第53話 真っ白な世界

 気がついた時、ナオミは、真っ白な空間にいた。

 まるで一面の雪野原にでもいるような。

 身体の下にはゴムのような感触があり、どうやら白い部屋の中にいるようだ、と気づいたが、どこから光が差しているのかも分からなかった。

 床には自分の影も落ちていない。

床や壁全体がほんのりと発光してでもいるようで、遠近感が分からなくなってくる。

「水城 ナオミさん?」

 涼やかな声が響き、ナオミは声のしたほうを見上げた。

 そこには、見知らぬ女の人が立っていた。

 長い黒髪と、グレーのワンピースの流れるようなラインが、白い背景の中でくっきりと際立っている。

 これは夢なのだろうか。

 と、ナオミはぼんやりと思った。

 それとも、私も未来の世界に連れてこられてしまったのだろうか。

 双葉先生のノートに書かれていた、四〇〇年後の未来の世界に。

「安心して、ここはまだ、あなたの住む世界よ」

 女の人は柔らかく言って、ナオミのそばに近づき、かがみこんだ。

「間に合ってよかったわ」

 手を伸ばして、ナオミを助け起こしてくれる。

 さらさらした黒髪が、一瞬ナオミの腕に触れた。

 長いまつげの下から、澄んだ瞳がナオミをじっと見つめていた。

 美しい人だ、と、ナオミは思い、あることに気がついた。

 たぶん、この人は双葉先生と同じくらいの年齢だ。ということは……

「あなたは、もしかして……こころ……アニマ、という名前ですか?」

 女の人の口元が微笑を形づくった。

「よく知っているのね。誰かから私のことを聞いたの?」

「私、双葉先生の日記を読んだんです」

「日記?」

「たぶん、先生が未来に行った時の日記です。あなたに呼ばれて、あなたを捜して旅をした時のことが書かれていました」

 ナオミは、腕に抱えたままだったノートの表紙を、こころのほうに向けてみせた。

 こころが指でそっとノートの表に触れた。

 懐かしいものに触れるようなその仕草を見て、この人はこの日記を読んだことがあるのかもしれない、と、ナオミはふと思った。

「このノートをクラスメートと読んでいたら、若草先生に追いかけられて……あの、あなたが私を助けてくれたんですか? 私と一緒にいた男子生徒……霧島さんは」

「あの子ならそこに」

 こころが、ナオミの後ろに目を向けた。

 振り返ると、ベッドのようなものに、霧島が目を閉じたまま横たわっていた。

「発作を起こして苦しそうだったから、少し眠ってもらっているの。大丈夫、命に別状はないわ」

 ナオミは、ほっと息をついた。

「ここなら、しばらくは安全よ。あなたも腰をかけて、少しお話ししましょう」

 こころが言いながら腰を下ろすと、床がせりあがってきて、流線形の優美なカウチの形をとった。

 ナオミは半ば夢見心地で、隣に腰を下ろした。

 何が起きたのか、さっぱり分からない。

 どうやって自分がこの不思議な部屋に来たのか、なぜ未来にいるはずのこころがここへいるのか。

 だがそれより気になるのは、双葉先生がなぜ消えたのか、そして若草先生が何者なのか、ということだ。

「双葉先生は、どうなったんですか。どうして若草先生が代わりに担任をしているんですか」

「双葉先生は、私たちが一時的に保護しているわ。時空管理局に目をつけられたから。若草先生は、管理局から派遣されたの。双葉先生と入れ替わって、その間に調査を進める予定だったようだけれど、肝心の双葉先生が見当たらないものだから、今やっきになって行方を探している」

「やっぱり、若草先生は、敵だってことですね」

「敵?」

 問い返されて、ナオミは戸惑った。

 若草先生は、政府の追っ手なのだと勝手に想像していた。時空管理局というのは、政府とは独立した存在なのだろうか。

 そうだ、そもそも、研究所となっている船を脱出した後、双葉先生は、こころたちは、どうしたのだろう。

 リナは、VOICEの基地のありかを、政府に漏らしてしまったと言っていた。

 だとすると、VOICEは襲撃を受けたのだろうか。

「あなたは、そのノートを最後まで読んでいないのね」

 こころが言った。

「気になっているんでしょう。続きを読むといいわ。大丈夫、まだ時間はあるから」

 促されて、ナオミはおそるおそるノートを開いた。

 こんな不可思議な状況で、ノートの内容に集中できるとも思えなかったけれど、ページを繰ると、史学準備室の時と同じように、双葉先生の几帳面な文字が目に飛び込んできて、また四百年後の冒険譚に吸い寄せられた。


