼吸すると、ナオミは再びノートに目を落とした。
『次に目を開けたとき、私は固い石のベンチに横たわっていた。
高い窓から、光が漏れ、床に四辺形の模様を落としている。
身を起こして、周囲を見回す。
床は水色のタイルでできており、壁はしっくいのようなもので塗り固められている。
小さな部屋にいるようだ。
二人の姿は見当たらない。立ちあがると、足元がふらついた。
「悟さん!」
声が、部屋の中に反響した。
「悟さん……! リナさん……!」
ドアを押して外へ出た。
広い廊下が続いていた。
足元には、青い模様のタイルと、白いタイルが交互にどこまでも並んでいる。
夢で見た景色とそっくりだ。
辺りは静かで、少し先の廊下で、白い服を着た女の人が一人、身体をゆらしながら、ぼんやりとたたずんでいた。
「すみません……」
声をかけたが、返事をしてくれない。
悟さんとリナの名前を呼びながら、私は廊下を歩いていった。
やがて、少し広いホールに出た。
そこでは、幾人かの人が、思い思いの朝業にふけっていた。
男の人が、地面に膝をついて、色のついた砂で、絵を描いている。曼荼羅のような複雑で抽象的な模様だ。
ホールの周囲は一段高くなって椅子のようになっており、そこで女性が本を読んでいる。
ボールをついている女の子もいれば、積み木を並べている男の子もいる。
廊下の奥からは、ピアノの演奏が聞こえてくる。ゆっくりしたテンポの私の知らない曲で、耳慣れない和音で構成されていたが、とてつもなく純粋な、どこか透き通った感じがする。
だが、全体的な印象は、<静寂>だ。音と音の合間が、<静寂>でいっぱいに満たされている感じがある。
「すみません」
私は声を張りあげた。
ホールの中に、声が反響して響き渡ったが、誰も振り返ってくれなかった。
「人を捜しているんです。誰か、ここを通りかかりませんでしたか」
ボールをついていた女の子が、ちらりと顔をあげた。その隙に、ボールが手を離れて、私のほうへ転がってきた。
私はボールを拾いあげて、女の子に歩みよった。
女の子は、目を見開いて、凍りついたように立ち尽くしていた。
私はかがみこんで、女の子の目を覗きこんだ。
「だいじょうぶ、何もしないよ。お姉さん、迷子になっちゃったみたいで。ここを通りかかった人、見なかった?」
ボールを手渡そうとしたとたん、ハプニングが起こった。
女の子がボールをひっぱたき、転がっていったボールが男の砂絵の上へ乗りあげて、作品をめちゃくちゃにしてしまった。
男が金切り声をあげた。
向こうで積み木をしていた男の子は、積み木を蹴り飛ばして走りだし、壁に頭を打ちつけはじめた。
本を読んでいた女性は、本を放りだして、なにか喚きだす。
静かな世界に突然沸き起こった喧騒に、私は愕然とし、恐ろしくなった。
何が起きたのかさっぱり分からなかった。
ここの人達は、みんなどうかしてる……
自分も泣きだしたい気分に襲われたとき、向こうに見知った人影が見えた。
「悟さん!」
走り寄ろうとしたとたん、ぐらりと床が揺れた。
ホール全体がゆっくりと回りだす。それにあわせて、天井から射す光と影が、交互に流れてゆく。
光、影、光、影。そのくりかえしには、どこか催眠効果があるようで、頭がぼんやりしてきた。
周りの人達もしだいに静かになっていく。
「だいじょうぶ?」
悟さんが近づいてきて、助け起こしてくれた。
「ここは<静かな人々>の住む街だ。急に話しかけられて、自分の世界を侵害されると、パニックを起こしてしまう。ここの人々は、<感情>を恐れているから」
「感情を恐れている?」
「ああ、感情は予測不可能だからね。その代わり、彼らはそれぞれ特別な才能も持っている。だから、<賢人街>と呼ばれている」
よく分からなかったが、ここにも、実験の過程で生まれた奇妙な人々がいるようだった。
「私……気がついたら向こうの部屋に寝ていて。何があったんでしょうか」
「分からない」
悟さんが首を横にふった。
「僕はリナの乗り物の中で目を覚ました。君もリナも姿がなかった」
悟さんが気がついた時、乗り物の中に一人きりで、しかも別の目的地に向かう途中だったらしい。
すぐに賢人街へ目的地をセットしなおしたが、ここへ来るまでに少し時間がかかったという。
ぞくりとした。
ビッグ・マザーを殺した犯人が、あのUFOにまで何か細工をしたということがありえるだろうか。
だが、目的が分からない。なぜ私だけここで降ろしたのか。悟さんをどこへ連れていこうとしたのか。
「何があったんでしょう。リナさんは無事でしょうか」
「分からない。連絡を取ろうとしてみたが、つながらない」
不安が募ったが、悟さんとこうして会えただけ、有難かった。
「君が夢で見た場所は、ここ?」
「そうだと思います」
私はうなずいた。
「こころを見なかったか、聞こうとしたんですけど……ここでは無理ですね」
話しかけただけでパニックになってしまう人々相手に、どうやって話を聞けばいいというのだろう。
悟さんのような感応力者なら、言葉を介さずとも、彼らの心のうちのイメージを読み取ることができるかもしれない。
だが、彼らは、誰が通ったかさえ見ていなかったのではないか。
私はそう思ったが、悟さんは静かに言った。
