第42話 夢に見たもの

『いつのまにか、うとうとと、まどろんでしまったらしい。

 夢の中で、私は、トルコの宮殿を思わせるブルーのタイルでできた建物の中に立っていた。

 正確に言うと、自分がそこに立っていたのかどうか分からない。

 私は、実体を持たないカメラのようなもので、中廊下をまっすぐに渡っていく長い黒髪の少女の姿を追っていた。

 廊下の周囲には、幾人もの人が佇んでいたが、それぞれあさってのほうを向いて、少女のことには気づいていないようだった。

 明り取りから光が漏れ、タイルのパターンの上に、正確なリズムを刻んでいる。

 向こうの廊下から、ボールを手にした小さな女の子がやってきて、少女にぶつかりそうになる。

「ごめんなさい」

 少女が謝るが、女の子は心ここにあらずといった風に、またどこかへ走っていってしまう。

 少女は中庭のベンチに腰掛ける。

 ふいにその顔にカメラが焦点を結び、かすかに憂いを帯びた黒い瞳が、視界の中に現れる。

 私は思わず声をあげた。

 こころ……!

 声は音にならず、代わりにどこかから、チャイムの音が聞こえた。


 気がつくと、私はまだあのメルヘンチックな庭にいて、青々と草の生えたフィールドから、子供達を引き連れた悟さんが、戻ってくるところだった。

 肩車された男の子が、悟さんの髪をくしゃくしゃにして遊んでいる。両脇を、二、三人の子供たちが、跳びはねながらついてくる。

 誰かにもらったのか、胸には、さっきの女の子のと似た、折鶴がぶら下げられている。

「こら、やめろって」

 悟さんが笑いながら、男の子の手を優しく叩き、私に目を向けた。

 それは、今まで見たどんな笑顔よりも、ずっとずっと嬉しそうで、輝いていて、見ていて私は幸せな気持ちになった。

 この人、こんな素敵な笑い方もできるんだ。

 寝ぼけながら見とれていた私は、悟さんが照れたように目をそらしたのを見て、私の考えがすべて悟さんに筒抜けだったことを思い出し、恥ずかしくなった。

 急いで辺りへ目をさまよわせると、元来た建物のほうから、人影が近づいてくるのに気がついた。

 すらりとした長身に、ショートヘアの似合う小さな顔が乗っている。

 VOICEの基地で私を診断して、この子は嘘をついていない、と、請け合ってくれた人だ。

「……リナ」

 悟さんが驚いたようにつぶやいて、肩車していた男の子を地面に下ろした。

「あら、私が来たのが意外だった? 私のほうこそ驚いたわ。まさかこんな時に、のんびり子供と遊んでいるなんて」

「この子達と仲良くなれば、何か聞きだせるかもしれないと思ったんだ。マダムには来客中だと聞いたから」

 悟さんの言葉は、少しだけ言い訳がましく響いた。

 たぶん、悟さん自身もそう思ったのだろう。最後に小声でつけ加えた。

「すまない」

「構わないわ。あなたは別の実験もしているのだから。でも、優先順位は忘れないでほしい」

「分かってる」

 さっきのチャイムは、庭での運動の時間の終わった合図だったようだ。

 子供達が建物の方へ戻っていくのを見届けると、悟さんはリナに向き直った。

「大丈夫だ。二人の手がかりは、必ず探し出す。約束する」

「二人?」

「君は、ニセコを心配してここに来たんじゃないのか?」

「いいえ、アニマを探しにきたのよ。あなたは今不安定な状態だわ。そばにいて手伝ったほうが能率がいいと思っただけ。安心して。優先順位はわきまえているつもりだから」

 悟さんは、不審げな面持ちでリナを見返した。

「君は……ずいぶん落ち着いているんだな」

「弟が捕まったから、私が取り乱して、あなた達を追いかけてきたと思ったの? そうね……本当を言うと、話を聞いた後は、しばらく混乱していたわ。サルースに施術してもらうまでは」

「施術だって?」

「タイプDは感情が不安定な分、切り離しやすいそうよ」

 リナの言ったことが、私にはすぐには飲み込めなかった。

 悟さんはぎゅっと目を閉じて、頭を振った。

「なんてことを。リナ、君は……」

 そこでようやく気がついた。

 リナはお兄さんと逆のことをしたのだ。

 弟を連れ去られて混乱した。その辛さを忘れるために、感情そのものをそぎ落とした。

「感情を乱すと、目標の達成から遠ざかる。そう言ったのは、あなたじゃなかった?

