第49話 暴走
『どのぐらいたったころだろう。
通路から、足音が響いてきた。
勢いよくドアが開き、私は身を縮めた。
ドアの向こうに立っているのは、ニセコだった。
だが、どこか様子が変だった。
顔面蒼白で、わなわなとふるえている。
「アニマが……」
「どうした、何があったんだ」
ニセコはそのまま床に崩れ落ち、頭を抱えた。
悟さんと私は、思わず顔を見合わせた。
私たちが立ち上がっても、ニセコはうずくまったままで、出ていくのを止めようとさえしなかった。
不審に思いながらも、ドアの向こうに目をやった私は、息を飲んだ。
ドアの先の廊下は、びっしりと、蔦のつるのようなもので覆われていた。
つるが、生き物か何かのように、するすると伸びてきて、ニセコの肩をつついた。
ニセコが悲鳴をあげ、床に転がった。
悟さんは、宙を揺れているつるとニセコを見比べた。
「何があったんだ……こんな兵器は見たことがない」
「<逆流>が暴走しているの」
リナの声がした。
つるをかき分けて、武器を手にしたリナが、ドアの向こうから現れた。
「実験は失敗。やはり、ニセコはアニマを制御できるような器ではなかったわ。感情があふれかえって、リスナー達は恐慌状態に陥っている。感応力のないパイロットですら、けんかになって殴り合いを始め、気を失った。今では母艦ごと暴走を続けてる」
悟さんはつるをつかもうとし、小さく声をあげた。
指先から血が出ている。
「気をつけて。そのつるには、とげがあるから」
「船全体がこの調子なのか?」
「いろいろな影響が出ていて、一概にはいえないわ。この船は『ユニット』と同じ。みんなの混乱した感情と意志が、あらゆるものを生みだしている。私たちは、アニマとみんなの生みだした悪夢の中にいるの。逃げたいなら、今のうちに船の先端を目指すことね。運がよければ、通路の先の脱出用ポッドにたどりつくでしょう」
「君はどうするつもりなんだ」
「どのみち、逃げ場はないもの。VOICEを裏切った時から」
リナは冷たい笑みを浮かべた。
次の瞬間、リナは手にしていた銃を持ちあげ、こめかみに押し当てた。
悟さんの動きはすばやかった。
リナに飛びつき、腕をねじりあげた。
パスっと小さな音がして、壁に小さなくぼみが穿たれた。
リナはたいして抵抗もしなかった。
悟さんが銃を取りあげ、リナに向けても、ただじっと無感動な瞳で見返すだけだった。
「どうぞ。撃って」
リナが静かに言った。
「アニマはどこにいるんだ」
「船の最上階よ。でも近づくのは難しいでしょうね。近づけば近づくほど、<逆流>の影響が強くなる」
悟さんは銃を手にしたまま、何か迷っているようだった。
「どうしたの。ここで私を撃っても、誰もあなたを訴える人なんていないわ。私だって、こんな状態で感情を取り戻すぐらいなら、このまま死んだほうがましよ」
「脱出ポッドはいくつあるんだ?」
「来た時には、二、三機は残っていたはずよ。四人乗りのものが」
「君はまだ<逆流>の影響を受けていない。ニセコを連れていけるだろう」
「今更どこに行けって言うの? 政府に戻る手土産はなくなり、私はVOICEを裏切った。ニセコはビッグ・マザーを殺したのよ」
「ニセコや君がああいう行動をとったのは、不完全な施術の影響だ。酌量の余地はある」
「感情を取り戻したら、私自身が耐え切れないかもしれない。私たちは基地の場所を政府に明かしてしまったの」
悟さんは、さすがに驚いたように沈黙したが、やがて言った。
「それは君が受け止めるべき問題だ。悪いことをしたと思うなら、君には差し迫っている危険をVOICEへ伝える義務がある」
「あなたはどうするの?」
「僕はアニマを取り返しに行く」
リナは小さく首を振った。
「無理よ。あなたは、暴走した逆流がどんなものか分かっていない。リスナーはとくに強い影響を受ける。感情も持っている今のあなたじゃ、とてもまともな状態ではいられないわ」
「私が……」
私はどこか足元がふらつくような感じを覚えながら言った。
「私が行きます……」
感応力者と違って、私ならば<逆流>の影響を少ししか受けないはずだ。
「船中の機能がめちゃくちゃになっているのよ。あなた一人では、部屋のロックを開けることはできないわ。たどりつくことさえ難しいでしょう」
「でも……」
こころを見捨てて逃げるわけにはいかなかった。
私は悟さんの顔を見上げた。
「悟さん、私……」
悟さんが小さくうなずいた。
「リナ、君はニセコをポッド連れていくんだ。僕らはアニマのところへ行く」
とげだらけのつるをかきわけながら、私たちは慎重に廊下を進んだ。
しばらくすると、つるは減っていったが、代わりにもっと奇妙なものが現れ始めた。
できそこないの車のようなものが壁から突きだしていたり、トカゲのようなものが走り回っていたり。
そこらじゅうが無茶苦茶に、ありとあらゆるものであふれかえっていた。