「ここの人たちは、他人に関心を見せず、まるで見えていないようなふりをしている。でも、まるきり他人に関心がないわけじゃないし、人を嫌っているわけでもない。やりようによっては、ある程度のコミュニケーションは成立する」
「どうしたらいいんですか?」
「試してみようか」
悟さんは、女の子のすぐ隣に腰をおろした。
女の子は、今は地べたに座って、ぼんやりした表情で、膝を叩いている。
悟さんが、同じように膝を叩き始めた。
ほんの少しだけ、悟さんのほうが早い。
いや。
女の子の膝を叩くリズムが、いつのまにか悟さんと同じ速度になっている。
少し遅く。
別のリズムで。
ふたつの音がぴったり重なりあって、追いかけっこを始める。
と、悟さんが膝を叩くのをやめ、代わりにボールをつき始めた。
女の子はボールと合わせて膝を叩いているが、さ迷わせる視線が、時々悟さんの辺りをさっと撫でるようになった。
悟さんのついていたボールが、大きく跳ねて、女の子のほうへ転がっていった。
女の子はボールをとりあげ、床につき始めた。
女の子がボールを大きくついた。
女の子の手元を離れて転がってきたボールを、悟さんは取りあげ、何度かついて女の子のほうに転がした。
女の子はボールを拾い上げ、またついて、しまいにボールを転がした。
女の子はボールだけを見つめているようだったが、悟さんのことを意識し始めたのは間違いなさそうだった。
二人の間を何度かボールが行き交った後、悟さんは、砂絵を書いていた男のほうへ歩み寄る。
先ほど、砂絵を描いていた男は、曼荼羅を修復し始めているところだった。悟さんは、男の作業を邪魔しないように、山になっているほうの白い砂を少し手に取った。
女の子のそばにやってきた悟さんが、さらさらと手から砂を落とした。
白い砂が地面に広がる様子を、女の子はボールをつくのをやめて、熱心に見ていた。
悟さんは再び立ち上がり、今度は黒い砂を持ってきて、白い砂の回りに落とし始めた。
今度は、白い砂の上に黒い砂を落とし、指でなぞる。
訳も分からないままその様子を眺めていた私は、ふいにはっとした。
タイルの上に、いつの間にか、髪の長い少女の姿が浮かび上がっていた。
こころーー!
「この子が、ここを通りかからなかったかな」
悟さんは半分独り言のように言った。
私は、息をつめて、女の子の様子を見やった。
「この子はここを通りかからなかったかな」
女の子は、砂絵を見つめたまま、オウム返しにつぶやいただけだった。
「この子は僕を待ってる」
悟さんは諦めずに繰り返した。
女の子がまたオウム返しにつぶやいた。
「この子はあなたを待ってる」
違う。これはオウム返しではない。
すると、女の子が出し抜けに、それまでと違った声で、まるでレコードを再生するみたいに言った。
「私を探しに来る人に伝えて。東の通路の奥、青の部屋で待ってる」
「東の通路の奥、青の部屋」
悟さんはつぶやき、女の子の足元に、何か置いて立ちあがった。子供たちにもらった、キラキラ光る紙でできた折鶴だ。
「ありがとう」
女の子は答えなかったが、折り鶴をじっと見つめていた。
「東の部屋へ行ってみよう。リナを探すのは、それからだ」
「はい」
ふりかえると、女の子は折鶴をとりあげて、天井からの光に輝く様子を、うっとりと見つめていた。』
ナオミはノートから顔を上げて、眉間を揉んだ。
どういうわけか、ノートの中身が、よく頭に入ってこなかった。
文字を追っていても、言葉をなぞっているだけのような気がする。
いや、ちょっと集中すれば意味は分かる。けれど、そこにあるのはただの文字で、自分とは関係ない別世界の話、絵空事だ。
今まで夢中で読んでいたのがどうしてだったか、よく分からなくなる。
ちょっと疲れたのかもしれない、と、ナオミは思った。
ノートを鞄にしまって部屋を後にし、校舎から外に出た。
校庭で、サッカー部の生徒達が練習をしていた。
誰かの蹴りあげたボールが飛んできたが、とっさによけそこねた。肩にボールがぶつかり、ナオミは顔をしかめた。
「ごめーん、大丈夫?」
向こうから、サッカー部員があわてたように駆け寄ってくる。
言葉を返すのもわずらわしく、ナオミは黙ってボールを拾い、投げ返した。
学校を出て、駅に着くと、ひどく混雑していた。
人身事故があったようで、電車に遅れが出ているという。
事故のアナウンスが入ると、誰かの舌打ちが聞こえてきた。
ホームにあふれ返った人たちは、イライラした様子で周囲を見回したり、携帯で電話をかけたりしている。
右往左往する人々は、どこか滑稽に見えた。
なぜこんなにみんな、あくせくしているのだろう。
ここにいる人々の五分、十分、十五分は、人の命より重いのだろうか。遅延証明をもらっても解決できないような、大切な用事があるのか。
人身事故は、ただの事故だったのだろうか、それとも身投げだろうか。
どちらでもいい。たいした違いではない。
これほど静かな気持ちになったのは、久しぶりだった。
怒りも憎しみも哀しみも、何もかも洗い流されてしまったかのようだ。
このペンダントは悟りを開く道具なのだろうか。
ナオミは、ブラウスの上から、チョーカーに触れてみた。
帰宅して風呂に入るまで、ナオミはペンダントを身に着けたままだった。
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