 翌朝目が覚めた時、二人は何か言い争っているようだった。

「お前は何の考えもなしに飛びだしたのか」

 悟さんの声がした。

「ずるいわ。今まで私の話なんて聞いてくれなかったのに、急に……」

 こころが叫び返し、それから言葉を飲み込んだ。

「絆……おはよう」

 こころは恥ずかしそうにうつむいた。

「おはよう」

 私が挨拶を返すと、悟さんも同じ言葉をかけてくれた。

「おはよう。とりあえず朝食にしようか」

 円形の空間の中央がへこみ、そこに丸テーブルが現れた。

 こころは不安げな顔をしていたが、食事が配られると、沈痛な面持ちで食べ始めた。

 二人はどんな話をしていたのだろう。

 私はそっと二人の顔をうかがった。

 二人は黙りこんだままだった。

 けれどそれは気まずい沈黙というのとは少し違った。じっと何かを考えこんでいるようだ。沈黙したまま、会話しているようにも見えた。

「どうして?」

 こころがふいに尋ねた。

「やっぱり分からないわ。兄さんは今も心配しているはず。今ごろ基地がどうなっているのか……」

「お前は相変わらず、周りの人の気持ちに左右されるんだな」

 悟さんがこころを諭すように言った。

「僕の感情に流されるな」

「でも……」

「VOICEには、きっとリナが連絡を入れているはずだ。襲撃されると事前に分かっていれば、攻撃を防げる。少なくとも逃げだすことはできる」

「そうかしら……」

 こころがおそるおそる言った。

「きっとその前に、内輪もめが始まるわ。襲撃が始まる前に、命令系統が崩壊する。あの基地には、VOICEにも不満を持っている人たちが大勢いるの。やり方がなまぬるいと思っている人もいれば、ニセコのように兄さんや私に嫉妬している人もいる」

「感応力者の集まりだ。裏切り者がいれば、ことが起こる前に気づくだろう」

「でもみんな離れ離れに過ごしているわ。他の人たちは、あの基地の人のすべての人の気持ちを読み取れるわけじゃない」

 悟さんは、驚いたようにこころを見返した。

「お前には、あの基地にいる全員の気持ちが感知できるのか」

「聞きたくなんてなかった。でも、みんなの感情が、次から次に流れこんできたの。不安や不満、怒りや憎悪が。あの基地の中にいるのが、私は怖くてたまらなかった。いつ爆発するか分からなくて、だからあそこから逃げだした。兄さんも、絆も、早くあそこから出てほしかった」

 追いかけてきて。

 そう言ったこころの切実な表情を思いだす。

 悟さんは、前よりはおぼつかない様子で言った。

「不満を持っているからといって、実際に裏切るとは限らない」

「ただ不満を持っているだけならね。でも、<船>の人たちは、襲撃が成功するという自信を持っていた。襲撃の時に何かが起きるのを予期していた。たぶん、襲撃が起きると同時に、VOICEの一部のメンバーが離反する。それが誰なのか、はっきりしたことは分からないけれど……」

「どうしてだ。全員の気持ちが感知できたなら、お前には誰が内通者か分かるんじゃないのか」

「たぶん、普通のやり方でコンタクトしたのではないと思うの。あの人たちは、新しいやり方を生み出した。記憶に残らないようなやり方で……本人も気づかないような不安を潜在意識に残した」

 それは、不安の種、不和の火種とでもう呼ぶべきもの。

 こころはそう話した。

 記憶には残っていないのに、植えつけられた不安の種は、無意識の底にくすぶり続ける。

 不安が疑念になり、不満に変わり、怒りへ、憎悪へと変わっていくと、何か小さなことをきっかけに爆発する。

 政府軍の襲撃は、そのトリガーを引くのに十分だ。

「その混乱に乗じて、政府軍が乗りこむのか」

 こころはうなずき、怯えた表情で視線をさまよわせた。

「私たち……どうすればいいと思う?」

 悟さんは、苦悩するように目を閉じて下を向いていたが、やがて聞き返した。

「襲撃の予定時刻は?」

「明日の夜。私が船で感じとった限りは、そうだった」

「それなら、まだ猶予はある。それまでに、どうしたいのかきちんと考えろ」

 こころは唇を噛んで下をうつむいた。

「お前は政府から逃げだし、VOICEからも逃げだした。どちらも我慢できないというなら、一生逃げ回って過ごすしかないぞ」

 なぜこころはこんな風に生まれたのだろう。

 人の気持ちに共感し、同化し、それだけでも十分重荷だというのに、あちらからもこちらからも追い回される。

 兵器として。

 こころが安らげる場所はどこにもない。

 悟さんが、ぽつりとつぶやいた。

「いっそのこと、とことん逃げ回るか」

 こころが驚いたように顔をあげた。

「回顧主義者の集団に紛れこむ。ポリスでの生活に慣れている僕らには厳しいだろうが、賭けてみる価値はある。あるいは絆の元いた世界で暮らす……」

 私はドキリとした。

 そういう選択肢もありうるのだろうか?