サーベルが転がり、宝箱が口を開けて、黄金の財宝やドクロを見せびらかしている。
ソファでできたバリケードの隙間からは、黒光りする銃口がいくつも覗いていて、近づけば今にも撃たれそうだった。
迂回して反対の廊下へ進むドアを開けると、中から無数のビー玉が転がりだしてきた。
陶器の皿や、柱時計。くまのぬいぐるみに、ままごと用の人形。
がらくたの間を進んでいく間、ビー玉のいくつかが後を追うように転がってきた。気味の悪いことに、よく見ればその中心には目玉みたいな黒い虹彩がついていて、私たちを監視しようとしているようにも見える。
床にぺたりと座りこんだまま、頬を涙に濡らしている男も見た。
「ママ……ママ……」
男はうわごとのようにつぶやきを繰り返し、うつろに宙を見つめた瞳には、私たちの姿さえ、目に入っていないようだった。
私たちは、ゆるやかなカーブを描く坂を上がっていった。
天井からさらさらと砂が降り注いで、廊下に砂だまりを作りだし、私たちを坂の下へ押し流そうとした。
重い砂をかきわけながら先へ進む。
悪夢のような世界を歩いていくうち、次第に私は奇妙な気分にとらわれ始めた。
迷子になった時のような焦燥感。
このまま永久にここを抜けだせないのではないかという焦り。
あるいは、何かに取り残されたような感覚。
壁から生えた風車が、カラカラと音を立てて回っている。
誰かのすすり泣きが聞こえてくる。
耳鳴りがし始めた。
心臓の鼓動が次第に早くなり、息をつくのさえ苦しくなってくる。
私は立ち止り、悟さんのほうを振り返った。
そしてぎょっとして立ち止まった。
そこには、悟さんの姿はなく、黒っぽい岩塊が立っているきりだった。
岩塊が震え、岩がばらばらと剥がれ落ち、中から悟さんの姿が現れた。
悟さんは、額に汗を浮かべていた。
「誰かが僕が進むのを妨害しているんだろう。それとも僕の無意識か」
悟さんは、青ざめた顔で微笑んで見せた。
「大丈夫。意志の力が上回れば、先に進める」
悟さんはそう言って、足を踏み出した。
一歩歩くごとに、足元から砂が盛りあがり、硬い岩となって足を封じこめようとした。
岩の中から、足を引き抜くようにして前へ進んでいく悟さんを、しかし、それ以上見ていることはできなかった。
私も、流砂の中に、いや、そればかりでなく、自分の中にぽかりと開いた空虚な空間に、今にも飲みこまれそうだった。
怖くてたまらないのに、何が怖いのかさえ分からず、ただ息が詰まり、全身が重たくなっていくのだった。
ゆくてに、蜃気楼のように、少年の姿が浮かびあがった。
それは、小学生のままで成長を止めてしまった兄の姿で、私を見つめて無言の非難を送っているように思えた。
僕の人生はとっくの昔に終わってしまったのに、お前はなぜ、何のために生きているんだ?
砂に飲みこまれて消えていく兄貴の姿を、私はただぼんやりと見つめていた。
人は誰でも吸いこまれていくのだ。あの砂の中に。
たとえようのない無力感がじわじわと私を侵食し、飲みこもうとしていた。
所詮、私が何かしようなどと考えること自体、無謀なことだった。
今まで私に何ができただろう。迷子になったり、具合が悪くなったり、ただあたふたとしていただけ。その私が、こころを助けるなんて、あまりにも無謀すぎる。
こころを連れだしたところで、何ができるというんだろう。
どのみちこころには、VOICEへ戻って兵器になるか、政府の元で兵器として生きていくかの二択しかないのだ。
私のしてきたことは、結局、何もかも無意味だ……
とうとう流砂に飲みこまれ、私の視界は暗闇に覆われた。それでも不思議と、砂が目の中に入ってくるようなことはなかった。
私は暗闇の中を、泳ぐように歩き続けた。
ゆくてに、人々の姿が現れては消えた。
大声でののしりあっている男たちを見かけた。
頭を抱えて涙を流している女の人。柱に向かって、わめきながら殴りかかっている男の人もいる。
中学のころの友人。先生。
それからもっとさまざまな人の顔が、浮かび、かすみ、流れていった。
転校生活を繰り返すうちに、私の人生を通り過ぎていった人たち。
今ではもう、誰とも連絡を取っていない。名前さえ覚えていないクラスメートもいた。
<あの中のどれだけが、お前のことを覚えていると思う?>
どこかから声がした。
<お前のちっぽけな人生に、なんの意味があるんだ?>
意味なんかない、と、私は思った。
テラのように、成し遂げたい夢なんて私には何もない。
必死に勉強して高校に入っても、私は無力感に苛まれるだけだった。
それに、テラにしろこころにしろ、結局いずれは死んでいくのだ。だとしたら、生きていることに何の意味があるのだろう。
しまいにこころの姿が見えた。
長い髪をなびかせ、体育着を着、物憂げな表情でどこかを見つめているこころの姿が。
