第51話 氷の檻
『
だしぬけに、手の中のハンドルの感覚が消えた。
代わりに、冷たい風が吹きつけてきた。
凍りつきそうなほど冷たく、立っているのもやっとというくらいの強い風。
私はおそるおそる目を開けたが、暗くて何も見えなかった。
「こころ」
闇の中に呼びかける。
「こころ、どこにいるの?」
ぽっと暗闇の中に、小さな明かりが灯った。
蛍の光のように。
やがてそれがふたつ、みっつ現れ、辺りは満点の星空のようになった。
私は、氷の上に立っていた。
湖面のようなたいらな氷の上に、真っ白なとがった氷の棘が無数に突き出していた。小さなものは、ほんの霜柱くらい。大きなものは私の背丈よりも大きかった。
無数の棘の山の向こうで、強く輝く光が見えた。
こころはきっとあそこにいる。
私は一歩踏み出した。
足の下で、小さな棘が砕け散った。
先に進むにつれ、棘はだんだんと大きくなり、歩けるスペースはどんどん少なくなっていった。
小さな明かりだけを頼りに、斜めに突き出した大きな棘の上に足をかけたとたん、私は滑って無数の棘の上に横倒しになった。
痛いのか冷たいのか、もはやよくわからなかった。
たいした痛みではない。こころの痛みに比べたら。悟さんの痛みに比べたら。
自分にそう言い聞かせ、どうにか立ち上がってまた一歩を踏み出す。
どこからか、かすかな声が聞こえた気がした。
――絆。
「こころ」
辺りを漂う光が、いっそう強くなった。
私がもう一歩踏み出すと、足元の氷の棘が、バラバラと崩れ落ちた。
暗闇の中、小さな無数の光を反射して、氷のかけらが散らばっていくさまは、たとえようもなく幻想的だった。
もうさえぎるものは何もない。
天の川の中を歩いているような心持ちで、私は砕け散っていく氷の中を進んでいった。
しまいに私は、強い光の前までやってきた。
そこには細く高い棘が、氷でできた檻がそびえていた。
棘の隙間から、光が漏れ出していた。
覗き込むと、すぐ向こうに、死んだように横たわるこころが見えた。
すぐそばにいるのに。あと少しなのに。
どうやったらこの牢獄を壊せるのだろう。
私は、何か暖かいものを思い浮かべようとした。
ろうそくの炎。もっと大きなもの。暖炉の炎。キャンプファイヤーの炎。
辺りを舞っていた蛍のような光が、ゆらゆらと揺らぎ始めた。次第に光が集まり、大きくなり、その中に、懐かしい情景が浮かび上がってくるのが見えた。
赤ずきんが目にしたというマッチの中の景色は、こんな風だったろうか。
いや、景色だけではない。
初めて教室でこころを目にした時の不思議な感覚がよみがえってきた。
屋上で、こころと一緒に食べたお弁当の味も。
初めてこころが、友達、と呼んでくれた時の、温かな気持ちも。
そればかりか、見たことのない不思議なものまでが浮かんできたように思った。
幼いころの愛らしいこころの姿や、布にくるまれた赤ん坊。
泣きじゃくるこころ。怒った顔のこころ。微笑みながらまどろむこころ。
これはこころの、いや、もしかして、悟さんが見ていたこころだろうか。
私は悟さんがどこにいるのだろうと、辺りを見回したが、ゆらゆらと揺れる光に幻惑されて、あたりの様子が見てとれなかった。
氷の檻が、赤々と照らし出されてまるで燃えるように見えた。
もう少しで溶けて消えてなくなりそうに思える。
氷の棘を握りしめると、痛みで手がひりついた。
溶けろ、
と、私は心の中でつぶやいた。
砕けろ。
届け。
まぶしくて目が開けていられなくなり、私は目を閉じて祈った。
――こころ、あなたに会いたい!
手の中の冷たい感覚が、ふいに消えた。
それまで感じていた身を切るような寒さも失せ、辺りを吹いていた風もぴたりと止まった。
おそるおそる目を開けると、目の前にはもう檻はなく、滑らかな氷の上に、こころが横たわっていた。
私はこころのそばに近づき、かがみこんだ。
こころの顔は青ざめていたけれど、やはり美しかった。
物語のお姫様のようで、あるいは月に向かうかぐや姫のようで、声をかけるのがためらわれるくらいに。
それでも、私は、私をここに呼び寄せてくれた親友に、そっと呼びかけた。
「こころ、大丈夫?」
おそるおそる手を伸ばすと、こころのまぶたがうっすらと開いた。
うつろな目が私を見上げ、はっきりと焦点を結ぶ。
「……絆?」
弱弱しい声が聞こえた。
「来てくれたの……?」
私はこころの手を取った。
「迎えに来たよ、こころ。悟さんと……お兄さんと一緒に」
こころは、怯えたような、どこか期待するような瞳を、宙をさまよわせた。
私は辺りを見回し、こころの探していた人を見つけた。
少し離れたところに立って、目を閉じたままじっと下をうつむいている。
励ましの声をかけようとしたけれど、心の耳を澄ましているのかもしれない、と思って、思いとどまった。
どのみち声などかけなくても、私の心の声は、二人に届いているはずだった。
やがて、悟さんは、決心したように、小さく息を吐きだした。
ゆっくりと顔をあげて、こころを見つめる。
二つの視線が絡み合った。
私はその様子を、ただじっと息を詰めて見ていた。
そのまま、ずいぶん長い時間がたったように思えた。
それともそれは、ほんの一瞬だったのだろうか。
私には心を見ることはできないけれど、無数の言葉が、言葉にならない想いが、二人の間を行きかうのが見えたように感じた。
しまいにかすかに、ためらいがちな声が響いた。
「兄さん……」
こころのいつもの澄んだ美しい声は、おどおどしていて、恥ずかしそうで、期待に満ちていて、それでいてすねているようで、幼い子供の声のようだった。
「こころ……僕は……」
今までいつも、滑らかによどみなく出てきた悟さんの言葉は、震え声のままそこで途切れた。
結局その先の言葉を聞くことはできなかった。
こころが立ち上がって、悟さんに歩み寄ったのだ。
こころの白い細い指先が、悟さんの背に回され、悟さんがこころをしっかりと抱きしめていた様子に見とれていた私は、こころにこう言われて初めて気がついた。
「絆……泣いてるの?」
きっと忘れることのできない永遠の瞬間。
私は顔中涙にして、泣き続けていた。
』
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