 そう思いながら悟さんの顔をうかがう。

 また二人と一緒に暮らしていくことができるのか。

「本気で言ってるの?」

「もちろんだ」

 こころは小さく頭を振った。

「嘘。VOICEの支援がなければ、生きていくのは難しい、たった今、兄さんはそう感じていたわ。身分を証明するものも、割り当てられたエネルギーも、体に合う食べ物もない。そんな世界で、どれだけ生き延びられるのかって……」

 ああ、そうだ、と私は目を閉じる。

 私だって、四百年前の時代に放りだされたら、どうなることか。

 おそらく、江戸幕府ができたころ。自分の土地から出ることもできず、関所を破れば捕まってしまうような時代。

 仕事もなく、土地も、家も、身寄りもない人間が生きていくことなどとてもできそうにない。

 こころにとっては、私の住んでいた時代はそういうところなのだ。

 この人たちは、念じるだけで、食事でも衣服でも住居でも自由に取りだせる時代に住んでいる。部屋の中にいながらにして好きな場所を旅し、暑さ寒さにも悩まされずに、砂漠を歩いたり、雪山を上ったりできる。

 心の自由は奪われているけれど、そこさえ目をつむれば、天国のように快適な世界だ。

「今、サルースさんのことを思いだしたのじゃない? アウディのこと……リナやニセコのこと。みんなを見捨てたら、兄さんはきっと後悔する」

 悟さんが頭を振った。

「僕の感情に流されるなと言ったろう。どうせ一時のものだ。あと一日もすれば、ひょっとしたらあと何時間かで、消えてなくなる」

 口に含んだ餅状の食べ物が、喉にひっかかった。それから無理やり飲みこんだけれど、喉に息苦しさが残った。

 こころは辛そうな顔をしていた。

「こころ、感じることがすべてだと思うな。お前がそう思うなら、感情をなくした後の僕は、人形と変わらない」

 悟さんはこころの瞳を見つめた。

「感じることは、その時々で変わる。何かをしようと思ったり、投げ出したくなったり。愛したり、憎んだり。でも、僕らはその場その場で感じたとおりに行動するわけじゃない。何が正しいのか。何を大切にするのか。自分で判断し、自分の意志で生きる。それが人間だ」

 悟さんが、指でテーブルの上をなぞるようにした。

 テーブルの上に、小さな小さな人形のようなものが現れた。

「ああ」

 沈鬱な表情をしていたこころが目を輝かせた。

「テラだわ。いつ手に入れたの?」

「旅の途中で。この旅での思い出に」

 小型のテラ人形が、歌い始めた。

 それは、コンサート会場で聞いたテラの歌だった。

 ささやくような歌声が、ポットの中に流れだす。

 哀しげに、力強く。孤独を選んでも、信念を貫いた、テラの声が、流れていく。

 こころは、目をうっとりと閉じて、音楽に耳を傾ける。

「感情に意味がないとは言わない。間違った決断をすれば、この先ずっと苦しむのはお前だ。だから、周りの人間の心でなく、自分の心の声を聞いてみろ」

「私の心?」

 こころは、戸惑うように尋ね返した。

「お前にとって、一番大切なものはなんだ」

「私……私は……」

 こころは眉根に皺を寄せて考えこんだ。

 あまりに重すぎる質問だと思った。

 こんな決断を迫られる時では。

「兄さんは……? 兄さんにとって大切なのは?」

 悟さんは、黙ってこころを見返した。

 それからわずかに微笑んだ。

 こころは、目を閉じ、苦しそうにうつむいた。

 ふと、悟さんが立ちあがった。

「少し外を散歩してくる」

 こころが驚いたように顔を上げた。

「お前も少し頭を冷やしたらどうだ。このあたりの外気なら、しばらく吸っても大丈夫そうだ」

 悟さんはそういって、ポッドを出て行った。

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