第52話 逃げろ

 再会の余韻に浸っている暇はなかった。

 船は軌道を見失っていたし、<逆流>が止んで船のクルーが正気に戻る前に、私たちは外へ逃げださなければならなかった。

 私たちは元来た廊下を駆け下りた。

 悪夢のような光景は消えていて、そこにはただ、滑り止めの凹凸のついた、ペールホワイトのなだらかな通路があるだけだった。

 カーブを曲がった先で、女性が床にぺたりと座り込んでいるのが見えた。

 私はぎくりとしたが、私たちが通りすぎるのを見ても、女性は座り込んだまま、その場を動こうとしなかった。

 まだ呆然自失していたのかもしれない。

 あるいは、また幻が現れたと思ったのかもしれない。

 それともひょっとして、何もかもどうでもよくなってしまったのだろうか。あの嵐のような<逆流>にさらされて、それまでの価値観をくつがえされてしまったのかもしれない。

―私はなぜ、ここで仕事しているのだろう?

―なんのためにここにいるのだろう?

 というような。

 だが、誰もが我を忘れていたわけではない。

 その先にいた男は、私たちを見るや、銃を掲げて、止まれ、と叫んだ。

 男の銃口の先は、私の先を走っているこころに向けられていた。

 こころは速度をゆるめず、まっしぐらに男のいる通路の先へ駆けていく。

 男の銃から、パチっとはじけるような音がした。

 こころの身体がゆらりと傾き、私は恐怖で心臓が止まりそうになった。

 だがこころは倒れなかった。

 転びそうなほどの前掲姿勢で走り続け、男の前まできて、とうとう気を失ったように、ふぅ、と倒れこんだ。

 男の胸へ。

 虚をつかれ、バランスを崩した男の横から、追いついた悟さんが飛びかかった。

 気を失って廊下に転がった男を振り返りもせず、こころはすぐに受身をとって立ちあがり、走りだす。

 見事な連携プレーに、私は驚き、舌を巻いた。

 悟さんがバスケットにサッカーボールでゴールを決めた時、私は意外に思ったものだけれど、二人にとってスポーツは、生き延びるための手段だったのかもしれない。

 坂を駆け下り、脱出用ポットに乗りこんだ。

 乗りこもうとする時、こころがふと尋ねた。

「どこへ行くの?」

 悟さんは何か言いかけたが、口をつぐんだ。

「その件は、後でゆっくり話そう」

 こころは少し意外そうな顔で、うなずいた。

 ポッドが船から解き放たれた。

 外はすっかり日が沈んで、真っ暗になっていた。

 漆黒の闇の中を、ポッドはゆっくりと落ちていき、地面の上に着地した。明かりひとつないジャングルの中に。

 シティの外では、星明りと、頭上の船のライトのほか、なんの光も見えなかった。

 ポッドには三日分の飲食料が保存されていた。

 中は円形の空間になっていて、三人ならば、どうにか足を伸ばして寝ることもできる。

 だが、移動手段というとせいぜい時速二〇キロ程度しか出ず、自動走行させれば母艦に探知される可能性もあるという。

 着地点から、十キロほど走った辺りで、その晩は泊まることにした。

 私はこころと頭を並べて眠った。

 こころは無事だったものの、追っ手がいつ来るか分からない。私たちが目指すべき目的地さえ分からない。

 そんな状況だというのに、相当疲れていたのだろう、すぐに意識がなくなり、その晩私は、夢も見ることなく、ぐっすりと眠った。


 ドアが開く音がして、ナオミは身をすくめた。

 それから、自分がどこにいるかを思いだした。

 こころと絆の再会に気をとられて、ここが史学準備室であることさえ忘れていた。

 そうだ、霧島と一緒にノートの続きを読んでいたのだ。

 入口に鍵をかけて……鍵?

「こんなところで何をしているの?」

 聞き覚えのある声がし、ナオミはハッとして顔をあげた。

 若草先生が、腰に手をあててナオミたちを見下ろしていた。

「私のクラスには、とんだ問題児がいるようね。水城ナオミさん。少し手ぬるかったかしら」

 先生が大学ノートに目を落とした。ナオミはあわててノートを閉じ、胸に抱えた。

 幸い、若草先生は、ノートに興味を失ったようだった。

「悪い子たちには、きついお仕置きをしないとね」

 先生はポケットに手を入れた。ナオミの目の前で、取りだしたものを揺らしてみせる。

 ナオミは、目を見開いた。

 あのペンダントだ。

 光の加減か、あの神秘的な青い光は失われ、白くくすんで見えたけれど、間違いない。

 ナオミはとっさに手を伸ばして、先生の手からペンダントを引ったくった。

 そしてそのまま廊下へ走りだした。

「何をするの、返しなさい!」

 後ろから先生の声が追ってくる。

 ナオミは必死に駆け続けたが、何かおかしい。いくら足を動かしても、前へ進まない。

 振り返ると、先生の姿がすぐそこにあった。

 史学準備室のドアから霧島が顔を覗かせていた。

 苦しげな顔をしている。

 発作が起こったのじゃないかと、ナオミは心配になった。

 先生の手が、ナオミの肩に触れた。

 ナオミはペンダントを、拳の中に握りしめた。

 ダメだ、これは霧島さんのものだ。正確には、双葉先生のものだけれど、霧島さんの命を救うもの。他の人には渡せない。絶対に。

 その途端だ。

 廊下の景色がぐにゃりとゆがんだ。

 平衡感覚を失い、ナオミは床に倒れふした。

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