第50話 ドアの向こうに
『
私たちは廊下に折り重なって倒れていた。
殺風景な廊下は、なだらかなカーブを描きながら、らせん状に最上階へと向かっている。
身を起こした私は、悟さんの様子を見てぎょっとした。
肩口から血がにじみ出ていた。
さっきのナイフに傷つけられたらしい。
「大丈夫ですか?」
悟さんは肩に手をやり、指についた血を見つめた。
「たいして深い傷じゃない」
つぶやいて、ゆっくり立ちあがるが、どことなく動作に力がない。
ゆるやかなカーブを描く通路を、私たちは一歩一歩進み始めた。
たいした傾斜ではないのにきつい坂を上っているようで、私たちは数歩進むごとに立ち止って肩で息をしていた。
悟さんは、私以上に辛そうだった。
「傷、痛みますか?」
私は何度か尋ねたが、無言で首を振るだけだった。
しまいに悟さんは立ち止まったまま動かなくなった。声をかけても返事がない。
「待っていてください。私、こころを呼んできます」
私は言って、手すりをたよりに歩き始めた。
ドアはすぐ近くに迫っていた。
映画で目にする銀行の金庫室のような、巨大なハンドルのついた物々しいドアだ。
ドアの向こう側で、何かゴウゴウと唸るような音がしていた。
ハンドルに手を触れた瞬間、静電気のような刺激が走り、私は思わず手を引っこめた。
中から稲妻の張り裂けるような音が聞こえてきた。
私は振り返って、通路の先の悟さんに呼びかけた。
「教えてください、どうやって開けたらいいんですか」
悟さんは、苦しげに息を吐きだした。
「僕には開けられない」
「でも……」
私はドアを振り返った。
このすぐ向こう側に、こころがいるはずなのだ。
私一人では、部屋のロックを開けることはできないとリナは言っていた。きっと悟さんの力が必要だ。
「さっきの僕を見ただろう。あれはただの幻じゃない、こころに見えている僕だ。こころは僕を憎んでる」
「そんな。こころはきっと……怖がっているだけです……」
「あれは警告だ。今顔を合わせればああなるという。だからこうして、僕の体に傷をつけたんだ」
悟さんは肩口に手を当てた。
すっかり青ざめた悟さんは、見ていて痛々しかった。
立っているのでさえ辛そうだ。
「君も知っているだろう。感情を制御できないまま、感応力者同士が顔をあわせるのがどれほど危険なことか。まして今のこころは、能力が暴走している。互いの憎しみが増幅しあえば取り返しがつかないことになる」
憎しみ?
「絆、残念だが僕は、君が思っているような立派な人間じゃない。ビッグ・マザーのように、自分を愛さない人間を一方的に愛したりなんて真似もできない」
私はドアから離れて、悟さんのすぐそばまで戻った。
心の見えない私にも、その苦しみがほんの少しでも分かち合えればと思って。
傷が痛むのではない。悟さんを苦しめているのは、心の痛みだ。
「こころが逃げださなければ、あの人は死なずに済んだ。ニセコもリナもあんなことにはならなかった。タイプAは、いや、僕らは……生まれるべきではなかったのかもしれない」
悟さんは、小さく息を吐きだした。
「こんなことを思う人間があいつに顔を合わせるわけにはいかないだろう? 危険すぎる」
「でも、それは悟さんの本心じゃありません。実際には十年間もこころを守り続けてきたじゃないですか」
「それが何になったんだ? 君がさっき目にした光景……あれはこころの見てきた僕だ。僕のしたことは結局、十年間あいつを苦しめてきただけだった」
本当は、苦しめたくなかったのに。
私には、その言葉はそう響いた。
「あいつは僕を憎んでる。これ以上近づくなと言っている」
私は首を横に振った。
「さっきの光景は、こころの生みだしたものじゃないと思います……」
こころは、自分を憎んでいる人間だって許せる心の広い人間だ。自分を傷つけようとする敵にでさえ共感してしまう。そんなこころに、悟さんを傷つけることができるなんて思えなかった。
「こころじゃなければなんだっていうんだ? 君があの人形を生みだしたとは思えない」
今なら分かる。
あれはきっと、悟さんの無意識だ。
こころの苦しみに気づいて、自分を傷つけ罰しようとした悟さんの良心。
こころはきっと、そんな悟さんの気持ちに寄り添えるはずだ。
悟さんはじっと私の感じていることに聞き入っていた。
「君はこころのことも僕のことも買い被っている。こころが僕を許せなかったら? 僕もこころを許せなかったら?」
「そうやって恐れる気持ちが、きっとさっきの光景を生みだしたんだと思います」
悟さんが顔をあげてドアを見つめた。
目を閉じ、二度、三度と深呼吸する。
私は心の中でずっと祈り続けた。
それはもはや言葉にすらならず、無我夢中な何かが私の中を駆け抜けていくだけだった。
がんばって――大丈夫だから――お願い――
最後に目を開けた時、悟さんはつぶやいた。
それは、私が聞いた中で、一番勇気のある言葉だった。
「もしあいつが僕を憎んでいるとしても……」
砂を噛みしめるように言う。
「僕は、それを受け入れないとならない……心が残っているうちに」
それからまた歩き始めた。
ゆっくり、ゆっくりと。
私は隣で、歩調を合わせて一緒に歩いた。
こころ、もうすぐだよ。すぐそばまで迎えに来たよ。
そう心の中で繰り返しながら。
それからどのぐらいたったか、私は悟さんと一緒に、ドアの前まで戻ってきた。
ハンドルに触れた瞬間、悟さんは一瞬びくりと体を震わせたが、手を離すことはなかった。
「絆、そっちを握って。右側に回るよう念じるんだ」
この時代の装置は、考えることで動かすのだ、と、私は思い出した。
私は近づいて、ハンドルに触れた。
びりっと痛みが走ったが、一瞬だけのことだった。私はハンドルを握りしめた。
悟さんは、祈るように目を閉じ、眉間に皺を寄せて、ハンドルを握りしめていた。
目を閉じると、遠い昔の記憶がありありと蘇った。
あの時も、雷の音が響いていた。
嵐の中、悟さんとこころを探し回り、ようやくたどりついた。
あの時私は、確かにこころの声を聞いた。
私達の心は、たしかに響きあったのだ。
待っていて、こころ。もうすぐ助けに行くから。
ハンドルが回転する様子をイメージし、心の中で唱え続ける。
動け、動け、動け!
やがて、ゆっくりと、ドアのハンドルが回り始めた。
』
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