私のちっぽけな人生の中でただひとつ、宵の明星のように輝いていたあの時が、ふと脳裏によみがえった。
私は、こころへ向かって駆け寄ろうとした。
けれど、足が前へ進んでいかなかった。周囲の空気は、ふいにねっとりと粘性を増したようで、もがいてももがいても、先へ進んでいかないのだった。
こころの赤い唇が動いた。
<言ったでしょう。私は友達なんていらない>
――どうして? 私たち、分かりあえたと思ったのに……
<あなたなんかに何ができるの。高校に入るまで、私のことなんて忘れていたくせに>
こころの顔が、ふいに恐怖にゆがんだ。
そして、叫んだ。
「やめて、兄さん!」
その途端、こころの口から赤いものが噴き出し、床に崩れ落ちた。
私は息を呑んで、こころの向こうに立つ悟さんを見つめた。
「こころは死んだ」
ナイフを手にした悟さんが、感情のこもらない声で言う。
「なぜ傷ついたふりをするんだ。人生に意味なんてない。こころを幸せにすることなんてできない、たった今、君はそう考えたはずだろう」
「違う、違います。私は、こころを……」
私は頭を振った。悟さんは話を続けた。
「こころがいなくなれば、逆流は止められる。こころを巡っての争いも終わる。生きたまま逃げ続け、苦しみ続けるなら、早く終わらせてやったほうが本人のためだ」
――違う、違う、違う、違う……
私は頭を振り続けた。
悟さんがゆっくりと近づいてきた。
目の前に、冷たい刃物の輝きがあった。
いつか車の中で見たナイフ。私に向けられたことのある、あのナイフだ――
ぐいと腕をひかれた。
ぐるりと向きを変えた私は、もう一人の悟さんが、向こうに立ち尽くしているのを見た。
両足に、岩のかけらがいくつもまとわりついて、歩いてきた道に尾を引いていた。
「絆……?」
悟さんが戸惑ったような声を出した。
「……本物なのか?」
「双葉さんはね」
背後から、ナイフを手にした悟さんの偽物の声がした。
目の前の悟さんが、地面に横たわるこころに目を落とした。
「そのこころは……本物じゃない。ユニットの生み出した空想の産物だ」
「違いがあるかな?」
柔らかな声の調子で、背後の悟さんの表情が、なんとなく想像できた。
微笑んだのだ――愛想よく。
「ここで起きていることは、ただの絵空事じゃない。僕らの集合無意識の生み出すリアルだ。僕は君だし、こころを殺したのは、僕であり、君だ」
「どういうことだ」
「自分でよく分かっているだろう。僕は、君はこころを殺し続けた。十年の間、ずっと。それがこの結果だ」
目の前の悟さんは青ざめた顔で立ち尽くしていた。
背後の悟さんが言った。
「引き返せ。それとも、この光景が現実になるのを見たいか」
首筋に、何かひんやりとしたものの感触があった。
ナイフだ、と気が付いて、私は身をこわばらせた。
「これは警告だ」
声は、呼吸すら乱さず、冷静な調子で話を続けた。
「ずっと重荷だったんだろう。こころさえいなくなれば。何度もそう思ったはずだ。それならなぜ、いい兄を演じ続けようとする?」
嘘だ。
私はつぶやいた。
悟さんはこんなことはしない。こんなことは言わない。
「悟さん」
私は、決して振り返らないようにと自分に言い聞かせながら、目の前の悟さんを見つめた。
「先へ進んでください」
「絆……君は分かってない」
目の前の悟さんが、私を見つめたまま小さく首を振った。
「誰かの狂気から生みだされたものでも、ナイフはナイフだ。触れれば傷がつく」
「はい。でも、昔、悟さんに教えてもらいました。ナイフはただの道具。意志の力がなければ動かないって」
首筋にひんやりとした感触を覚えながら、私は自分に言い聞かせた。
これはまがい物だ。念じればサンドイッチにも車にもなる、魔法で作られた物質だ。
「この人形は意志なんて持っていない。誰かが生みだした幻のようなものだから。私たちの意志が強ければ、切り抜けられるはずです」
言った瞬間、自分でもすとんと腹に落ちた。
まがい物の悟さんを生みだしたのは、こころだろうか、悟さんだろうか、私だろうか……
たとえそれが誰だとしても、実際に私を傷つけたりするはずがない。
私たちの誰一人、実際に誰かを傷つけたいと思ったりしてはいない。
私はこころの顔を思い浮かべ、必死に念じ続けた。
こころ、あなたに会いたい、あなたに会いたい。
ふっと私を締めつけていた力が、ゆるむのを感じた。腕の中から逃れ出ようとした時、目の前の悟さんが、砂の上を蹴るのが見えた。
シュッ、と空を切る音がし、目の前に足が伸びる。
ナイフが回転しながら宙を舞った。
ナイフが落ちてくる……!
悟さんが飛びついてきて、私は砂の上に倒れこんだ。
背中にあった砂の感触が消えた。
私をとりまいていた砂漠が消え、辺りが明るくなった。
』
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