 リナは微笑んだ。

「タイプDは、多感で情緒が不安定と言われている。確かにその通り、余分なものを捨てたら、気楽になったわ。つまり今の私は、前よりも有能というわけ」

「君はもともと有能だ。タイプDを侮辱するつもりで言ったわけじゃない」

「そうね、あなたが誰かを蔑むなんてできない。いえ、できなかった。少なくとも、感情を持たない間はね。だから私を哀れむのは止めてちょうだい」

 私はそっと悟さんの顔をうかがった。

 悟さんの表情はとても複雑で、私には何を考えているのか分からなかったけれど、リナを哀れんでいるようにはとても思えなかった。

 一言で言えば、ただ、やりきれない、そんな風に見えた。

「あなたがこんな風だったと、もっと早く知っていればね。心の中を覗いても、空っぽなの。喪失感を感じるだろうと思うのに、それすら感じない。私はあなたの本当の姿を知らずに、自分の感情をあなたに投影していたのね」

 悟さんは、しばらく沈黙していたが、やがて低い声で尋ねた。

「君は今の自分に満足しているのか」

「言ったでしょう。気楽になったって。自分の考えがはっきり見えてくる。周りの感情も、あなたの感じていることも、クリアに感じ取れる。無駄な葛藤を感じずに済むのは悪いものじゃないわ」

「ならいい。ただもし……いや、今は止めておこう」

 悟さんは半ば自分に言い聞かせるようにつぶやくと、別のことを尋ねた。

「君はアニマを探すためにここへ来たと言ったが、何か手がかりを見つけのか」

「マダムに会って話を聞いたわ。でも、残念ながら、一足遅かった。確かにアニマはここへ来た。でも、あなた達が来る前に、ここを去ったそうよ」

「ここを去って、どこへ行ったというんだ。ここよりもっと安全なところ……どこか思い当たるところが?」

 二人の話を聞きながら、私はさっき見た夢を思いだしていた。

 青いタイルの中を歩いてゆくこころ。

 周囲に佇む、無言の人々……

 悟さんが私のほうを見て、だしぬけに言った。

「絆、今君が思い浮かべたのは、こころのことだろう?」

「はい……いえ、でもただの夢です。さっき少しうとうとしてしまって……」

「ただの夢じゃないかもしれない。こころの感じた何かが、<逆流>で君の夢に紛れこんだのだとしたら」

 私は息を飲んだ。

 そんなことがあるのだろうか。

 助けを求めているこころの想いが、私に伝わったのだとしたら。

「もう一度思い浮かべて。できるだけ詳しく」

 私は目を閉じて、夢の中の光景を、なるべく丁寧に思い出そうとした。

 静謐な空気。

 美しい模様のパターンの中を歩いていくこころ。

 そんなこころに目を向けることもなく、それぞれにたたずむ人々。

 ややあって、悟さんがつぶやいた。

「賢人街」

「賢人街?」

 リナが聞き返した。

「一度だけ行ったことがある。<静かな人々>の住む町だ」

「たしかに、そういう場所なら、リスナーの目からは逃れやすいわね。誰か来ても、周りの人々は、気にとめないでしょうから」

 私にはなんのことか分からなかったが、リナが手を前方に伸ばすと、緑の地面の上に、銀色に輝く滑らかな物体が現れた。

 遠くの建物の窓から、私たちの様子を見ていたらしい、子供達が叫ぶのが聞こえてきた。

「ユーフォ―だ!」

「わあ、乗ってみたいなあ!」

 そう、そこに現れたのは、古典的な映画に出てきそうなUFOだった。

 三人で乗り込み、ハッチを閉めると、内側は、こじんまりとした円筒形のスペースになっていた。

 壁沿いに一段高くなっていて、私たちがそこに腰掛けると、中央にテーブルが現れ、飲み物の入ったコップと、色とりどりの四角いゼリー状の塊ーー食べ物だろうーーをたくさん乗せた皿が現れた。

「食事、まだでしょう。私はさっき済ませたから、お二人でどうぞ」

 リナにそう言われて初めて、私はお腹が空いていることに気づいた。

 薄く味つけされた未来の食べ物は、はかないけれど複雑な味わいがして、次から次へと試してみたくなる。

 歯ごたえのない食事は、あっという間に食べ終わった。

 ほのかに甘い――香りやぴりっとした感じ、塩気や酸味もある――炭酸飲料を飲み干すと、お腹もいっぱいになった。

 なんだか眠くなってきて、私は欠伸をかみ殺した。

「目的地に着くまで、休んでいたらいいわ。サルースが、あなた達は少し睡眠不足らしいって言っていたわよ」

 そうかもしれない。

 何しろ緊張と興奮の連続で、夜もなかなかぐっすり眠れなかった。

 さっきも、広場でついうとうとしてしまったのもそのせいだろう。

 リナがテーブルを片づけ、私と悟さんが横になれるように半円形のスペースを寝椅子のように持ち上げてくれた。

 私は柔らかい布団の上に丸まって、少しだけ眠ることにした』

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